館山の地から「平和・交流・共生」の精神を……執筆:池田恵美子
・・*「世界へ未来へ9条連ニュース・リレートーク」に収録
■東京湾の要塞だった館山
地図を逆さまに見てみると、館山は日本列島の中央で、太平洋に突き出た頂点にあたることが分かります。古代より海路の拠点であった館山は、海洋民が交流し、豊かな黒潮文化を育んできた反面、繰り返し支配権力にも狙われ、アジア太平洋戦争では東京湾要塞とされました。
現代に生きる私たちは、その痕跡から歴史的環境を掘り起こし、先人たちが培ってきた「平和・交流・共生」の精神を継承し、地域への誇りを育む平和文化の活動を実践しています。
長年放置されてきた戦跡は、十数年にわたる調査研究と保存運動が功を奏し、「館山海軍航空隊赤山地下壕」が2004年4月に平和学習の拠点として自治体により整備・一般公開され、その翌年には市の指定文化財となりました。
年間1万人を超える人びとが訪れ、私たちも約200団体の平和・人権研修を迎えて講演やガイドを行なっています。
■太平洋を渡った房総漁師たち
明治時代、房総のアワビ漁師たちは太平洋を渡り、カリフォルニア州モントレー地域に器械式潜水を導入して、日系人コミュニティを形成しました。
アワビ缶詰やアワビステーキで成功を収め、アメリカに食文化革命を起こした彼らのゲストハウスには、尾崎行雄や竹久夢二ら政治家や文化人も滞在し、日米親善のかけ橋となっていたようです。『戦場にかける橋』で有名な日本人初のハリウッド俳優・早川雪洲も南房総市千倉町の出身で、兄が潜水夫の一人でした。
ところが、日米開戦の後、太平洋沿岸域に暮らしていた日本人・日系人は皆、強制収容所に移送され、アワビ漁の歴史は消えてしまいました。
■米軍の直接軍政下にあった館山!
一方、戦争末期の房総半島南部には、本土決戦に備えて7万人の軍隊が配置されていました。
また、終戦直後の1945年9月3日には、館山にアメリカ占領軍3500名が上陸し、「4日間」ですが本土で唯一の直接軍政が敷かれました。
もし終戦が遅れていたら、南房総は戦場と化していたかもしれません。
アメリカ側が、日本本土侵攻計画「コロネット作戦」を立てた際、作成した情報マニュアルの千葉県版には「モントレー駐屯地で収集したデータを含む」と記されています。私たちはこの一節に注目し、移住した房総のアワビ漁師たちが情報戦に関わらされていた可能性を推察しています。
■未来にかける平和の架け橋
「戦後60年」の昨夏、地域の諸団体と連携を図り、2ヶ月にわたる「南房総平和フェスティバル」として、「日韓友情年子ども交流」や「平和美術展」などを開催しました。
その一環として、米占領軍館山上陸から60年目の日には、モントレーから日系移民史研究者と40人が来日し、アワビ漁師を顕彰する平和祈念日米交流事業を館山で行ないました。
この4月末には、モントレーでも同様のシンポジウムが開催され、NPOからは鈴木政和さん(安房9条連)らが調査研究を兼ねて渡米しました。
平和友好のシンボルとして、背中に日米両国の国旗がデザインされて明治期に作られた万祝(漁師の晴着)をアメリカの博物館に寄贈する大役を果たし、国際平和に貢献することができました。
ご支援いただいた関係者の皆様に、この場を借りて御礼を申し上げます。