青木保存会、小谷家住宅公開に向け
東京の歴史建物視察
明治期の洋画家、青木繁が画学生時代に滞在した館山市の小谷家住宅(同市指定文化財)の保存を目指す、「青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会」(嶋田博信会長)は、このほど、東京の歴史建物バスツアーを行った。会員ら25人が参加。先進事例視察として新宿区立中村彝(つね)アトリエ記念館と旧安田楠雄邸庭園(東京都指定名勝)を訪問した。
同会では、市のふるさと納税制度を活用し、全国の著名な画家が組織するNPO法人青木繁「海の幸」会とともに募金活動を展開。今後、2か年の修理復元工事を経て一般公開を目指している。
館山の転地療養をきっかけに画家となった中村彝は、新宿中村屋の相馬愛蔵夫妻から支援を受けて活躍した。大正期に新宿区下落合に建立した彝のアトリエは、住民による長い保存運動の末、新宿区によって新築復元され、今春から記念館として公開が始まっている。館内はイーゼルや調度品と複製画の展示で当時の雰囲気が再現され、映像で彝の生涯や画業を紹介している。奇しくも館山中村屋は、昭和初期に新宿中村屋から暖簾(のれん)分けした老舗であり、本店喫茶室には彝が布良で描いた「海辺の村(白壁の家)」の複製画が常設されている。
一方、文京区千駄木の旧安田邸は大正期建立の近代和風建築として価値が高く、現在は公益財団法人日本ナショナルトラストに寄贈されている。週2日の公開だが、今回は貸切の特別見学として企画され、管理運営を担っているNPO法人文京歴史建物の活用を考える会(通称たてもの応援団)理事の多児貞子さんから講義を受けた。市民ボランティア80人が建物や庭園の行き届いた清掃管理や館内ガイドなどに活躍。きめ細かい工夫や季節ごとに趣向をこらした企画が好評で、リピーター来場者も多いという。
視察を終えた参加者、「小谷家住宅の公開後のビジョンを具体的に描くためのヒントを多く得た」としている。
(房日新聞2013.12.18付)
館山のNPO、ヘリテージまちづくり講座
古文書の保存活用学ぶ
館山市のNPO法人安房文化遺産フォーラム(愛沢伸雄理事長)と、青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会(嶋田博信会長)による「ヘリテージまちづくり講座」が開かれている。ヘリテージとは文化遺産のことで、文化庁の「地域の文化遺産を活かした地域活性化事業」の助成を受け、全5回で開催。先ごろ、同市富崎公民館で第2回目が行われ、市民ら34人が参加した。
近年、青木繁が滞在した布良の小谷家住宅や南条の小原家住宅から、明治期以降の資料が大量に発見され、近代水産業の発展に重要な関わりがあったことが分かってきた。これらの古文書をどう扱い、整理して調査していくかを学ぶため、地域史料保全有志の会代表を務める中央学院大学准教授の白水智氏を講師に迎え、「漁村資料の保存管理と活用」と題した講座を開いた。
白水氏は、長野県栄村で10年以上にわたり、山村の歴史文化を紐解く古文書の研究に携わってきた。同村は、東日本大震災の翌日の2011年3月12日に付近を震源とする震度6強の地震に見舞われ、甚大な被害を受けた。震災の一月半後に現地入りした白水氏らは、次々と解体され、廃棄物として処理される古民家や土蔵を目の当たりにし、文化財の損失に危惧を覚え、すぐに地域史料保全有志の会を発足し、そこに眠っていた文化財の救出活動を開始した。
置き場所の確保などの問題を一つ一つ乗り越え、活動報告会などを通して、子どもから高齢者まであらゆる世代の村民に「文化財を守ること」の理解を促した。今では、自治体の協力を得て、小学校の旧校舎を村の文化財保管庫にすることが認められ、将来的に村の歴史と文化の拠点施設にする流れを形成した。
白水氏は、「古文書や古い資料は家族写真と同じ。風景や人々の技術、生活の知恵や人間関係のかたちを残す地域のアルバム。その大切さに気づいたときに、文化がその地域らしさとして次の世代に受け継がれていく。震災後、生活基盤が復旧するだけでは、人は生きていかれない。文化が復興して初めて地域の復興につながると実感した」と、文化財保存の重要性を力説した。
講義後には、古文書に接する際の注意点などを解説。実際に明治期の文書類を仕分けし目録を作る実習を行った。参加者はその重みをかみしめた様子で、「この話を多くの人に伝え、押し入れの古い資料を捨てないように広めていきたい」と話していた。
【写真説明】文化財保全の重要性を力説する白水氏(中央)=富崎公民館
館山に韓国視察団、地域資源と観光振興探る
大巌院「四面石塔」など見学
⇒印刷用
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日本の観光振興を探るため来日した韓国の政府系視察団が、館山市で地域資源を生かしたまちづくりの在り方を視察した。一行は、韓国とゆかりのある大巌院(同市大網)を見学したり、明治の洋画家、青木繁が滞在し代表作「海の幸」を描いた小谷家(同市布良)や布良崎神社を訪ね、漁村の祭り文化に注目していた。
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来日したのは韓国文化体育観光部や同部研究機関、韓国文化観光研究院の職員や研究者ら約30人。
館山が視察の対象となったのは、神奈川大学の助手のチョン・イルジさん(32)が昨年、東京大学大学院の都市工学研究科在籍中にまとめた博士論文が韓国研究院の目に留まったためという。チョンさんは、館山市で戦跡や史跡を保存し、観光資源や平和教育に生かす活動をしているNPO安房文化遺産フォーラム(愛沢伸雄代表)に注目して、民間主導の生涯学習まちづくり「館山まるごと博物館」運動を論文に取り上げた。
大巌院には豊臣秀吉の朝鮮出兵で捕虜になった朝鮮人の供養塔「四面石塔」(県有形文化財)があり、「南無阿弥陀仏」とハングルで刻まれている。小谷家は青木繁が投宿した家で、「海の幸」は布良崎神社の神輿からインスピレーションを得て描かれたとの説もある。
視察を終え、同研究院国際交流センター長のイ・ドンホンさんは「四面石塔の平和を求める思いに感動した。広い交流が大切だ。館山の祭り文化は地元住民の手作りで個性的、印象的だ」と視察成果を語った。
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ウガンダ支援と子ども絵画展
活動と交流のあゆみ展
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アフリカ内陸の赤道直下にある国ウガンダ。「アフリカの真珠」といわれる美しい国だが、経済破綻や内戦の影響で今なお貧困が続いており、旧安房南高校で始まった安房地域の支援活動が、20年来にわたって引き継がれている。そのウガンダ支援の歩みと現地から送られてきた子どもたちの絵画展が、館山市の館山病院ギャラリーで開かれている。13日まで。
「安房・平和のための美術展」をとおして7年前から支援を続けるNPO法人安房文化遺産フォーラム(愛沢伸雄代表)が主催。ウガンダの子どもたちが描いた絵画10点と、安房南高から安房高JRC、さらに市民グループへと広がっている支援活動の経過資料などが展示されている。
平和授業の中で、ウガンダではエイズと孤児がまん延し、教育を求めていることを生徒たちが知った旧安房南高で1994年、バザーや募金が生徒会活動としてスタートした。現地のNGOを窓口にして地道な支援活動を毎年続けた結果、2001年には「AWA—MINAMI(安房南)洋裁学校」がつくられた。活動は、高校の統廃合を経て安房高JRCに引き継がれ、さらに市民グループへと地域での活動の輪も広がっている。
安房南高時代に始まった活動から、間もなく節目の20年を迎えるにあたり、これまでを振り返り、今後の交流や支援のあり方を見つめ直そう、と同NPOが展示会を企画した。会場には、内戦がまだ激しかったころに現地の子どもが鉛筆で描いた絵や、やや落ち着いてきた最近の明るい作品など10点を展示。南高でのバザー風景など各種の資料や写真とともに支援活動の歩みをふり返っている。
【写真説明】ウガンダ支援の歩みと絵画作品が展示されている=館山病院
安房歴史文化研究会2013年(第24回)公開講座 2013年7月27日
明治期館山の殖産興業をみる 〜小原金治の経済人ネットワーク
NPO法人安房文化遺産フォーラム代表 愛沢 伸雄
明治期、千葉県議や衆議院議員であった小原金治は、安房銀行(千葉銀行の前身)や房総遠洋漁業(株)の設立や経営に関わっていたので、安房の殖産興業をたどるうえで重要な人物である。小原金治の生涯については、資料に乏しく不明な点が多い。最近、館山市南条の生家から自筆の『自叙伝草稿』(以下、「草稿」)の断片が発見された。この「草稿」と富崎の小谷家住宅から発見された水産資料を通じて、明治期の館山の姿を知ることができる。
金治は、1859(安政3)年、豪農であった父桂助母かよの長男として旧南条村で出生。12歳で旧館山藩士であった叔父から初めて読み書きを学ぶ。以来、22歳まで農業の傍ら、地域の漢学の師を訪ね、独学で勉強。21歳のときに大きな転機が訪れる。金銭問題で裁判所に民事訴訟をおこし勝訴した。折しも自由民権の嵐が吹き荒れていた時代、政治を見る眼や法律に強い関心をもち、北条村で何回か開催されていた民権派の演説会に参加した。東京からの弁士小野梓や田口卯吉や、地元の県議小原謹一郎や若手の満井武平らの熱弁を見聞し、政治世界に入る契機になったと思われる。
激動する時代にあって、22歳の金治青年も大きな志をもって上京した。当時、著名な漢学者の岡千仭(鹿門)の塾に通い、夜学の法律学校で学ぶ。しかし、3年後に父が重病になり、やむなく帰郷。その頃、北条村で開催された民権派の演説会では弁士の一人として活動するなかで、1884(明治17)年25歳の金治は南条村会議員に選ばれた。
村議の活動では、住民から無法状態にあった房州白土の採掘と土地問題について相談をうけた。金治は県や国に働きかけるとともに、住民との契約関係をもった会社を立ち上げることにした。安房坑業会社と呼ばれたこの白土会社は、「東洋煙草大王」の異名をもつ岩谷松平が社長になり、地元からは金治自らが取締役となった。最近、源慶院からこの会社と契約を結んだ吉田智道住職の証書が見つかっている。
岩谷は松岡村出身の福原有信とともに東京・銀座で活躍していた経済人で、後に東京選出の衆議院議員になっている。さまざまな商品を扱った全国的な商社の岩谷商会と関わり、金治は初めて実業を学んだと書いている。金治の身近にいた親しい政治家は、館野村出身の県議小原謹一郎である。小原は公共事業的な海運業を訴える正木貞蔵に共鳴し、安房汽船会社を創設した人物である。しかし、運賃競争で破産して大きな負債をかかえ三六歳で亡くなっている。また、盟友になる満井武平を通じて彼の叔父である富崎村長神田吉右衛門とも交流が生まれ、安房の水産業問題も語り合ったであろう。
1890(明治23)年、金治と満井はともに県議に当選した。二人は力を合わせて安房の殖産興業に取り組んでいった。当時、関澤明清や神田らは近代的な水産事業を自ら実践していた。満井は大隈重信の立憲改進党に入ったが、金治は党派の政策にこだわらない政治的立場をとっていた。県議三期目になった35歳の金治は、盟友の満井や角田真平(号竹冷)の仲介で大隈重信と会見。その後に大隈の理念に共鳴して改進党の一員となったのであった。
衆議院の解散後、安房の候補者選定のなかで大隈の側近岡山兼吉らの説得があり、金治は県議を辞して改進党候補者に擁立された。1894(明治27)年、日清戦争勃発の年九月の第四回衆議院議員選挙は改進党の重鎮島田三郎らの応援や安房国改進党の全力をあげた選挙運動によって、自由党の加藤淳造を押さえて見事当選した。日清戦争のなかで注目されることが「草稿」にある。後に東京株式取引所理事長になった同僚議員角田真平の仲介で、金治は勝海舟と会見したという。日清戦争と国政のあり方について懇談し、高い見識に驚いたとの記載がある。
1897(明治30)年までの3年間の議員活動で、安房において重要なものの一つが、神田や満井らの水産業の改革を応援し、関澤明清が館山で取り組んでいる先駆的な遠洋漁業を奨励する法律に関わっている。二つ目には県議時代より正木貞蔵らの公的な海運事業「安房団体」組織し援助してきた。水産業の振興のためには安定的な海運業の振興が重要であったが、常に資金的な課題を抱えていた。金治は殖産興業の資金を調達する金融機関設立が急務であると安房郡長の吉田謹爾とも相談していた、吉田の義父は旧館山藩士で金治の叔父とは仲間であったし、8歳年長の吉田は村議や県議の時代から強い結びつきがあった。金融機関設置する方策では、金治は安房出身である大物大蔵官僚である曽根静夫国債局長に相談したであろう。曽根は日清戦争時に戦時国債を発行し戦費調達を成功させた人物として金融界に大きな影響をもっていた。金治と曽根と吉田の三者の連携のもとで、安房ゆかりの企業人福原有信や浅田正文、川崎財閥の総帥川崎八右衛門らを発起人として、1896(明治29)年、千葉銀行の前身である安房銀行がスタートしたのであった。
謹厳実直で実務派の吉田謹爾は郡長を辞め専務取締役として全てを仕切った。この年に金治は病気になったこともあり議員生活を終えている。しかし、自ら先頭に立って本格的な安房の殖産興業に取り組んでいった。1897(明治30)年、館山の地でモデル的な遠洋漁業事業を実践して企業化のきっかけをつくった関澤が志半ばで急逝した。関澤の実弟鏑木余三男は、その遺志を継いで房総遠洋漁業株式会社創設を呼びかけた。翌年に安房銀行の資金や国からの遠洋漁業奨励金が投入され、北洋のオットセイ・ラッコ猟を主とする本格的な漁業会社が設立され、金治が社長となったのである。
近代的な水産業を模索していた盟友満井の叔父神田吉右衛門は、富崎村長として数多い遭難漁民の救済や鮪延縄船改良の施策をはじめ、鮑組合の収益を教育など公共事業のために使い、人びとに敬愛されていた。また、資生堂の福原有信は帝国生命保険を創設しているが、1894(明治27)年に社長となり、吉田らが呼びかけて遭難者家族救済のための保険事業に関わった。神田も全国でも先駆けて遭難者救助積立金制度や布良同盟保険をつくり、福原の帝国生命保険と連携した取り組みをおこなった。実はこの動きは人びとの貯金制度などのきっかけとなり、不安定な金融業のなかで地域密着型の安房銀行は、強固な経営基盤をつくり地域振興に貢献していったことを忘れてならないであろう。
その後も小原金治は、安房に関わる金融・経済人などさまざまなネットワークを通じて地道に地域の殖産興業に努めていった。金治は吉田謹爾が亡くなった1914(大正3)年、安房銀行を頭取として引き継いでいる。県内の金融界の重鎮として、千葉銀行創設に一石を投じるなか、1939(昭和14)年79歳で没している。
今回の報告は、小原金治の動きを切り口に明治期の安房での殖産興業の一端を紹介した。