●神田吉右衛門
1834(天保5)〜1906(明治35)
=内村鑑三の人生を変えた漁村の改革者=
房州布良の満井武兵衛の子として生まれ、25歳で神田家の養子となり、吉右衛門を名乗る。同年周囲に推されて整理委員となり、荒廃していた村政を改善した。
1873(明治6)年に磯根アワビ売買の私有を廃し、小学校における徳育教育の必要性を訴え、村人と図って義捐金を募り、学資援助を行った。授業料の減額や教科書の貸与を進めたため、近隣からも多くの来学者があった。
1876(明治9)年、全村が大火となったとき、官から資金を借りて復旧に尽力した。1879(明治12)年コレラが流行したときは療養看護や予防消毒に奔走
1882(明治15)年には病人を諭して隔離し、疫病の蔓延を防いだ。同年、器械式潜水によるアワビ漁業を起こして、収益を村の共有財産とし、道路や漁港、水道など公共事業費のすべてをまかない、残余金を329軒の村人に分与したという。漁船改良や水産増殖、海難救済に尽力
1885(明治18)年には相浜から乙浜までの漁業組合頭取になり、マグロ漁の遭難救助積立金制度をつくって漁師の相互扶助の道を拓いた。同年、藍綬褒章を賜り善行表彰。
1889(明治22)年布良村と相浜村が合併して富崎村となり、
1893(明治26)年から6年間村長を務め、安房水難救済会も設立した。
1896(明治29)年には、マグロ船の船頭認定制度を設けて証書を交付し、
同年から4年かけて3回の「水産談話会」を布良で開催している。議事録をみると、村長以下区長、区議、各委員、延縄船主と船頭など100人が出席し、水夫の雇入れ契約届の徹底、船頭の資格要件、給与額の確認、賭博禁止と罰則、遭難防止対策、新しい魚漁法の工夫などが話し合われている。
1889(明治32)年、鏑木余三男や小原金治らとともに房総遠洋漁業会社をおこし、安房汽船会社の創業にも拘わっている。藍綬褒章受章。
1913(大正2)年に富崎小学校に神田の顕彰碑が建てられている。
有名なキリスト教思想家の内村鑑三は自著の中で、「余が聖書研究に従事するに至りし由来」として、1890(明治23)年8月に水産伝習所教師として漁業実習で布良を訪問した際、神田吉右衛門翁との出会いが人生の転機となったと記している。このとき、59歳の神田が29歳の内村に語ったのは「いくらアワビの繁殖を図っても、いくら漁具を改良し、新奇な網道具を工夫しても、彼等漁夫を助けてやりことはできない」「なによりも先に(刹那的に生活する)漁師を改良しなくてはだめだ」ということであった。これを聞き、「脳漿を刺激され…ある決心を強め…本職として従事した職をなげうった」とある。
神田君碑(神田吉右衛門顕彰碑文)
=枢密顧問官正三位勲二等男爵船越衛 篆=
君は通称、三冶郎と云い、千葉県安房国布良村の人で、満井武兵衛の第二子なり。25歳の時、神田氏を継ぎ、吉右衛門と改名せり。人のためにまことに篤く、言行に偽りなし。明治5年学校制度施行の際、君は小学校における徳育教育の必要性を感じ、村人と図って学資蓄えの義捐金を募り、授業料の減額や教科書の貸与を進めた為、近隣より来学者が多数あった。この年周囲より推されて整理委員となって荒廃していた村政を改善、採鮑業を共通の財産として村の基本財産とした。
明治9年全村大火で家財ことごとく烏有に帰した時、君は奔走して官より金を借り、村民を助けて飢寒を免れしめた。同12年布良にコレラ蔓延した際は身を挺して療養看護、予防消毒に奔走し、15年には君の諭しにより村人を病院に隔離して疫病の蔓延を防いだ。明治18年6月、官より藍綬褒章を賜り、善行を表彰される。
明治22年布良、相浜合併し富崎村となりしとき君は村長に選ばれ、32年辞職した。33年房総遠洋漁業会社社長となったが、業半ばで病に倒れ、明治35年1月11日に69歳で病没した。神田氏に実子なく、甥の真吉を養子にした。
嗚呼、君は終始一貫身を挺して公益のために尽くした。海事では、漁船の改良、水産増殖、海難救助の尽くし、漁業組合、漁業会、安房汽船会社等、君が籍を置かないものはなかった。明治18年6月、官より藍綬褒章を授かる。また、公私団体に屡しばしば金品を贈った。その功を誉め今ここに村民追慕しその徳を慕って、この碑を建立する。
(吉衛門の功績を称えた詩文、省略)
明治44年8月
感 謝 状
(口語訳)
布良村の磯根鮑漁は元々数名の村内有力者が売買権を独占し、その利益を一人占めしていたのですが、明治六年に貴方は率先して大改革を執行され、磯根鮑売買の権利を村で共有することを認めさせました。当時は明治維新がおこって日が未だ浅く、万事が旧来の慣習を尊ぶ風習があり、加えて関係者は皆村内屈指の有力者でしたので、これらのことを断行することは決して容易なことではありませんでした。
また明治一五年には、貴方の発意によって潜水器採鮑業をおこし、これを村有にしました。以来、その利益は莫大で、道路・港湾・水道など各種修築や公共事業費をすべてこの収益で賄い、のこりの利益は村民に分配し、将来に備えた莫大な村有財産を蓄えました。この偉大な功績は布良区が存在する限り、永遠に消えることはありません。
布良区会は満場一致で、貴方のこの偉大な功績に対して永久の功労を忘れないために、ここに感謝状を進呈いたします。
明治三十四年五月 富崎村長 石井嘉右衛門
神田吉右衛門 殿