●安房地域における本土決戦体制≪「一億玉砕」「一億総特攻」のスローガン≫●
昭和19年(1944)6月、アメリカ軍はマリアナ諸島のサイパン島に上陸し大激戦となり、結局日本軍守備隊は壊滅していった。また、連合艦隊もマリアナ沖海戦で大敗北したことで、太平洋での制空・制海権を失い、絶対国防圏は崩壊していったのである。
大本営は7月に、「本土沿岸築城実施要綱」を示して、本土防衛のために沿岸砲台や陣地の建設を命じた。東京湾要塞に関わる各部隊は、敵の上陸阻止を主なねらいに、抵抗陣地や砲台施設の建設をはじめた。たとえば館山市大賀には「作戦室」「戦闘指揮所」と明示したコンクリート製の額がいまも残っている地下壕がある。この時期に「洲ノ空」の兵士たちによって建設され、その後本土決戦では抵抗拠点「128高地」といわれている。コンクリート製の額には「昭和十九年十二月竣工」と刻まれ、近づく本土決戦を想定して各部隊や軍事施設が本格的な陣地つくりに入っていったことがわかる。
戦争末期の「館空」では、特攻作戦の訓練基地の役割も担っていた。絶対国防圏が崩壊したことで、その年11月から戦略爆撃機B29による本土空襲がはじまるが、それを阻止するために大村謙次中尉指揮の第252航空隊戦闘317飛行隊零戦12機は、のちに神風特別攻撃隊第一御盾隊と呼ばれるが、「館空」で猛訓練をおこない、11月にサイパン島アスリート飛行場に駐機するB29に体当たり攻撃を敢行している。
空襲が激しくなり本土決戦が叫ばれるようになった昭和20年(1945)初め、安房の多くの住民たちは機銃掃射や空襲の恐ろしさを身近で実感することになる。アメリカ軍は、2月19日からの硫黄島上陸作戦を前に、関東各地の航空基地をたたく作戦を実施し、2月16日早朝からアメリカ海軍第58機動部隊の艦載機延べ1千機が安房地域に侵入して、それまでにはない激しい攻撃を加えた。午前7時5分、白浜の監視哨からは「敵小型機編隊、北進中」と報告されたものの、白浜にある陸軍城山レーダー基地の防空警戒網では、低い高度からの侵入であったアメリカ軍機を捕捉できなかった。監視哨から報告を受けて厚木基地の第302航空隊と、茂原と館山を基地とする第252航空隊(零戦240機配備)の戦闘機が出撃した。しかし、十分な反撃はできなかった。
「館空」は、アメリカ軍機の機銃掃射や空爆をうけ、軍事施設はもちろん周辺地域の列車や民間施設などが次々と攻撃目標になり大きな被害を受けた。本土決戦が叫ばれ、帝都に近い房総半島全域が最重要地域となり、房総南部では鋸山を最期の抵抗陣地にすべく「第二の沖縄戦」を想定し、陸海軍7万人近くの決戦部隊や特攻部隊が、アメリカ軍を迎え撃つ態勢を整えていった。
この年の3月8日、房総南部での作戦命令が出され、沖縄戦がはじまった4月1日には、東京湾要塞戦闘司令部が那古に設置された。同時に最終的に立て籠もる陣地として、富津市と鋸南町の界にある標高約300㍍の鋸山が戦闘司令部として陣地構築の準備に入っていた。この時本土決戦の陣地つくりと部隊の配置では、沿岸配備兵団と決戦兵団による持久戦と水際戦をあわせた作戦を構想していたといわれる。
4月はじめ、東京湾守備兵団では、ほぼ1会戦分としての自動車燃料をはじめ、房総南部沿岸に配備された部隊が約1ヶ月間戦える食糧などを配給するとしていた。また、部隊内に物資収集や木炭、食糧などの生産をすすめて自給自足体制をつくったり、地域との連携を図って援漁隊や援農隊によって食糧の確保をめざした。
またこの頃、「館空」に隣接していた「洲ノ空」も空襲が激しくなり、各班を館山各地に分散している。武器生産の面では、鋸山麓の金谷に臨時造兵隊を開設し、陣地構築の道具や築城資材、あるいは迫撃砲や迫撃弾薬(10万発)や重擲弾筒や重擲弾薬(5万発)の簡易兵器、そして本土決戦用として特別な刺突爆雷(5千個)や手榴弾(10万発)などの生産をすすめた。さらに有線や無線など通信関係の断絶に備えて、視号通信による準備や訓練を実施したり、特設見張所や電波警戒機の設置、列車砲の編成、特攻機「桜花」43乙型を発射するカタパルト基地の建設を命じている。
この頃、千葉県各市町村では国民義勇隊がつぎつぎに結成され、5月末に館山市でも地域の住民たちは本格的な本土決戦体制に組み込まれていった。6月8日の御前会議では「今後採るべき戦争指導の基本大綱」を示し、「国体護持」の精神をもって挙国一致で本土決戦に突入し、最後の最後まで戦争を遂行することを決定している。その際、老幼者や病弱者、妊産婦を除く全国民が会社工場や地域ごとに国民義勇隊を結成し、なかでも国民義勇兵役法によって、15歳から60歳までの男子と17歳から40歳までの女子は、すべて国民義勇戦闘隊として戦うことを義務づけた。こうして「一億玉砕」「一億総特攻」をスローガンのもとに、子どもから老人まで全国民が軍隊化され、天皇制を護るという一点で本土決戦体制が敷かれていったのである。
本土決戦作戦が決定すると「帝国陸軍作戦計画大綱」をつくり、日本本土でのアメリカ軍の本土侵攻にあたって、基本的には海上とか、海岸線の水際で撃破するように指示し、もし上陸を許しても敵の攻撃に耐える地形を利用した陣地や、敵を引き入れて接近戦にふさわしい陣地をつくることを方針とした。その命令を受けて東京湾守備兵団では、敵が上陸する寸前に海岸において壊滅させることを第一の作戦にしたので、海岸線の陣地や沿岸要塞を中心に、とくに敵の上陸が予想される館山湾や平砂浦海岸、千倉海岸での攻撃態勢の強化を図ることを命じている。敵の進軍を阻止するために強力な抵抗陣地を建設するだけでなく「偽陣地」をつくって、そこに部隊がいるように思わせ、敵の艦砲射撃を集中させることで決戦部隊の温存を図るような作戦方針を立てた。
本土決戦の陣地をつくるなかで、1つには個人用にした陣地(各個掩体、通称「タコツボ」)などの敵の攻撃を防ぐ施設をたくさん準備しながら、とくに森がなく見晴らしが良い場所の陣地では、農作物をつくって食糧を増やすとともに、身を隠して戦えるような方法をとることを命じている。2つ目には、房総南部の沿岸にたくさんの「偽陣地」をつくることを命じ、当時の作戦記録によると、白浜北側・七浦・健田村・「112高地」付近・和田北側・大塚山・宝性寺西北側高地・内浦湾西北側高地・江見東側高地・太海付近などの太平洋沿岸の地名があげられている。「偽陣地」の建設作業には、地域の住民や学生などを多数動員して、その際には敵の偵察やスパイに悟られないように、まず作業させている住民や学生などをだまして、本当の陣地であると知らせるように命じている。そして忘れてならないのは、この陣地には国民義勇戦闘隊として組織された住民たちを決戦部隊と思わせるように偽装して配置し、艦砲射撃をこの陣地に集中させ、また決戦部隊の盾になるような戦略であったと推定されるのである。
●安房各地に特攻基地建設●
鋸南町の勝山や岩井袋、また館山市波左間や洲崎には、海軍の特攻基地が建設され、現在も水上・水中特攻兵器を配備した素堀りの格納壕が残っている。これらの特攻基地は戦争末期、横須賀に司令部を置いていた第1特攻戦隊第18突撃隊のものである。海軍では、各種特攻兵器による部隊を編成して本土決戦に備え、なかでも昭和20年(1945)6月に第1特攻戦隊では約1700名をもって第18突撃隊を編成して、岩井袋を本部基地に水中特攻艇「海竜」や「蛟竜」を、東京湾口部には主力兵器の水上特攻艇「震洋」基地3か所や小型人間魚雷射堡(発射)基地四か所を配備する準備に入った。本部基地建設のために、3月下旬から3000名ほどの兵士が動員され、他の特攻基地でも200〜300名の兵士たちが送り込まれ、格納壕をはじめとする居住・燃料・兵器・食糧など素掘りの壕建設が突貫工事ではじまった。
なかでも波左間では、小さな漁村の民家をカモフラージュにして水上特攻艇「震洋」の基地が建設された。この「震洋」は、上陸用船舶の撃沈を目的とする小艇で、爆薬300㌔を積み全長5㍍約1㌧、トヨタ4㌧トラックガソリンエンジンを改造した軽構造木造高速艇であった。特攻兵器として最も多く製造され、昭和19年(1944)7月から月産500〜600隻のペースで、翌年8月までに約6200隻が製造された。その搭乗員の多くは、各練習航空隊で航空機乗員として教育を受けていた甲種・特乙の飛行予科訓練生(予科練)の志願者で、約3ヶ月間の教育訓練後、全国の113の「震洋」隊に配属されたといわれる。約4000隻の「震洋」を配備した各地の特攻基地は、アメリカ軍上陸が予想された関東や四国、九州など太平洋沿岸であり、とくに房総半島では九十九里海岸や艦砲射撃から特攻兵器が護りやすい岩場が多い外房地域の勝浦や安房小湊などに配備された。
房総南部の抵抗拠点のひとつに位置づけられた三芳地区下滝田(南房総市)では、海軍が本土決戦の切り札として全力をあげ開発した特攻機「桜花」43乙型と、それを発射するための5式噴進射出装置(射出用カタパルト)の基地建設が命令されている。この秘密基地は、上滝田・下滝田・吉沢・平群の4か所に分散した基地形態をとり、12基のカタパルト式コンクリート滑走路を建設する計画であった。1基のカタパルトには5から10機の「桜花」を配置し、全体で50〜60機を基地に配備予定とされた。とくに上滝田や下滝田の基地では、早急の工事が指示され昼夜突貫によって、8月末までの完成が求められたのである。
「桜花」は、昭和20年(1945)3月以来、実戦に使用されていた海軍の特攻機である。当初の11型や22型は、航空機に吊り下げられて、敵の艦隊近くまで運ばれ、ロケット噴射で、高速で滑空しながら体当たりするタイプであった。しかし、本土決戦のなかで沿岸に近づく敵の艦船を直接攻撃する陸上用に改造して、カタパルト発射用として43乙型が試作された。全金属製機体に800㌔爆弾を搭載して、推進にはターボジェットエンジンを使った最新鋭の航空機であった。と同時に、当時の航空技術の粋を集めて、新たに火薬ロケット噴射による台車が高速でレール上を移動することによって、特攻機「桜花」が短距離で離陸するカタパルト方式を開発したのである。
当時、世界最速のカタパルト発射装置をもった基地建設には、貧弱な作業用具しかなかったが突貫工事ですすめられ、教育部隊の練習生や予科練の少年たち、あるいは地域の住民も勤労動員されたという。なかでも三芳・下滝田での建設では、朝鮮人労働者がいたとの証言があった。8月に入って、基地はレールも敷かれ格納庫も完成し、後は「桜花」43乙型の配備という状況で終戦となった。
●本土決戦下の安房の軍隊●
昭和20年(1945)6月、東京湾守備兵団は東京湾兵団と改称され、改めて部隊配置がおこなわれた。そこには第354師団や独立混成第114旅団などを投入して、本土決戦のために帝都防衛の最前線として兵力の増強を図っていった。
武甲兵団と呼ばれていた第354師団は、歩兵第331連隊・第332連隊・第333連隊によって編成され、千倉北方海岸正面に配置されていた歩兵第427連隊を指揮下に、千倉北方海岸への配備となった。師団司令部は7月中旬に那古船形へ進出して、8月には丸国民学校へ移動した。各歩兵連隊も7月末から8月初旬にかかけて、第331連隊が丸山地区南三原周辺に、第332連隊が千倉周辺に、第333連隊が「館砲」を経て白浜地区から和田地区の海岸の水際に配置され、8月初め頃から陣地構築に着手している。
一方、師団工兵や通信隊は後方の館山市北条に、また20㌢噴進砲18門配備の3個中隊編成噴進砲隊は鋸南町勝山に、さらに野戦病院などを保田に配置している。
このように兵力の重点は、館山市周辺地域を確保するために師団の主力部隊を那古地区はじめ、平砂浦海岸や千倉・白浜付近に配置し、積極的に攻撃する作戦を立てた。とくに房総南部に上陸してくると思われる敵を水際の海岸線で阻止するとともに、三浦半島の守備兵団と連携をとりながら、敵が東京湾口部を突破して侵攻しないように全力で戦うことを命じている。7月はじめの沿岸築城要綱では、最新の戦訓や戦闘方式に対応するように、陣地全体の施設を再検討して、兵力の重点は海岸線近くに置き、敵の侵攻では海岸付近につくった陣地で阻止するとした。
ところで、6月21日、アメリカ軍が沖縄全島の確保した旨を宣言した後、ハルゼー大将が率いる105五隻のアメリカ海軍太平洋艦隊第3艦隊第38機動部隊は、7月1日に本土侵攻の事前作戦をはじめ、日本軍に残っている艦艇や航空兵力を壊滅させる動きに出た。残存する軍事施設や航空基地を破壊することで、本土侵攻作戦をスムースにすることをねらいに、10日には艦載機が関東全域の航空基地を目標に爆撃をおこない、アメリカ軍機動部隊による本格的な攻撃が開始された。14日朝から釜石の製鉄所に対して戦艦による本土初の艦砲射撃をおこない、15日に室蘭の製鉄所、17日夜には鹿島灘から日立、水戸に対して艦砲射撃を実施している。7月16日から連合国首脳は対日作戦を話し合うポツダム会談を開催するが、アメリカは原爆実験の成功を背景に、対ソ連関係での軍事的優位を図った。対日作戦でも第3艦隊が、ソ連参戦前に日本本土の制海制空権を完全に確保する必要があった。本土侵攻作戦上、東京湾口南方16㌔海上地点に接近し、海軍の水上水中特攻作戦を警戒しながら、白浜だけではなく、千倉・布良のレーダー基地を探索したなかで、7月18日深夜、白浜にある陸軍城山レーダー基地にむけて巡洋艦四隻から六インチ砲弾240発が打ち込まれた。
「捨て石」作戦といわれた沖縄戦が終ったことで、取りあえず戦闘準備を完了させた東京湾兵団は、連合軍側がほぼ本土侵攻作戦準備を終わって、7月20日には攻撃兵力が沖縄から移動し近海に来ているとの情報を第12方面軍から得ていた。8月14日夜から翌15日未明にかけて354師団などでは、非常招集によって海岸に移動させられ、各個掩体を掘らされたという証言がある。九十九里海岸にいた第52軍(捷兵団)にも見られ、東京湾兵団や第52軍の司令部であった第12方面軍司令部が、8月3日付で発令した「決三号作戦計画」による作戦行動であった。
●幻に終わった「第二の沖縄戦」●
本土決戦に備えて、比較的早く編成された独立混成第96旅団(八代兵団)を見ると、その主兵力が教育されていない補充兵であり、装備とはいっても小銃や銃剣がせいぜい数人に1丁で、わらじ履きや竹筒での食事という貧弱な姿で、地元の住民からも不信感をもたれていた。旅団の各独歩大隊は、編成後数日で安房地域の駐屯地に進出し陣地構築を開始しているが、進出先でも構築の合間に一応の訓練を実施したものの装備不足であり未教育の補充兵らの戦闘能力を高めることは不可能であった。
また、昭和20(1945)年2月の第1次兵備により編成された師団である第147師団(護北兵団)の歩兵第427連隊を見ると、人員は定数を満たしていたものの、全体の3割弱が中年以上の年令の予備役や国民兵役出身者であった。装備の点は比較的充実しており、当時として貴重な機関短銃36丁、あるいは対戦車砲4門を配備し、護北兵団の装備としては充実していた。しかし、竹製の水筒を代用品にしたり、銃剣の剣身は国鉄旭川工場や師団兵器勤務隊が市電のレールを材料に製造したとか、木や竹製の鞘を付けたものが相当数あったといわれている。
そして、5月下旬の第3次兵備によって第354師団が編成されたが、この師団の参謀によると、8月1日に頭数だけそろったが、幹部は士官学校出身者が師団長・参謀3名・歩兵連隊長3名・大(中)隊長に2〜3名であり、下士官の約3分の1は満州などの外征部隊における負傷退院者、また約3分の1が6週間現役と略称された小学校教員、そして残り3分の1がほとんど高年令の老兵の招集者であったと回想している。こうした実態は、昭和20年に入ってからの新編部隊に共通しており、歩兵第332連隊の小隊長が部下の中に小学校当時の恩師がいたと述べていることから見て、相当な老兵士がいたことになる。第354師団の編成後、新兵訓練もなく数日で安房地域の陣地構築に投入されている。装備についても、数人どころか分隊に1丁という小隊もあり、小銃や銃剣については、粗雑な仕上げの99式小銃に竹鞘の銃剣という状況であった。終戦後のアメリカ占領軍への武器引渡しによると、火器一丁当たりの保有弾数は、小銃の30発、軽機関銃の500発、重機関銃2500発であったと記録されている。個人装具では、竹製の水筒や食器はあたりまえで、背嚢がなかったり腰ベルトの代わりに縄を巻く兵士もいた部隊であったといわれる一方で、銃を肩に靴音も高く響かせて進駐してきた陸軍部隊の姿があったとの証言もある。
本土決戦に際して新編成された部隊は末期的な状況であったが、東京湾兵団のなかの要塞重砲部隊は、艦載砲転用の砲塔砲台や28㌢榴弾砲、また89式15㌢カノン砲や38式野砲といった野戦砲などの装備があり、要塞砲兵の質や量も安定していた。
なお、兵団には必要時に召集される在郷の軍人によって編成された特設警備第29中隊という部隊があった。本部は安房北条にあり、分遣隊は千倉地区の七浦に置かれ、他に特警28中隊鴨川分遣隊が兵団指揮下にあった。担任地域で沿岸警備や監視活動、訓練に従事していたが、その装備は、わずかな小銃と軍刀のみであったという。
独立混成第96旅団の第659大隊や第354師団の歩兵第333連隊などは、佐倉連隊区で編成されたので、入営後数日で軍用列車で生まれ故郷の駅に降り立つ、安房出身の新兵や応召者がいた。地元出身者たちには、地縁・血縁を使っての食糧調達や資材確保などが命ぜられたという。軍需物資の調達強化のために各部隊では、物資調達の統制をおこなったり、地元市町村の要請に答えての援農や、機関銃装備の援漁隊を編成し漁業会に協力している。
しかし、現実には陸海軍や陸軍部隊同士による食糧確保による摩擦がおき、たとえば新編成の部隊では、畑に直接軍用トラックを乗り入れ、無断で作物を引き抜いた後に安く買いたたき、農民たちを憤慨させることもあったと「館砲」元主計長は回想している。
第354師団での食糧事情を見ると、現地生産米の絶対量が不足していたので、食事は米麦半々位で味噌汁の実はイタドリの葉が多く、またウドン粉が少ないので枇杷の種を粉にしたものを半分混ぜたという。歩兵第332連隊では、薄めた海水に大根葉の汁であったとか、また歩兵第333連隊では毎食にコップ1杯の茹でた高粱であったとか、終戦まで期間は短かったものの兵士たちは空腹や栄養不良のなかで、「一億総玉砕」のスローガンのもとで陣地構築と訓練の緊張した毎日を強いられていたのである。
第354師団の参謀であった人物は、「南房州の地は要塞地帯であって地形上も平時演習には不便であったので、由来軍民の接触は少なかったし、海軍の勢力が相当に浸入して居ったので、陸軍に対しては割合に冷淡であった。・・・・特に糧秣の集積には・・・・・農業倉庫等に相当強圧がかかったと思うが、地方官吏の態度には丁度中国の村長の様な態度を想起させる点が多かった。唯々諾々だが実行は極めてスローモーであった。数ヶ月後に敵の上陸を見るかも知れないのに、地方人の臨戦体制は全く零に等しい。民衆の避難・収容・救急の計画、陣地構築に関する射界の清掃等も何等協力もしない状況であり、予は支那から帰国し余りの其の呑気さには呆然としたのであった。」「師団の将兵を見かけると、土地の住民が姿を隠す有様を見て、敵国の軍隊ならいざ知らず、これではおしまいだと痛感した。」と回想している。本土決戦を前にした状況下にあって、安房の住民たちに相当な不信感をもっていたと思われる。しかし、住民たちも戦時体制下で我慢に我慢を重ね、さらに軍民一体となった本土決戦のかけ声のもとで苦しんでいた。安房という狭い地域に多数の陸海軍部隊が駐屯し、食糧の供出や兵舎としての住居提供、さらには勤労動員などの負担が重圧になっていた。本土決戦前の緊張した状況のなかで、一部の兵士たちの住民いじめや不法行為を放置して「地方人(民間人)は無条件に軍の意向に従う」ことを求めても、住民たちが厭戦気分や軍隊への悪感情をもったのは当然であった。
「根こそぎ動員」といわれた本土決戦への第3次兵備編成は、とにかく頭数だけをかき集めて不十分な装備のなかでの陣地構築の軍隊であり、住民たちを「偽陣地」に配置して軍隊の盾にするような作戦のなかで、南房総・安房を舞台とした本土決戦は、「第二の沖縄戦」ともいえる過酷で悲惨な状況を想起させるのである。
●戦時下の国民生活の崩壊と敗戦●
開戦後、政府は民需生産の工場を軍需工場にかえていって、軍需生産を最優先政策していくとともに、国民に対しては生活を極度に切り詰めさせて兵力・労働力として根こそぎ動員していった。昭和18年(1943)には、大学・高等学校及び専門学校に在学中の徴兵適齢文科系学生を軍に召集(学徒出陣)する一方、学校に残っている学生・生徒や女子挺身隊に編成した女性たちを軍需工場などで働かせる勤労動員をおこなった。
500万人近くの青壮年男子が軍隊に動員され、日本国内で生産に必要な労働力が絶対的に不足した。制海・制空権を失って南方からの海上輸送が困難となったため、軍需生産に不可欠の鉄鉱石・石炭・石油などの物資も欠乏していた。昭和18年(1943)年からは、米穀商などが配給所となって1日2合3勺(350㌘)の米など、配給手帳での購入となった。代用食としては、「沖縄百号」や「農林一号」と呼ばれる品種のサツマイモが配給されていた。
昭和16年(1941)8月、千葉県漁業組合連合会は各漁業会長にあてに「カジメ採集ニ関スル件」を通知し、「決死的御協力ニ依リ其責任数量確保ニ萬全ヲ期シ国家ノ使命…緊迫セル時局下ニ於ケル国策遂行ニ協力」することを命じて、各漁協に対してカジメ採集の供出責任数量を割り当てた。また、県経済部長からの文書にも「カジメの供出が高度国防国家建設に寄与する処大なるを貴組合員に周知せしめ当分の間カジメの採取、集荷に専念」することを指示していた。8月、軍当局により乾燥したカジメ・アラメは、「昭和電工株式会社ニ荷渡ス事」と命令され、陸海軍指定工場であった昭和電工では、館山工場でヨード・ヨードカリ・塩化カリを製造し、興津工場ではヨード・塩化カリ・カリ肥料・食塩を製造していた。両工場とも、乾燥カジメ・アラメを焼いて海藻灰(ケルプ)からヨードを製造していたので、供出を命じられた漁民たちには、工場側からいわれた通りのカジメ・アラメの乾燥や処理が求められた。
そして、「カリを多量に含む海藻が軍需資源として極めて重要であるに顧み、商工省では陸海軍、農林、企画院の各省および全漁連、カリ塩対策協議会と協力し、全国の漁民を総動員して海藻採取の大運動を」とのかけ声が昭和18年(1943)の新聞にあり、、翌年7月には「ゼアリミン火薬、光学兵器レンズ等になる加里原料、アラメ・カジメ・ホンダワラ等の海藻は、決戦下の化学兵器だ…他の海藻採取を中止して一斉にこの『兵器海藻』採取に全力を」と、本土決戦の「兵器海藻」と報道されている。軍需品として不可欠であった医薬品のヨードから、火薬原料としての軍事的最重要物資の塩化カリまで、房総半島のカジメ・アラメが深く関わり、昭和電工などを中心とする海藻灰ヨード工業の拡大につながっていった。
昭和19年(1944)後半以降、サイパン島の基地から飛来する米軍機による本土空襲が激化した。空襲は当初軍需工場の破壊を目標としたが、国民の戦意喪失をねらって都市を焼夷弾で無差別爆撃するようになった。都市では建築物の強制取壊しや防空壕が掘られ、軍需工場の地方移転、住民の縁故疎開や国民学校生の集団疎開(学童疎開)もはじまった。
サイパン島が陥落して絶対国防圏が崩壊すると、本土空襲が現実のこととなり、新聞には防空演習や防空壕の作り方の記事が繰り返し載せられ、空襲時には待避せず、隣組などの組織的な初期消火に従事することが強調された。千葉県内への空襲が現実になると、「退避は防禦攻勢の姿勢、次の瞬間猛然と焼夷弾に敵愾心の体当たりをせよ」と、体当たりの初期消火活動が強調された。空襲は全国の中小都市にもおよび、被害は焼失家屋約143万戸、死者約20万人、負傷者約27万人に達し、主要な生産施設が破壊された。
千葉県内の空襲被害の死者数1746名の内訳をみると、千葉943名・銚子299名・市川90名の次に、館山69名となっている。都道府県別での民間人死亡者数を「太平洋戦争における我国の被害総合報告書」(経済安定本部 昭和24年)で見ると、少ない県で島根19名・山形 24名・石川35名・滋賀45名・長野53名と報告されており、館山の死者69名は少なくない数である。
アメリカ戦略爆撃調査団報告書によると、アメリカ第20航空軍は館山を総合目標部90〜14と表示し、館山海軍航空隊と洲ノ埼海軍航空隊を攻撃目標を表示し空爆の対象としているが、「第20航空軍日本本土爆撃詳報」から見ると、各種目標には軍需工場などがあり、そのひとつが目標規定64〜2421〜010と表示された池貝鉄工館山工場と想定される。
昭和20年(1945)5月19日に、アメリカ空軍第314航空団B29爆撃機1機によって、軍需施設池貝鉄工館山工場は「攻撃時刻155(日本時間10時55分)、爆弾投下高度2万4千フィート(7320㍍)、高性能爆弾(500ポンドG.P.= 250㌔爆弾)27発(7㌧)」で攻撃された。雨雲の上からレーダーで爆弾投下した結果、着弾が大きくずれて川崎地区の空爆となり、被害は死者27名、負傷者10名、そして家屋の全壊は9戸、全半壊18戸いう、空襲によって安房地域では最も大きな犠牲を払ったのである。