●里見氏の平和外交と流通政策〜商人や農民たちのたたかい●
関西・東海方面から多くの交易船によって、東京湾岸の湊である品川や神奈川、金沢などが繁栄していた。また、東京湾にある湊と江戸川や利根川流域にある数多くの湊との間で交易がおこなわれ、海と川を利用する水上交通が栄えていた。商人にとって、安全保障があるわけではなく、交易船は海賊たちの掠奪を恐れていた。
とくに里見氏の水軍は、後北条氏の湊に出入りする商船への海賊行為を日常的に行なっていたといわれ、三浦半島に出向いて放火や掠奪もしていた。同じに後北条氏も西上総の里見領でおこなっており、互いの水軍で交易船を監視することもあった。商人や沿岸の村々においては、そのために自衛手段が必要であった。
商人の場合は、海上での安全を保障してもらうために通行許可証を手に入れ、たとえば元亀3年(1572)に里見義弘は、伊勢からきていた御師の龍大夫に安全を保障する海上の通行許可証を発行している。また、天正3年(1575)には、武州金沢の商人山口越後守に義頼は、海賊行為をさせないという保障をしている。里見氏のもつ海上交易の安全保障は、東京湾航行の権限に関係して、安房国国主里見氏が受け継いだもので、東京湾の制海権を掌握していたと推察される。
ところで、里見氏の水軍から掠奪をうけた村々では、「半手」という年貢の半分を里見氏に差し出すことで安全が保障される方法を使ったという。そのためには、後北条氏からも「半手」の方法を承認してもらう必要があった。史料によると、後北条氏と里見氏のそれぞれ半分づつ年貢を差し出している地域がある。天正4年(1567)に、本牧郷が里見氏へ「半手」を差し出すことを後北条氏は承認し、そのとき後北条氏は、見返りに本牧郷に対して、本牧と木更津間での輸送業務を命じている。また、同じ頃里見氏領の西上総沿岸でも後北条氏に「半手」を出し、その収納を担当をしていた商人が天神山の野中氏であった。この野中氏は、里見領国を基盤にして鋳物生産をおこないながら、北条領国の神奈川や金沢の湊での商売を保障されていた。戦乱のなかにあっても、領主たちとの巧みな駆け引きで、農民や商人たちは活発に動いていたのである。
里見氏は後北条氏と、天正5年(1577)に和睦してから領国での流通政策に取り組み、商人には海上航行の安全保障だけではなく、都市での交易活動を優遇していた。天正の内乱を収拾した義頼は、各方面と平和外交をすすめて義堯や義弘のように上総へ移って領国の支配をすることはなく、安房の岡本城に在城した。後北条氏との抗争の心配もなくなり、安房にいても安定した上総支配が可能になっていたと思われる。
後北条氏との和睦は、東京湾の海上航行の安全と交易を保障したことで政治的な安定にもなっていった。義頼はこの時期、上総よりもむしろ安房での本格的な拠点づくりをはじめた。そのなかで館山湾でも、平安期から使用されていた良港である高の島湊と、そこを眼下にする館山城を軍事的な面はもとより、政治的経済的な拠点にしていったのである。
●秀吉の時代と里見義康●
天正13年(1585)7月、秀吉は関白に昇進して豊臣秀吉と名乗り、織田信長の後継者として政権を握った。この時期に秀吉は全国の大名や武将に惣無事令を出し、武力での紛争解決の禁止を命じるとともに、豊臣家が領地の境目を決定する権限を認めさせた。里見義頼は太刀一腰と黄金30両などを秀吉に進上して、惣無事令に従う意志を示した。天正15年(1587)には、義頼の家督を継いだ里見義康も太刀一腰と黄金10両を進上して服属を誓ったといわれる。
秀吉は徳川家康を通じて、小田原の後北条氏を服従させる交渉をおこなっていたが、早々に篭城の準備をすすめていた北条氏直の頑強な姿勢から、戦いは避けられなかった。天正17年(1589)、秀吉は戦いの先端を開き、諸大名に結集を命じた。秀吉軍への参陣の意志を示した里見義康は、まず浅野氏や徳川氏の軍勢が来る前に、後北条方の小金城主高城氏の支配地域である船橋郷まで出陣するなど、下総や上総、さらには三浦半島の方面で攻勢をかけ、とくに水軍を使っての軍事行動をとったのであった。
その結果、義康は小田原への遅参を秀吉にとがめられることになる。関東各地にある後北条方の拠点は、秀吉の大軍によってつぎつぎと落とされていき、鉢形城や八王子城、あるいは韮山城などが落城していき、里見氏と四〇年余にわたって戦いを繰り広げてきた後北条氏は、豊臣秀吉によって滅ぼされたのであった。
関東に拡がる広大な後北条の領国は、徳川家康に与えられ江戸城が拠点となった。家康に与えられた領地は、上総全域が含まれていたのであるが、それは正木時茂や正木頼忠の所領もある里見氏の領国だった。実は里見氏の支配領域を超えて軍事行動をとった義康は、秀吉の惣無事令に違反していると訴えられた。つまり、秀吉が出すべき禁制を義康自らが出したことで、義康が勝手におこなった私闘とみなされ、明らかな惣無事令への違反として処罰の対象となったのである。その結果、義康の所領は没収となり、あらためて秀吉と面会した結果、安房国領は安堵されたものの上総国の所領は没収となり、家臣は安房国内へ移されることになったのであった。
ところで、豊臣政権が打ち出した中心政策は、検地と刀狩である。秀吉は新しく獲得した領地に、次々に検地を施行していった。この太閤検地では、土地の面積表示を新しい基準のもとに定めた町・段・畝・歩に統一するとともに、それまでまちまちであった枡の容量を京枡に統一して、村ごとに田畑・屋敷地の面積・等級を調査し、石高(村高)を定めたのであった。こうして全国の生産力が米の収穫量で換算される石高制が確立したのである。
慶長2年(1597)の秋に、安房国で太閤検地がおこなわれ、検地の総指揮をとったのは増田長盛であった。奉行として長盛は、9月から11月上旬にかけて篠原金助や北村権右衛門など、10人の検地役人に命じて、安房国内222か村の各村ごとに田・畑・屋敷の面積の測量をおこない、それぞれの土地の生産力の基準を決めていった。里見氏を秀吉の家臣として軍役を命じる時に、里見氏の所領がどれだけの生産量をもっているかを確定する必要があった。検地役人たちは、村ごとの境界線を取り決め、一筆ごとに土地の質と面積、耕作者を検地帳に記載して、それをもとに収穫量を決め、田ばかりでなく畑も屋敷も米の収穫量に換算して査定した。今もこの検地帳は、18か所の村に残されているといわれる。
こうして検地によって安房国は、約9万1100石の生産高をもつ国とされ、里見氏が軍役を負担する基準は、家臣の所領として割当てた分が約4万7300石、里見氏の直接支配地が約4万3800石という結果になった。
義康は太閤検地をとおして、戦国大名から近世大名の時代へと変わっていった。軍事戦略の拠点であった戦国の居城から、政治的経済的な拠点としての近世の居城に変えていくことが求められた。天正19年(1591)に義康は、父義頼が安房や上総支配の拠点にしてきた岡本城から、とくに流通の拠点としての館山城へ本城を移すことにした。館山城は近くに平安時代から湊として使われた高の島湊があり、この湊は館山湾岸に近い割には水深があり、また高の島が西風を防ぐ役割をもったところにあった。義頼は、商人岩崎与次右衛門に指示して、流通にふさわしい整備を要望していった。
こうして、慶長6年(1601)になると義康は、城下町の育成政策を打ち出し、新井町に立つようになった市場以外での取引を禁じたり、また国中の商人を対象に国内の他の場所で売ることを禁止したり、さらに商品をすべて城下町に集め、城下町で取引することを命じたのであった。本格的な交易都市をめざした城下町づくりがはじまり、城下町の保護政策は次第に強化され、慶長11年(1606)には、城下の商人に対して諸税の免除や規制緩和の処置がなされたのであった。