◎版画家・秋山巌氏が作品展、1月にトークショーも
…落下傘部隊・棟方志功の弟子・山頭火の世界…
.
種田山頭火の俳句やフクロウなどの動物、民話を主な題材とし、作品がロンドンの大英博物館にも所蔵されている版画家・秋山巌氏(88)=松戸市在住=の作品展とトークショーが、館山市で1月に開かれることになった。
秋山氏は昭和16年(1941)、海軍落下傘部隊の隊員として館山海軍航空隊で3か月間の訓練を受け、太平洋戦争開戦時の作戦に参加した。これまで戦争体験を外部に話すことはなかったが、TBSテレビのドキュメンタリー番組の取材を受け、当時の模様を証言したことをきっかけに「思い出の地」館山での作品展開催を決めたという。
2つの企画を進めている館山市のNPO法人安房文化遺産フォーラムの池田恵美子事務局長は「戦中戦後を通し、落下傘兵から版画家として生きた秋山先生の生きざまは、閉塞した現代社会に生きる私たちにも、大きな気づきと祐樹がもらえる気がします。1人でも多くのと分かち合い、まちづくりのヒントにしたい」と話している。
秋山氏は大分県竹田市出身。開戦時は横須賀鎮守府第三陸戦隊としてティモール島のクパン(現・インドネシア)に落下傘で降下。さまざまな作戦に参加し、ラバウルで終戦を迎えた。
戦後は美術の道に進み、棟方志功や坂本繁二郎に師事。独学で民族学、仏教学、俳詩、水墨画などを学び、山頭火の世界を描いてきた。
作品展開催を決めた秋山氏は14日から3日間にわたり、65年ぶりに館山を訪問。安房神社にある「落下傘部隊戦没者慰霊碑」を参拝した。
同部隊の総勢1,500人のうち、生きて終戦を迎えたのはわずか200人だったという。関係者は「戦争体験を語ったことで若い日の思い出がよみがえり、館山へ行きたいとの思いが強くなったようだ」と話した。
作品展は1月19日から25日まで、同市の大巌院で。入場無料で、木版画約30点が展示される予定。トークショーは1月23日午後7時から南総文化ホール小ホールで。入場料500円。チケットは同ホール、宮沢書店、松田屋などで今週末ごろから発売される。
.
(房日新聞2009.12.22) …催しの詳細はコチラ。
■館山地区公民館、戦争体験語る会
.
館山市の館山地区公民館は1月15日午後、同館の主催行事として「米占領軍館山上陸フィルム上映と戦争体験を語る会」を開く。
1時から、NPO法人安房文化遺産フォーラムが入手した終戦直後(昭和20年9月3日)の記録フィルムを上映。2時からは、太平洋戦争時に学生だった3人の女性が自らの体験を語る。
資料代100円。参加者は同公民館(月・水・金曜の午前9時-午後4時、電話23-2482)への申し込みが必要。先着で定員40人。
証言者と内代うは次のとおり。
▽青木うめさん(同市上真倉)「『日本建鉄』(船橋)への学徒動員」
▽黒須禮子さん(鴨川市大里)「白浜の艦砲射撃」
▽佐野ふさ子さん(館山市波左間)「国民学校のころ戦争があった」
.
(房日新聞2009.12.20)
■ 2009年12月15日(火) 01:58〜02:28
TBS 『ドキュメント・ナウ』
「胸込み上げる関東の戦跡」
悲惨な体験をした人たちも年々少なくなっている。
だが、かつての基地や要塞の跡は、
意外にも、今でも生々しく残っている。
戦時中はどんな役割を果たしていたのだろうか。
そして、そこに関わった人たちは
今、どんな思いで見つめているのだろうか。
生き残った人びとの証言をもとに取材を始めてみた。
東京湾の入口に位置する千葉県館山市は、
戦時中、「東京湾要塞」の一角として、国防の重要拠点だった。
戦後から60年以上がたった今でも、その痕跡が残っている。
これは、1927年に竣工した洲崎第二砲台の跡である。
戦後爆破されたというが、円形の砲台の一部が残っている。
砲台から30mほど登ると、トンネルがあった。
これは弾薬などを貯蔵するための格納庫だったのだ。
トンネルの中には、2ヶ所に部屋のようなスペースが残っていた。
弾薬庫は、さらに砲台の下、今は民家の建っている山の中腹にもあった。
「砲台のね、弾薬庫という話だったんですよ。」
この家に住む佐野さんに、弾薬庫の中を見せてもらった。
もともとは土に埋もれていたのだが、
家を増築するために掘り返してみたところ、
この大きな弾薬庫が姿を現したのだという。
厚さ30cmはあろうかという頑丈な壁は、鉄筋コンクリート造り。
「対米英戦を考えて、こんなのを作っただっぺよ」
長い戦争の幕開けとなったのは、1931年に起きた満州事変だった。
関東軍はわずか5ヶ月で、満州全土を占領したという。
この衝突を境にして、日中戦争、太平洋戦争へと、
戦争はますます激化していくのである。
太平洋戦争が始まる半年前に、1941年6月、
館山には、陸上戦闘の実地訓練を主な目的とした館山海軍砲術学校が開校した。
そこでは、「鬼の館砲」と呼ばれるほどの厳しい訓練がおこなわれていた。
今も残っているこの巨大なプールの跡は、
落下傘部隊の研究や訓練に使われていたという。
開戦の迫った1941年9月、
海軍は初の落下傘部隊を編成するため、全国から1,500人の精鋭を集めた。
その1,500人に選ばれ、かつて落下傘部隊として
ティモール島クーバンへの奇襲作戦に参加した秋山巌さんに話を聞いてみた。
「我々がいた落下傘部隊っていうのは、
いってみれば、殺人集団ですよ。
.割箸1本で人を殺すことまで教えましたから。
.簡単に死にますよ、人間。」
砲術学校では、機関銃や小型戦車などの操縦を学んだ。
そして、館山海軍航空隊で落下傘の基礎訓練を受けた後、
高度300mからの命がけの特訓に臨んだのである。
「そりゃ、怖いですよ。一番初めに降りるときは、
.へんな話、やっぱり、ちびっちゃいますよ。
.中には未練がましく、怖くて飛行機にしがみついて
.離さないわけですよ。でもむだですよ。ケツ蹴飛ばされて。
.あとから呼ばれて、さんざんバット食いますよ。
〝貴様、それでも軍人か〟ってね。」
訓練中には、落下傘が開かずに、
そのまま地上に落下してしまった隊員もいたという。
「開かないで、サーッと、落ちて行くんですわ。
.サーっと。そりゃ、即死ですわ。
.全然開かないで落ちて行くんですから。
.何回か、2回、見ましたよ。
.明日は俺か、なんていう、いやな予感がしますよ。」
およそ3ヶ月の訓練の後、ク—パンやサイパンなどへ出撃した。
1,500人の落下傘部隊のうち、生き残ったのは200人ほどだったという。
「こりゃ、勝てんと思ったよ。絶対勝てん。
.こんだけ船が沈められて、飛行機がなくなる。
.それで大本営はウソばっかり言う。
.だから、いい加減ポンポン打っておいて、逃げろ、と言ったんだよ。
.1機や2機落としたところで、戦局に影響しねえわい。」
1942年6月、ミッドウェイ島の攻略を目ざす日本軍をアメリカ軍が迎え撃った。
日本軍は、主力空母4隻を失い、大敗した。
この海戦を境にして、日米の攻防は逆転、戦況は悪化していくこととなる。
ミッドウェイ海戦の大敗から3ヶ月後の1942年9月、
海軍特別年少兵の第1期生が全国から集められた。
まだ、14、5歳の少年たちが戦争にかり出されたのだ。
館山市内で電気店を営む庄司兼次郎 (しょうじかねじろう)さんは、
その第1期生のひとりだった。
15歳で横須賀にある海兵団に入団し、新兵教育を受け、
その後、海軍コウキ学校で戦闘機の理論や
陸上戦闘の演習などをたたき込まれた。
追いかける班と逃げる班に分かれて全速力で走らされる追撃戦の特訓は、
地獄のような苦しみだったという。
「毎晩のように、バットの精神棒で殴られてました。
.船に乗せて行って、放り投げて、陸まで。
.中には溺れかけるのもいるんで、船がいて助けたり。
.それも、よくよくでないとね。」
庄司さんは、1944年6月、17歳のときフィリピンのダバオへ派兵された。
「餓死だとか栄養失調ですね、マラリア、デング熱、というような病気ですよね。
.実際の戦闘で亡くなった人より、そういう人のほうが多い。
.とにかく、戦争がない、ということが一番、でしょうね。
.戦争というのは、二度とやっちゃいけないと思う。」
アメリカ軍の空襲がはげしくなってきた1944年、都市部では学童疎開が始まっていた。
そして、本土決戦に備えて、女たちにも竹槍の訓練が始まったのである。
館山でも決戦に備えて、数多くの地下壕が掘られていた。
かつてあった館山海軍航空隊の基地のすぐ南側にある、
通称「赤山」には、総延長およそ2kmにおよぶ地下壕が今でも残っている。
資料がほとんど残っていないため、何に使われていたのか確かなことは分かっていない。
しかし数少ない地元の人たちの証言によると、1930年代の半ばから1940年代にかけてつくられ、
病院や発電所、兵器の貯蔵庫、さらには戦闘指揮所としての役割を果たしていたといわれている。
当時はどんな様子だったのだろう。地元の人に聞いてみた。
[ .. 全文表示へ ]
(房日新聞2009.12.1付)
■手づくり甲冑の立ち回りに大きな拍手
.
NPO法人安房文化遺産フォーラムが主催する「戦国こすぷれ大会」が29日、館山市の城山公園で行われた。武将や姫君、戦国アニメのキャラクターなどに扮した「戦国コスプレイヤー」約20人が首都圏や関西圏から集合。地元館山の「手作り甲冑隊」も合流し、同じ場所で開かれた「里見市民まつり」(産業まつり)に花を添えた。
[ .. 全文表示へ ]
【読売新聞】2009.11.20付
.
名画「海の幸」舞台
小谷家が館山市文化財に
.
明治の洋画家、青木繁(1882〜1911年)が明治37年(1904年)に滞在し、名作「海の幸」を制作した家として知られる館山市布良の小谷家が、市指定の有形文化財に指定された。
小谷家は寄せ棟造り桟瓦葺きで、広さは93平方メートル。漁業で栄えた明治中期の漁家として貴重であり、造りは分棟型民家の系統を引いている。屋根を桟瓦葺き、一部を大壁造りとした防火づくりにし、近代的間取りを取り入れているのが特徴。
小谷家は昨年7月、諮問を受けた市bん家財審議会が今年9月、市の有形文化財に指定するよう答申し、10月27日付で指定された。
建物所有者の小谷栄さん(85)は「地元の人たちやNPOの方たちが何度も足を運んでくれて、相談を重ねながら指定にこぎつけ、感謝している。昔ながらの建物の姿をできるだけ残していきたい」と話している。
また「青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会」の愛沢伸雄事務局長は「5年がかりでやっと文化財に指定された。地域の誇りとして次世代の子どもたちに夢と希望を与えるような保存と活用を、行政と連携しながら考えていきたい」と語る。
市は今年7月、海の幸の記念碑(1962年建立)のそばに絵画の解説モニュメントを設置した。記念碑は作品の舞台となった阿由戸の浜を望む小高い丘に立っている。今後は小谷家住宅を富崎地区の歴史・文化や観光資源と合わせてPRしていく考えだ。
館山市教委は、明治画壇の鬼才と謳われた青木繁が滞在して代表作「海の幸」制作にかかわった家として知られる同市布良の小谷家住宅を市の有形文化財に指定した。16日、石井達郎教育長が小谷家を訪れ、所有者で小谷家当主の小谷栄さん(85)に指定書が交付された。
[ .. 全文表示へ ]