●地域で元気〜NPO・住民グループ
南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム(千葉・館山市)
「平和・交流・共生」の地域づくりに歴史・文化を活かす 愛沢伸雄
新市民伝*池田恵美子さん
NPO法人南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム事務局長
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「東京湾要塞」から大戦を知る
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第二次世界大戦末期、「本土決戦」に備え多くの軍事施設がつくられた千葉県の房総半島南部。「東京湾要塞」と呼ばれた。その遺跡の保存と地域の再発見を呼びかけている。
半島南部の館山で育った。家の前の直線道路は旧館山海軍航空隊の滑走路跡、遊び場は地下壕や砲台跡だった。
小学校の終わりにハワイのサマーキャンプに参加したとき、日本軍の真珠湾攻撃を教えられた。教科書で学ぶのとは違う衝撃を受け、戦争とは何かを真剣に考えた。
フェリス女学院大から保険会社などで東京に17年。体調を崩して00年、館山に戻る。地域雑誌の編集をしていた際、戦跡の調査と保存活動を続ける高校教師と出会った。
「館山の基地で訓練を受けたパイロットが真珠湾に出撃した」
「基地に近い赤山地下壕(総延長約2キロ)では、無線で太平洋全体の戦闘を指揮していたのではないか」
ふるさとが戦争で果たした役割を知った。学校の勉強だけではわからないことがある。
「子どもたちに戦跡を見てまず何かを感じてほしい」
04年、高校教師とともに戦跡を保存・活用するNPO法人を設立した。市は赤山地下壕を一般公開し、文化財に指定した。年間約1万5千人が訪れる。特攻基地などを含めた戦跡の見学コースをつくり、ガイドも養成する。
住民の歴史も掘り起こす。戦争中、地元農家は食糧増産のため栽培を禁じられた特産の花の種を隠して残した。戦争だけではない。「八犬伝」の里見氏の城跡、4言語が刻まれた江戸時代初期の石塔、渡米したアワビ漁師…。
「先人の営みに学びたい」
(編集委員:辻陽明)
◎戦後生まれが語り継ぐ
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もう13年も前になるだろうか。当時、高校教諭だった愛沢伸雄さんと知り合い、南房総いったいの戦跡の案内を受けた。「震洋特攻基地」の穴、草むした「特攻桜花」のカタパルト発射台、掩体壕やあ香山地下壕などでも、息を呑んだ。一日案内してもらい、房州の戦跡の多さに驚いたものだ。突然の訪問に近所の人からも不審がられもした。
愛沢さんはその後もずっと、戦跡調査を続け、埋もれていた〝負の遺産〟を世に知らしめた。最初はたった一人の地道な活動だった。私財を投げ打ち、個の時間を費やしてまで、没頭した。世界史が専門で、子どもたちに平和教育をするには、こうした調査が必要だった。学徒出陣50年、戦後50年などの節目を経て、愛沢さんの調査は拍車がかかる。やがて池田恵美子さんという賛同者も現れ、一昨年にはNPOも立ち上がる。現在、赤山地下壕は平和教育の拠点として、大勢の人を受け入れていて、館山市指定文化財にもなった。平和のために、ひたすら歩んだ愛沢さんの動きは、けっして蟷螂(とうろう)の斧ではなかったのである。
点滴穿石。当初は行政サイドにも煙たがられたが、やがてNPOの存在が地元にとって必要不可欠となる。戦跡ガイドも30人になった。この地域の活性化を考えるとき、このNPOのパワーはけっして小さくない。
池田さんはもちろん、愛沢さんも戦後生まれである。戦争を知らぬ世代が、戦跡を調査し、その保存を訴える。失礼ながら違和感はないかと、問うてみた。2人は一笑に付した。愛沢さんは言う。「確かに最初はコンクリートの施設跡や残骸の調査だった。当時のことを知る世代の方が詳しいに決まっている。だがわれわれは、地元の人がこの戦跡とどう関わったかを織り交ぜながら語り継いでいる。体験の有無の問題ではない」。体験者でなければ語れないのなら、この世には伝えられないことが山ほどある。すでに戦後生まれが日本人の4分の3を占めている現在、戦後生まれが動かなければ、平和への道は開けまい。
愛沢さんと池田さんは口をそろえる。「地元の人がどう戦争に関わり、どう平和に導いたか。地元文化を含めてそれを伝えていきたい」。NPOの名は「南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム」という。名称からして遠い将来を見据えている。愛沢さんはNPOの後継者として、自身の長女(25)を1年かけて説き伏せた。
きょう8月15日は終戦の日で、平和への思いを刻む日。戦跡調査は孤軍奮闘から、千軍万馬の輪となった。房州の未来はけっして暗くない。
「白浜民報」第984号-2006年8月20日発行
記録し伝えたい白浜での戦争
白浜民報ではこれまで、多くの方々のご協力を得て、白浜での戦争の記録をしてきました。このたび、白浜への米軍艦砲射撃の貴重な体験記を黒須さんから提供していただきましたのでお読みください。
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白浜の艦砲射撃
鴨川市 黒須禮子
●20年7月18日深夜
昭和20年7月18日の真夜中、私たちの村(白浜町)は艦砲射撃を浴び、23名の死傷者を出した。 その夜、ものすごい轟音と家がなぎ倒されるような衝撃に跳ね起き、裏の防空壕にとび込んだ。 とたん、防空壕の壁土がバラバラと崩れ落ちてきた。
駄目だ。
反射的に土手をかけあがり、「凄いよっ」と叫ぶ弟のあとから、横に張り出している梅の木の枝にとび乗った。 なぜかあたり一帯が明るく、野島崎灯台の左方向の水平線上にくっきりと黒い船が2隻並び、その周囲をまるで花火が炸裂する時のようにバチバチと火花が散り、ドカーン、ズズーン、ドカーン、ズズーンと体中に響く衝撃がきた。 父母、弟妹、隣の家の人もいたが、誰も声も出さない。 と、次の瞬間、忽然と船は水平線の向こうに消えていってしまった。 その間、長い長い時間に思えたが実際には数分間のできごとだった。
●島崎で死人が
翌朝、夜明けと共に村内は慌ただしくなり、大人達が走り回っていた。
「城山が禿げてるようっ」
「田がアナだらけだようっ」
「島崎で死人がでたってようっ」、
私達子どもも大人の合間を縫って駆け出した。屹立した城山の壁に砲弾が当たったらしく、山肌が茶色くむき出しになってしまっていた。 すぐ隣の山麓が私達の集落である。手元が1㍉狂えばこっちに来たところだ。田圃への道も灯台への道も既に縄が張られ、警防団の人達が警戒に当たっていた。張られた縄の遠くから覗くと、砲弾の穴は田圃一枚の大きさですり鉢型をしている。厚い鉈を何枚か重ねたような、両側が鋭くギザギザになった鉄板も積んである。城山から五、六百㍍離れた私の家でさえあの衝撃だったのだ。田圃のすぐそばのこの家の人達はどんなだったのか。
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◎館山銀座商店街振興組合
..周辺の歴史・文化知る
...会員が街中発見ウォーク
館山市の銀座商店街振興組合(加藤喜久夫理事長)会員らがこのほど。街中発見ウォークを実施。同商店街を中心に残る古い建物などを巡り、改めて歴史と文化の深さを認識した。
来春のちばDCキャンペーンに向け、NPO南房総文化財・戦跡保存活用フォーラムが、商店街への誘客を狙いにマップづくりなどの活動を進めているのを受け、地域の歴史を見直そうと行なった。
この日は、加藤理事長ら14人が参加。午前7時からおよそ1時間半歩き、元禄地震の際、住民がよじ登って津波の難を逃れたという館山市立図書館近くの巨木「サイカチの木」、旧北条町に暮らした偉人の建物、皇族が宿泊した際贈られたという菊の紋章のついた南寿庵の灯篭などを巡り、同フォーラムの愛沢伸雄理事長から説明を聞いた。
加藤理事長は、「地元の会員でも知らない古い建物などが多かった。今後、フォーラムに協力して、商店街への誘客を進めていきたい」と話していた。
*房日新聞2006.9.3付