●安房の歴史概要
【安房の姿】
安房は、三方を海に囲まれた房総半島の南部にあって、海洋性気候のもとで豊かな自然環境の地域である。日本列島のほぼ中心部にあって、関東を背後にもつ太平洋に突き出た房総半島は、太平洋世界(黒潮)の豊かな海洋文化を育み、人びととの交流をすすめてきた。そして関東での政権所在地であった鎌倉・江戸・東京から見ると、東京(江戸)湾の入口に位置する半島先端地域は、古代より戦略的な要衝の地と見なされていた。
【安房の特性】
この安房の人びとの暮らしや生き方から地域の特性を考えてみる。まず台風や一時的な豪雨がある海洋性気候のもとで、人びとは植生的な特性を活かした農業形態を生みだし、なかでも花き栽培などに工夫をこらした花作り農業をおこなってきた。また、古代から自力で海に潜って魚介類を採取したり、肥料や食として海藻を採集する磯根漁業、あるいは鯨やマグロなどと格闘し獲物を得る「突ん棒」漁など、地域に根ざした海洋文化をうみだしてきた。そして忘れてならないのが、環太平洋造山帯に位置した世界的な地震多発地帯のなかで、元禄地震や関東大震災などの大災害で壊滅しても、それを乗り越えてきた暮らしや生き方を見ることができる。
【太平洋に突き出た房総半島】
古代より中央政権や地域支配者は、太平洋に突き出た半島部が同時に、東京(江戸)湾口部という地政的な位置に着目し、海上交易や軍事戦略の要衝の地にしていった。ここに強い関心をもち、その重要性を認識した中央政権や地域支配者たちは、交易に関わる施設や軍事施設だけでなく、交易や漁業に関わる神社仏閣などを数多くの設置していった。ただ中央政権や地域支配者の意図的な政策によって、たとえば古文書類が残されていなかったり、あるいは戦乱や地震・津波の大災害によって、多くの文化財や古文書類が失われていったと推察される。つまり、歴史的な出来事の痕跡が少なく、その事実が埋もれたままになっている場合が少なくなく、今日わずかな古文書類を通じて再検討されたり、考古学的な発掘や民俗学的な調査などによって、少しずつ解明されている現状である。
【古代の安房】
古代から近現代の日本列島の歴史に関わる重要な事例を、安房の地から見いだすことができる。たとえば、館山市沼にある大寺山の舟葬墓は5世紀頃に海の豪族たちが船を墓にして葬送したものだが、それまで埴輪だけで推定されていた墓が実際にあったという証であり、軍事的な拠点に生きた海の支配者の姿を知るうえで画期的な発見となっている。また、6世紀頃の壱岐から出土したと同じ鳳凰の冠頭大刀をもつ豪族が埋葬されていた翁作古墳や、景行天皇の伝承とともに忌部一族の移住から高家神社に関わる『高橋氏文』などの解釈を通じて、大和朝廷の東国支配のなかで、安房がどんな役割を担っていたかが推察される。さらに、11世紀の房総半島の武士団の出現に関わる平忠常の乱や源平両家の関係、あるいは安房に丸御厨をもつ源頼朝がこの地の武士団の力を借りて再起を図り、鎌倉幕府の誕生につながっていった経緯をみると、安房のもつ歴史的な役割は決して小さいものではなく、軍事的にも海上交易でも最重要拠点であったことを示唆している。
【中世の安房と房総里見氏の登場】
北条家紋の入った瓦が出土した全国初の萱野遺跡や、そのことと関連する鎌倉諸寺や北条氏の荘園、その後所領を受け継いでいった足利氏や関東管領上杉氏の動きのなかで、特筆すべきことは房総里見氏の登場である。15世紀中頃、鎌倉公方足利氏の側近として現れた里見義実は、関東管領上杉氏が支配していた房総太平洋沿岸や東京(江戸)湾口部の海上交易を奪うために、拠点のひとつであった安房の白浜に上陸してきた。この時期、関東ではすでに応仁の乱の前段にあり、鎌倉公方足利氏側と関東管領上杉氏が東西両派に分かれ、「享徳の乱」という戦国期の幕開きとなる大争乱がはじまった。実は江戸時代の人びとに、この頃起こった関東の大争乱のイメージが残っていたことで、曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』では、この時代を舞台にしたのではないかとの研究もある。
安房国は鎌倉に近く、上杉氏との戦いでは最前線で、その拠点の稲村城や滝田城を通じて、安房の支配を成功させた里見氏は、北上して房総半島全域の支配に乗り出し戦国大名になっていたのである。そこに立ちはだかったのが、対岸三浦半島や伊豆半島で力をつけていった後北条氏である。海上交易など東京(江戸)湾の制海権をめぐる里見と後北条の水軍などの戦いは、約40年近く繰り広げられた。一時里見氏と後北条氏は和平策のなかで力を温存し、とくに後北条氏は上杉謙信などとの戦いを通じて関東支配を広げていったものの、最後は秀吉の支配に屈している。
一方、里見氏は秀吉や家康との関係のなかで源氏の流れをもつ外様大名として上手く立ち回ったが、17世紀初頭、軍事的戦略的拠点を支配し、強力な水軍をもった外様大名里見氏には、家康からはさまざまな口実をつけられて改易されていった。こうして安房は江戸幕府という中央政権の関係者が直接支配する地域となっていった。
【世界史からみた安房】
幕末からアジア太平洋戦争までの近現代では、歴史的な出来事の痕跡が数多く刻まれている。なかでも東京(江戸)湾口部にあったことで、対外政策上の軍事戦略では、東京湾要塞砲台群の施設をはじめ、さまざまな戦争遺跡が残っている。20世紀前半期は「戦争の世紀」といわれるが、この安房はアジア太平洋戦争の軍事拠点であった東京湾要塞地帯にあって、館山海軍航空隊や館山海軍砲術学校、そして洲ノ埼海軍航空隊などが設置され、戦争末期にはこの地の住民たちも含めて、帝都防衛のかけ声のもと本土決戦体制が敷かれていった。陸海軍のさまざまな特攻基地など、アメリカ軍の上陸を想定した7万人近い部隊が配置されたなかで敗戦をむかえた。1945年9月2日に戦艦ミズーリ号で降伏文書が調印されると、翌日にはアメリカ占領軍が館山に約3,500名が上陸して、本土では唯一、館山が直接軍政下館山におかれた。
【ユネスコの「平和の文化」】
戦後、軍都館山の人びとの戦争による傷跡は深く、市民たちは平和を求めていた。日本が国連へ加盟したのは1956年だが、すでに1951年のユネスコ総会で日本が60番目のユネスコ加盟国として認められたのも、1947年に民間ユネスコ運動として世界で最初に仙台ユネスコ協力会が結成され、国際的にも大きく評価されたからであった。その翌年には全国でも数番目、千葉県内では最初のユネスコ協力会が館山で設立され、地域から「平和の文化」をつくる運動がおこった。そして1951年に館山ユネスコ保育園が創設され、世界でただ一つ「ユネスコ」がついた保育園が今もユネスコ精神で運営されている。