●世界の動きと徳川幕府の成立●
15、16世紀をみるとヨーロッパではスペイン・ポルトガルによる大航海時代や、ルネサンス・宗教改革という動きを経て、イギリス・フランス両国が中心になって近代国家の建設に向かっていった。両国は16、17世紀に専制君主のもとで絶対主義国家を繁栄させ、やがて海外へ向けて植民地獲得の争いを展開するようになった。なかでもイギリスなどは植民地から得た富を資本にして産業革命を推し進めるとともに、哲学や文学、科学の発達による新しい思想形成は、支配体制を変えようとする市民革命に導いて、国民国家の形成となっていった。アジアは、19世紀に入るとアヘン戦争をはじめとしてしだいに欧米勢力に圧倒されるようになっていった。
日本は大航海時代のなか、織田・豊臣・徳川氏による戦国の世の統一が促進されていった。幕藩体制は検地や刀狩を通して、兵農分離された安定した封建支配体制となり、武士を支配身分として身分階層が固定され、260余年の封建体制が続いた。しかし、18世紀半ばから封建体制は揺らぎはじめ、農民一揆や都市の打ちこわしが発生したり、対外的にはロシアが接近するなど、欧米の資本主義の圧力が迫ってきた。幕府はその危機に対応することができず、19世紀後半には開国となっていった。
●江戸幕府の成立と房総支配●
三河の小大名であった徳川家康は、はじめ今川氏に服属していたが、桶狭間の戦いののち織田信長と同盟し、一向一揆をおさえて三河・遠江を平定し、やがて駿河・甲斐・信濃を支配した。
天正18年(1590)、下総から上総に小田原北条氏の勢力がおよび、下総には千葉氏やその一族である原氏や高城氏などが、また上総には酒井氏や武田氏などが支配下に入っていった。豊臣秀吉の小田原城攻めで北条氏が滅亡したあと、主従関係を結んでいた在地の領主たちは、動乱のなかで没落していった。秀吉は家康に関東への移封を命じ、上総・武蔵・相模・伊豆と下総・上野など250万石を与え、豊臣政権下では最大の所領を有する大名となった。秀吉の死後、家康は五大老の筆頭におされたが、家康を退けようとする五奉行の石田三成や小西行長らと対立した。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで石田・小西らの西軍を破った家康は、慶長8年(1603)に征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開いた。
ところで、家康が移封されると、天正19年(1591)から統一した基準で検地がおこなわれ、なかでも動乱を生きのびた里見氏は、豊臣政権の支配下に入った直後の天正18年(1590)と慶長2年(1597)の2度にわたって、豊臣方の増田長盛によって検地がおこなわれた。
その後、慶長19年(1614)に里見氏が改易されると、在地する家臣は消滅し、元和4年(1618)と元和6年(1620)におこなわれた徳川政権のもとでの検地で、あらためて耕作者の直接的な把握がなされた。安房国においても武士と農民が分離して近世的な村落になっていったのである。
家康の関東の入国後を見ると、直轄頭は江戸周辺に集中されただけでなく、上総国東金などの江戸からも比較的遠距離である南関康の地にもおかれた。また、万石以下の家臣では、上総と下総に3千石未満や500石以上の中級家臣が多く配置された。たとえば、房総に配置された中級家臣の一人である徳川水軍の船手頭小笠原信元は、上総国富津周辺に2500石が与えられていたが、後に富津に陣屋をかまえて妻子とともに居住している。寛永2年(1625)に旗本の江戸屋敷割が行われると、ほとんどが江戸に移り住んだ。しかし、小笠原信元のほか、船手頭であった小浜景隆や向井正綱、松平家信らの家臣は、上総五井や三浦半島に配置され、在陣して江戸湾の警備にあたっていた。
なお、家康は慶長10年(1605)に将軍職を秀忠にゆずって、徳川氏の世襲を示した。その後、家康は駿府に移ってからも大御所として幕政を指導し、慶長19年(1614)の大坂の役では、大坂城の秀頼を攻めて豊臣氏を滅ぼしたのであった。
●里見氏の安房国支配〜関東最大の外様大名から近世大名里見氏へ●
里見の所領は安房国が9万石、鹿島郡が3万石で合計12万石あったが、御一門・家老・番頭・組頭・役人衆などは、それぞれの役割で知行地とよばれる所領が与えられ、その合計は、慶長15年の分限帳では5万3300石余りで、足軽・中間までの家臣の給米を引くと、里見家は4万5300石を確保していたという。
慶長11年(1606)、鹿島郡でも家臣に知行地が与えられ、鹿島領3万石のうち3600石余りがその対象となり、残りが直轄地であった。慶長15年(1610)になると、鹿島郡はすべて蔵入の直轄地となって家臣には安房で知行地が与えられた。
ところで、慶長3年(1598)、豊臣秀吉は2度目の朝鮮への出陣最中に没した。秀吉が死んで徳川家康ら五大老と石田三成らの五奉行たちの中での対立が表面化していった。家康は五大老の権限もひとりで決済するようになり、秀吉の遺言も無視することが多くなった。そこで家康に対抗していた石田三成は、越後から会津に移って120万石の大名であった五大老の上杉景勝と結んで、家康を軍事的にも牽制することにした。
慶長5年(1600)7月、家康が上杉討伐のために出陣した際に、石田三成は伏見城を攻撃して、家康討伐の挙兵をしたのであった。下野国小山で三成の挙兵を聞いた家康は、すぐに江戸に戻って態勢を立て直し、九月の関が原の戦いとなった。その間の緊張状態は関東でも高まり、上杉景勝を牽制する軍勢のなかに里見義康がいた。家康が三成との直接対決のために関が原に向かうと、義康も決戦の場へと申し出たものの、対峙していた上杉勢との戦いのために宇都宮に在陣することを命じられた。関が原で石田方が敗れると、上杉勢は最上氏などとの戦いをやめて軍を引き上げた。家康は義康に宇都宮在陣の労をねぎらった書状を届けている。そして、翌年には上杉景勝を牽制していた戦功として、義康には恩賞として常陸国鹿島郡での3万石を与え、結果的に里見義康は12万石という関東最大の外様大名になっていったのである。
関が原の論功行賞にあたって、義康の弟である里見讃岐守忠重も1万石を与えられて大名になった。その領地は、里見氏のふるさと上野国里見郷に隣接する板鼻で、東山道の宿場で河川交通の便もある交通の要衝は、かつて鎌倉期には新田一族の拠点のひとつだった。義康の弟忠重は、先祖ゆかりの地を手に入れたのあった。
慶長8年(1603)2月、徳川家康が将軍になり、その行列のなかには里見忠重も加わり、古式どおりの行列には井伊直勝・本多忠勝・松平忠政・本多正純など、徳川譜代の大名たちが居並ぶなかで、外様でありながら八番の騎馬を勤めたのが義康であった。
だが、義康が31歳で病死すると里見氏は、御一門衆の正木弥九郎時茂や家老職の堀江能登守頼忠、板倉牛洗斎昌察といった重臣たちが中心になって、幼い梅鶴丸(忠義)を補佐する体制をつくって、関東で唯一の外様大名の政務にあたることとなった。
慶長11年(1606)、梅鶴丸の名前で家臣と領内の寺社には、里見氏の家督を相続し代替りを示す所領の充行状が出された。また、13歳になった梅鶴丸には、元服の式で将軍から「忠」の一字が与えられ忠義と名付けられ、父義康と同じ従四位下安房守となった。徳川家の家臣として、江戸城の建設工事や京都の御所の造営負担を分担し、将軍家への端午・重陽・歳暮の三季の賀儀には、進物を欠かさず献上する義務と儀礼を負った。義康は、関が原の戦い以前から家康に従う立場であったが、とくに大久保忠隣が家康の側近として権力をもち、慶長10年(1605)に秀忠が将軍となってから、その側近となったことで里見氏は、大久保忠隣に近づいていった。慶長16年(1611)、里見忠義は、とうとう小田原城主大久保忠隣の孫娘を妻に迎えた。父は忠隣の長男で世間からの人望もあった大久保忠常、母は家康の長女亀姫の子、つまり家康の孫娘にあたる於仙であった。幕府重臣であった大久保忠隣の孫娘を迎えることで、家康の長女亀姫を中心とした人脈に里見氏は関わっていくこととなった。
●里見氏の改易●
慶長18年(1613)に里見讃岐守忠重は、突然の改易が申し渡された。その理由は、忠重が安房の里見本家の乗っ取りを企てたという内容といわれ、里見本家の家臣が直接、幕府に上訴したと伝えられている。慶長8年(1603)に義康が31歳で没すると、10歳の梅鶴丸(忠義)は家督を相続して、叔父の忠重が後見人となっている。しかし、里見本家での発言力が大きくなった忠重は、この件によって改易された。そして、1年後には安房の里見本家も改易となったのである。
慶長19年(1614)9月9日、江戸城に出仕し将軍に重陽の祝いをと控えていた忠義は、老中の使者から国替えのことを突然、申し渡され、その理由も大久保忠隣の一件の連座とされた。替地は常陸国行方郡の九万石とされ、忠義はしばらく、大久保忠隣の孫忠職の屋敷で謹慎するよう命じられていたが、大久保家の当主忠職も領地の武蔵国騎西城で謹慎しており江戸屋敷にはいなかった。
大久保忠隣の一件とは、幕府に無届けで忠隣の養女を嫁がせたことであるが、幕閣本多正信・正純との抗争もあって、慶長19年(1614)正月に、忠隣は改易されたのであった。この真相は一人の武士が大久保忠隣に謀反計画があると訴えたことを本多正信が取り上げ、土井利勝も加わって家康が決定したとされる。この謀反計画自体が正信の陰謀とされ、忠隣の失脚を狙ったものといわれている。忠隣の子息たちの処罰が、その後減免され蟄居のみで済まされているにも関わらず、忠義に対する国替え処分の理由が、半年も経過している大久保忠隣の一件を上げたのは、改易させる口実でしかなかったといえる。
その後の幕府側の動きは素早く、館山城受取りのために佐貫城主内藤政長や大多喜城主本多忠朝などの諸大名や旗本が大動員された。4日後の9月13日には、将軍秀忠から城受取り軍に対して、陣中の指揮は内藤政長に従うこと・喧嘩口論の禁止・田畑踏み荒らしの禁止・百姓への狼藉禁止・伐木の禁止などの軍令が出された。18日には館山城が接収され、里見家の荷物も船で鹿島へ送られるなど、館山城は明け渡され、すぐに御殿などの建造物や堀などは破壊された。天王山から御霊山や大膳山にいたる堀は残して館山城を取り巻く堀はすべて埋めて、城の在番に内藤政長と西郷正員を置いて受取り軍は引き上げていった。
忠義の妻子や家臣たちが鹿島までいくと、今度は幕府から行き先を伯耆国変更され、鹿島郡3万石は取り上げ、その替地は伯耆国久米郡・河村郡での3万石とされたものの、伯耆国倉吉では4000石余となり、蟄居処分が申し渡されたと伝えられている。
里見讃岐守忠重の突然の改易と、安房の里見忠義の改易とは、何らかの関連があったと推察されるが、今もって不明のままである。こうして、170年近くにわたってきた里見氏の安房国支配に終止符が打たれたのであった。
慶長19年(1614)、徳川家康は豊臣氏との決戦を決意し、その口実は、京都方広寺の大仏再建にともなう鐘銘の文字に目を付けた。11月には大坂冬の陣がはじまり、秀忠は江戸を立つとき、館山城にいた内藤政長と西郷正員に、里見の家臣たちが大坂方に呼応して動くことを警戒するようにと命じている。家康が豊臣氏への対応を模索している時期に、里見氏は反幕府の嫌疑がかかり、大久保忠隣のもとへ米や足軽を送って謀反に加担しているとか、戦いに備えて館山城を堅固にしているのではないか、さらには分不相応の家臣を抱えているという内容であった。上総から引き上げてきた際に、多くの家臣を抱えただけでなく、農民でもあった百人衆や足軽が多かったという。朝鮮への出陣や関が原の合戦、さらには江戸城の普請などで、経済的な負担が課せられていたなかで、館山城を堅固にすることは財政的にも無理であったと思われる。家康がねらっていたのは、豊臣氏との戦いの戦略のなかで、房総半島の先端にあって江戸湾の入り口にある安房国は、軍事的にも海上交通にとって要衝の地であり、外様大名であった里見氏は口実をつけて排除されたと推察するのである。