戦争遺跡を活用した「地域まるごと博物館」構想〜「平和・交流・共生」の理念が活きる地域づくり〜
『月刊社会教育』№620(2007年6号)
NPO法人南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム
理事長 愛沢 伸雄
事務局長 池田恵美子
富山県が作成している「環日本海諸国図」という逆さ地図を見てみると、日本列島は「へ」の字型に太平洋に突き出ていることが分かる。南北が逆になったとき、私たちの暮らす房総半島南端部の館山は、山型になった列島の頂点に位置し、太平洋に開かれた海上交通の戦略的な要衝とされてきた歴史が推察できる。
いつもと視点を変えることで、新しい洞察や逆転の発想が生まれることがある。私たちの活動は、負の遺産として放置されてきた戦争遺跡(以下「戦跡」)や戦国大名里見氏城跡などを活用した平和教育や地域学習の実践に端を発し、市民が主役になった生涯学習と保存運動に原点がある。これらの調査研究やガイド活動を中心に、南房総・安房の自然や歴史・文化を活用した地域づくりを目的として、2004年にNPO法人を設立した。この活動は、地域に生きる誇りや喜びを蘇らせてくれたばかりではなく、この地を訪れる人びとにも波及し、新たな交流文化が育まれつつある。
1.戦争遺跡を平和学習のフィールドに
東京湾要塞とされた館山にはたくさんの戦跡があるが、戦後放置されたままであった。高校世界史の教員であった私は、戦跡を地域教材として活用する目的で、1993年から本格的に調査研究をはじめた。
戦争末期には本土決戦に備えて7万人の軍隊が配備され、次々と軍事施設が構築された。住民は厳しい監視下に置かれ、農民は食糧増産のために花作りを禁止された。終戦直後には米占領軍が上陸し、館山は本土で唯一「4日間」の直接軍政が敷かれていた。
戦跡はいきいきと語る実物教材であり、歴史的想像力を育む場として、平和学習にふさわしい教材であった。とくに、15年戦争のはじまりと終結、加害と被害といった両側面から学ぶことができる。
私の授業実践や「戦後50年」の取り組みは、歴史教育者協議会やメディアを通じて全国に報告され、各地から平和研修に訪れるようになった。地域での関心も高まり、館山地区公民館では4年にわたって郷土史講座の戦跡フィールドワークを実施した。その後市民によって「戦跡調査保存サークル」が結成された。この間、私が戦跡を案内したのは約6,000名になっていた。
折しも、広島の原爆ドームが世界遺産に登録され、文化庁でも戦跡を近代の文化財にしようという機運が生まれた。この流れを受けて館山市は、平和学習の拠点として館山海軍航空隊「赤山地下壕」を整備し、2004年に一般公開をはじめ、翌年には市指定文化財とした。年間約15,000名の入壕者を迎え、効果的な役割を果たしている。現在、当NPOでは年間約200団体のスタディツアーを迎え、延べ5,000人近い来訪者に対して講演やガイド活動を提供している。
2 房総里見氏の歴史・文化をまもる
曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』は全国的に有名だが、そのモデルとなった戦国大名里見氏が170年にわたって南房総・安房の地を治めていたことはあまり知られていない。今もなお里見氏関連の文化財が数多く残っているものの、改易された大名であるためか、地域ではあまり歴史的価値が認識されていなかった。
1996年、『八犬伝』の舞台としても登場する里見氏稲村城跡は、公共道路計画によって壊される寸前となった。稲村城跡は遺構の状態もよく、文化遺産としても価値が高い。市民有志らは「里見氏稲村城跡を保存する会」を結成し、署名運動や議会への働きかけをおこなった。その一方で、里見氏研究のシンポジウムや講演会などさまざまな取り組みを重ねてきた。
10年にわたる保存運動が実り、道路計画は変更となった。現在、文化庁・千葉県・館山市は「国指定」史跡に向けて調査検討を開始し、私も委員会の一人となった。稲村城跡は、南房総・安房のシンボル的な文化遺産として、市民によってまもられたのである。
現在、「八犬伝のふるさと・里見のまち」というキャッチフレーズで、里見氏史跡や『八犬伝』ゆかりの地を市民ガイドが案内するツアーを実施したり、館山市中央公民館長が自ら代表を務める「南総里見手づくり甲冑愛好会」が活躍している。また、里見氏発祥の群馬県高崎市榛名や移封された鳥取県倉吉市などとの、里見ゆかりの市民交流もさかんに行なわれている。
3 国際交流の文化をまもる
海路の重要拠点であった館山は、海路を伝って世界と交流し、多様な民族が共生を育んできた地でもあった。私は、地域に残る文化遺産を通じて先人たちが培ってきた精神や営みを顕彰しながら、足もとの地域から世界を学ぶ授業を実践してきた。
その一つは、1624年に建立された「四面石塔(千葉県指定文化財)」である。東西南北の各面に、和風漢字・中国篆字・朝鮮ハングル・インド梵字で「南無阿弥陀仏」と刻まれている。その時代背景から、秀吉の朝鮮侵略や家康の朝鮮通信使修交に関わっていると推察され、東アジアとの交流を視点に調査研究を重ねてきた。調べ学習の授業では、石塔建立の年が壬辰倭乱(文禄の役)から33回忌にあたることから、戦没者供養や平和祈願の思いがこめられているのではないか、と生徒たちは考察を深めていった。
この授業実践は、韓国において発表する機会を得て、歴史教育を交流する日韓双方の教師たちによって注目され、2002年(日韓国民交流年)には日韓歴史研究者による共同研究シンポジウムが館山で開催された。
2005年(日韓友情年)は、韓国浦項市より児童20名を迎えて「たてやま日韓子ども交流」を開催した。「四面石塔」や戦跡などを学習する歴史交流のほか、音楽や茶道などの文化体験交流、無人島探検の自然体験交流をおこなった。両国の子どもたちは、「昔の人びとが、戦争を乗り越えて仲のいい国同士にしたいと願ったことを学んだ。ぼくたちもそういう国同士にしたい」という感想を述べている。
21世紀に入ってなお、歴史認識問題において緊張関係にあるアジア諸国から、館山の「四面石塔」に多くの人びとを招いて、先人たちの想いを学び、真の友好と友情を育み、国際社会に貢献したいと望んでいる。
4 水産業や水産教育の伝統を受け継ぐ
昨夏、私たちは館山湾に面した場所に建つ大正時代の銀行建物を再生し、コミュニティの交流学習拠点として「小高熹郎記念館〜たてやま海辺のまちかど博物館」を開館した。オーナーであった故・小高熹郎は水産業と文化振興に尽くした館山市名誉市民である。
本館裏手の高台は、北下台(ぼっけだい)と呼ばれている。明治期には、館山湾の向こうに富士の雄姿を望む景勝地として知られていた。ここには、近代水産業の発展と水産教育に尽力した関澤明清の顕彰碑や、「正木燈」と刻まれた灯台の台座など、貴重な文化遺産が多くのこっているが、残念なことに長い間放置され、現在はヤブが広がり海を眺めることができない。
明治期、政府派遣の視察で欧米の水産業に圧倒された関澤は、館山を拠点に日本の水産振興を図っていく。とくに関澤が尽力した事業は、鮭鱒の人工孵化、近代捕鯨、改良揚繰網漁法の導入、そして水産教育であった。自ら所長となって開いた水産伝習所は、後に水産講習所、東京水産大学を経て東京海洋大学となるが、明治から現在に至るまで、その実習場は館山にあり、北下台ふもとに位置する。当時は水産会社も隣接し、捕鯨の解体場や缶詰工場などもあったという。
大正初期に建立された正木燈は、館山湾に入港する船の標識航路であった。関東大震災で98%壊滅した館山は数メートルの隆起があり、館山湾は干潟の遠浅になった。その七年後、海を埋め立てて館山海軍航空隊が開かれたとき、北下台の前に築港がつくられた。
こうした背景のなかで、開校されたのが千葉県立安房水産高校である。日本の水産教育をリードし、重要な役割を担ってきた水産高校だが、戦後の偏差値偏重教育と水産業の衰退によって、その建学の精神が忘れられつつある。そして来春、統廃合により姿が消えることとなった。まことに遺憾である。
同校の正門を入ると、初代校長の銅像がある。昭和初期に同窓会が建立し、戦争中には銅像が軍に供出されたが、心ある教員によって石膏型がのこされ、戦後になって再建されたという。製作者を調べてみると、長崎平和記念像を造った彫刻家・北村西望であることがわかった。まったく知られていない地域の平和文化遺産である。銅像の供出など、二度とあってはならない。石膏型をのこした教員の想いや、水産教育を受けた誇りを後世に伝えていくことが重要であり、そのためには社会教育による地域づくりが求められている。
5 「地域まるごと博物館」構想の実現に向けて
逆さ地図に象徴される視点から地域を見直していくと、新しい地域像が浮かび上がってくる。戦跡や里見氏史跡ばかりでなく、日本で一番隆起しているといわれる館山には、地球の成り立ちが学べる地層や海食洞穴もある。近代産業史では、世界的な業績をのこした科学者や企業人を輩出しており、豊かな教育・文化を継承してきた地域であったことも分かってきた。目に見える文化・自然遺産ばかりではなく、先人たちが築いた知恵や歴史そのものを知り、語り継ぐことは、豊かな地域社会の創造につながる。
フランスで提唱された「エコミュージアム」という概念がある。地域のフィールド全体を「地域まるごと博物館」と見立てて、魅力的な自然遺産や文化遺産を再発見するとともに、市民が主役となって学習・研究・展示や保全活動を通じて、地域づくりに活かしていくという考えである。館山では、その具体的な手法として、中央公民館との協働により、昨年から「地図づくり講座」を開いている。市民ガイドによる解説つきスタンプラリー形式で、市内10キロの自然・歴史文化遺産をめぐる「里見ウォーキング」も毎年続けている。
今春発行したガイドブック『たてやま再発見〜海とともに生きるまち』ではウォーキングルートを5つのエリアに分け、それぞれを博物館の展示室のようにテーマを設定した編集を試みた。近代の産業振興と震災復興、転地療養と医療伝道が学べる「まちなかエリア」。「城山エリア」では房総里見氏と『八犬伝』の世界。戦跡が集中している「赤山エリア」では平和学習。歩いて渡れる「沖ノ島エリア」では自然環境学習。近代水産業と水産教育の発祥の地「北下台エリア」。それぞれの特性から浮かび上がってくる南房総・安房の新しい地域像は、先人たちの培った「平和・交流・共生」の理念である。戦乱や災害を乗り越え、新しいものを生み出してきた先人たちの姿は、現代社会で忘れられている大切なものを私たちに教えてくれる。
昨春開催された「平和の文化を築くセミナー」において、元ユネスコ平和の文化局長Dアダムス氏は「軍需産業に対抗し得る平和産業はピースツーリズムである」と明言している。今年1月に公布された観光立国推進基本法の第2条3項では、「観光立国の実現に関する施策は、観光が国際相互理解の増進とこれを通じた国際平和のために果たす役割の重要性にかんがみ、国際的視点に立って講ぜられなければならない」と謳われている。また、旅行業界では「国連持続可能な開発のための教育10年」に連動し、持続可能な観光(サスティナブル・ツーリズム)という考え方が重視され始めている。私たちの活動はこれらの理念と合致する。
先人たちの築いた歴史・文化遺産をまもると同時に、まず市民が自らの地域を学び、観光してその魅力を再発見し、誇りをもって語れる市民ガイドを養成することがユネスコ精神に基づいた「平和の文化」であり、ピースツーリズムであるといえよう。 (完)