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●里見氏の安房国支配〜里見氏と那古寺●

下総国本佐倉へ足利成氏の救援にいった文明3年(1471)以後、永正5年(1508)に里見義通が安房国北条郷の鶴谷八幡宮を大旦那として修復したと棟札に記載された年まで、この30余年は、里見氏の歴史のなかでも、その足跡が全くつかめない時代といわれる。

生没年が不明である里見義通は、足利氏の祈願寺である鑁阿寺に祈祷を依頼した文書の存在や、安房国内の有力な神を集めて祀った総社鶴谷八幡宮の修復に大旦那という主催者名に見ることができる。また、里見氏が鎌倉の鶴岡八幡宮の伝統を意識して、安房国主の地位についていた人物が義通であり、国の役所である国衙が総社の修復を国支配の象徴として表し、国衙奉行という役職がその祭祀を仕切っていた。棟札に国衙奉行人は正木通綱と記されている。

神社修復は、政治的な面で国衙の伝統を受け継ぐというだけではなく、信仰をとおして国内に暮らす人々の精神世界でも、里見氏の権威が承認されていたことを意味していた。精神世界の支配のために、鶴谷八幡宮を管理する那古寺住職(那古寺別当あるいは鶴谷八幡宮別当)には、里見氏当主の近親者が送り込まれたとされる。なかでも那古寺21世住職の義秀は、義実の息子といわれ、また23世の熊石丸義弁も実堯の子であるとか、あるいは義豊の子といわれてきた。里見氏当主とその弟が両輪となって、安房国の聖俗両方の世界を支配する姿であった。

この支配は、関東の武家支配で足利氏がおこなっているやり方であり、政治の世界での公方とともに、信仰の世界では鎌倉鶴岡八幡宮の別当である雪下殿がいて、その地位には足利公方の近親者がなっていた。里見氏はその支配形態を模して、安房国支配に取り入れていたといえる。

義通は足利政氏の副帥を名のり古河公方の代官として政氏のために八幡宮に祈りを捧げたことを記している。つまり、里見氏による安房国の統治は、鎌倉公方の代官として正当な統治ということを表明することでもあった。里見氏が主君と仰いでいた足利氏は、公方家内部での主導権抗争を繰り返していたが、同時に里見氏の立場を反映したものでもあった

●里見氏の歴史における「天文の内乱」●

永正11年(1514)に里見義通は安房国北郡へ軍勢を送り込み、安房・上総両国にわたる大乱でも北郡に討ち入りをかけていた。その義通を軍事的に支えていたのが弟の実堯であり、副将として妙本寺に城を築いて兵を駐屯していた。また、妙本寺周辺の水軍では正木氏が大きな影響力をもっていたと思われる。正木氏と結びついていた里見実堯は水軍を統括する立場にあり、安房・上総国境の金谷城を居城にして水軍を操り、内房の北郡を支配領域にしていたと推定される。

房総の諸勢力にとって、後北条氏の進出が脅威と感じる事態がおこった。大永4年(1524)に、扇谷上杉氏が武蔵支配の拠点とした江戸城を、北条早雲の後継者である氏綱が攻略したのである。江戸城は東京湾の海上交通と河川交通を支配する拠点であったので、城下の物資集散の港湾都市であった品川が、後北条氏支配に移っていったことを意味していた。そのことは房総勢力にとって、東京湾の制海権や物資流通の利害をめぐって、直接ぶつかっていくことを示唆していた。後北条氏と上杉氏の直接対決は、古河公方・後北条氏の連合と、小弓公方・上杉氏の連合との対決へと移っていったのある。

里見氏も武田氏と同様に、後北条氏との対決姿勢を打ち出し、大永6年(1526)に、武田・里見の両軍は江戸城下の港湾都市品川に攻撃をしかけたのであった。東京湾の制海権をめぐる対決のひとつとなり、この年の暮れには里見義豊が鎌倉を攻撃し鶴岡八幡宮に乱入している。以来、里見氏にとって東京湾の主導権をめぐって後北条氏との長い戦いのはじまりとなっていった。

この頃、鎌倉鶴岡八幡宮にいた快元という人物は、里見義豊が鎌倉を戦場にして、八幡宮を破壊し放火したことを強く非難している。鎌倉を支配していた北条氏綱は、天文元年(1532)に八幡宮の再建のために、敵味方の区別なく使節を送って協力を要請している。しかし、鶴岡八幡宮の再建は公方や管領が主催するもので、北条氏綱に協力すれば、結局上杉氏の後継者であることを認めることになり、義豊は協力を拒否している。

そのような情勢のなかで、天文2年(1533)7月27日、里見義豊は稲村城において、父義通以来安房国を支配するうえで重要な役割を果たしてきた正木通綱を殺害するとともに、叔父里見実堯も処罰として誅殺した。当時、安房国内において国主義豊を中心とする勢力と、長狭郡から朝夷郡北部にかけての外房に勢力があった正木通綱や、金谷城を拠点とする内房北部に独自の勢力をもつ里見実堯と、主導権をめぐって対立していたのではないかと推察される。

里見義通や義豊が安房国主という立場にあったとはいえ、安房国内の武士や土地を里見氏の権威ですべて自由に動かせたわけではなく、まだ武士たちの独立性が強かった時期で、安房国主として義豊は、海上支配にのりだした実堯と正木通綱の存在に脅威を感じたのではないか。そこへ義豊政権への不満を持つ武士たちの存在があり、実堯や通綱を中心に集まっていくことを恐れ、国主の権威を高めるためにも、その粛正に乗り出したものと推定されるのである。

この内乱の展開は、まず実堯の子義堯が上総の百首城に立てこもって、義豊との戦いに備えた。三浦半島に最も近い百首城は、真里谷武田氏のもつ東京湾の海上交通の重要拠点であり、この城を拠点に義堯は、義豊と敵対している北条氏綱に援軍の要請をしたのである。つまり、三浦半島を支配していた北条氏と、内房の拠点にいた義堯とが手を結び、東京湾での制海権をねらった。その戦いでは、上総金谷を中心とする実堯の支配地域に義豊軍が攻撃をしかけ、妙本寺において、北条水軍の山本太郎左衛門尉らと金谷・百首とつながる海上拠点の争奪戦が激しく展開され、結局は義堯軍の勝利になっていったと思われる。

一方、9月はじめに義豊軍も三浦半島の津久井に出陣して、後北条氏への反撃をすすめていたが、すぐに撤退し下旬には義豊軍の拠点はことごとく落とされていった。最後に残った滝田城に義豊は立てこもったものの、滝田城も危うくなり上総の武田氏を頼って武田恕鑑がいる真里谷城へと落ちのびていった。ほどなく義豊の妹婿であった滝田城主一色九郎は討ち取られて、10月には安房国全域が里見義堯の手に落ちたのであった。

上総へ逃れていった義豊は、再び態勢を整えて、翌年4月はじめ頃に上総から安房へ進攻していった。義堯は後北条氏から援軍を得て、義豊と直接的に対決したのが犬掛合戦であった。義豊軍には数百人もの戦死者がでただけでなく、義豊自身も討ち取られ義堯の勝利に終わった。そして、義豊の首は小田原の北条氏綱のもとへ送り届けられたといわれる。


この「天文の内乱」を『快元僧都記』の記載から概観すると

【天文2年(1533)】

3月12日 里見義豊、北条氏綱より鶴岡八幡宮造営の勧進を依頼される (『大庭文書』)が、義豊は了承せず。

7月27日 里見義豊、伯父里見実堯と正木通綱を稲村城で殺害する。実 堯の一族は上総百首城に立籠り、北条氏の支援を受ける。(『快 元僧都記』)

8月21日 北条水軍の山本家次、先手として安房妙本寺の義豊軍を攻め る。(『山本文書』)

8月 正木時茂、家臣上野弥次郎の戦功を賞し、父築後守の旧領を 与える。(『上野文書』)

9月24日 里見義豊方、滝田城を残して落城する。(『快元僧都記』)

9月26日 滝田城落城し、義豊方の一色氏滅亡する。里見義豊は上総の 真里谷武田恕鑑を頼って安房を脱出する。(『快元僧都記』)

10月 里見義堯、この頃より房州守護となる。(『妙本寺文書』)

【天文3年(1534)】

4月6日 里見義豊、房州へ攻め入り、犬掛で北条氏の援軍を得た義堯軍 と戦う。義豊討死して、首が小田原の北条氏のもとへ送られ る。(『快元僧都記』)

【天文4年(1535)】

10月13日 北条氏綱、武州川越の上杉朝興を討っため出陣し、里見義堯、 房州の兵を援軍に出す。(『快元僧都記』)

【天文5年(1536)】

2月27日 上総峯上から鶴岡八幡宮造営の材木を引き出すため、数千人 の人夫が送り込まれる。(『快元僧都記』)

3月10日 里見義堯、鶴岡八幡宮造営の材木として70余丁を房州から 送る。(『快元僧都記』)

09年3月24日 17,423

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