存在消された謎の岬
遺跡が伝える戦争の記憶=ちば探検隊=
(読売新聞2013.9.22)‥⇒印刷用PDF
南房総市富浦町多田良にある大房(たいぶさ)岬は、神奈川県の三浦半島側に向かって飛び出した長さ約2キロ、幅約500メートルの岬だ。かつて、この岬は世の中からその存在が消されていたと聞いた。興味を引かれ、その理由を探ってみた。
(羽田和政)
岬の付け根に当たる場所で生まれ育った鈴木勇太郎さん(81)は、花の栽培をしながら、岬の案内人を務めている。ほんの目の前にあるのに、この岬に足を踏み入れたのは13歳の中学生になってから。「私の生まれた昭和7年(1932年)にここに陸軍の要塞ができて、それから戦後まで立入が禁止されていたからなんです」
それでも戦前は規制も幾分緩やかだったが、開戦後は列車から岬が見え始めると、強制的に窓を閉めさせられたという。「当時、確か地図にも岬の輪郭だけしか載っておらず、岬内の道や建物などは白く塗りつぶされて一切記載されていなかった記憶がある」と70年前を振り返る。その地図をぜひ見てみたいと思い、地元の民俗資料館や館山市立博物館を当たったが、結局見つからなかった。
数日後、同博物館の岡田晃司館長(55)から「面白いものが見つかった。地図の代わりになるかも」と連絡があり、見せてもらったのは背景のない観光用の絵はがきだった。「安房名所・館山北条海岸海水浴場」と題した写真はがきで、海岸に遊ぶ水着姿の人々の楽しげな様子が写っている。しかし、写真の角度からいって背景部分に見えるはずの山並みや大房岬はきれいに消されていた。検閲元の「東京湾要塞司令部」による「許可済」の文字が入っている。
房総半島南部の館山市や南房総市周辺は、その立地条件や地形から、幕末以降東京湾要防衛の要だった。今も砲台跡や飛行機を隠した掩体壕(えんたいごう)など多くの戦争遺跡が残る。そうした遺跡の保存や啓発活動を行っているNPO法人「安房文化遺産フォーラム」の愛沢伸雄代表(61)にはがきを分析してもらうことにした。
愛沢さんははがきを見るなり、「軍事施設だったからとしか説明のしようがない」と切り出し、同じ放題だった富津岬部分が消された1938年尾「大日本帝国陸地測量図」を見せてくれた。別の地図では木更津航空隊の基地も白く抜かれ、館山航空隊にいたっては、その存在すらない。「機密性の高い軍事施設は戦争が差し迫ると扱いが微妙になり、やがて人々に知られてはならない場所として地図から消される。そうした事実を踏まえ、戦争の本質を風化させないように努めるのが使命」と話す。
改めて鈴木さんに岬を案内してもらった。今は少年自然の家やキャンプ場として、子供たちが自然を学ぶ絶好の場所になっている。その周囲には1921年のワシントン軍縮条約で廃艦となった装甲巡洋艦「鞍馬」の連装副砲を据えた二つの砲台をはじめ弾薬庫や発電所があり、そこから電気を引いて会場を照らした探照灯が置かれていた探照座など数々の戦争遺跡が残る。日露戦争で連合艦隊が艦砲射撃訓練に使った穴だらけの崖もある。
「古くは信仰上の聖地、その後は軍関係の施設になって、近くにありながら出入りのできなかった謎の場所。神秘の岬です」と鈴木さん。子供や若者を案内する際に必ず言い添える言葉がある。「遺跡はあくまで素材。それを見て触れてどう思い、今後にどう生かすかが大切なのです」