●渋沢栄一
1840(天保11)〜1931(昭和6)
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「実業による私利は公益に資するべき」
近代日本の財界発展の立役者であり、明治から大正にかけて多くの企業設立に貢献している。館山では明治21年、近代水産業の先駆者関澤明清と捕鯨家十代醍醐新兵衛が豊津村(現館山市)に日本水産会社を興す際、渋沢や大倉喜八郎ら財界人らが支援している。
一方、明治維新の陰で、社会体制崩壊や災害により飢餓と貧困に瀕した19世紀末、教育や慈善事業にも尽力している。「実業による私利は公益に資するべき」との理念に基づき、身寄りのない子どもや老人、障害者や路上生活者らを救済する目的で、日本で最初の公立救貧施設・東京養育院を設立した。明治22年には、身体虚弱児童の転地療養施設として東京養育院安房分院を船形町(現館山市)に開設し、自ら初代院長として生涯のライフワークとした。東京養育院は1999年に廃止されたが、分院は東京都船形学園として継続運営されており、同地内の裏山には、高さ約10m幅6m、文字の大きさ30cm四方という巨大な磨崖碑が残っている。時の船形町長正木清一郎が有志を募り、大正3年に完成した。揮毫は渋沢自らの書になる。
渋沢の次男武之助の妻美枝は、館山出身の資生堂創設者福原有信の次女であり、その長姉とりは館山病院院長川名博夫医師の妻という姻戚関係にある。川名夫妻の長女露子の夫であり、同病院副院長の穂坂与明は、大正10年に渋沢が日米関係委員会に出席する際の侍医として同行渡米している。
■磨崖碑(碑文概要)
東京市養育院は、松平定信の七分金積立が東京府に引き継がれたのを活用して、明治5年渋沢栄一によって窮民救済施設として創設され、明治18年には棄児、迷児の救済を始めています。安房分院は虚弱児童の転地療養施設として明治42年開設されました。
この磨崖碑は、この由来を記す日本福祉史の記念碑です。
磨崖碑は船形町有志によって、大正6年4月着工、同年5月末日竣工しました。選文は二松学舎創立者で
明治の3大文宗にあげられた三嶋中洲博士、書は青淵の号を持つ、 初代養育院長渋沢栄一によります。崖の高さは16m、碑の高さ10m、幅6m、一文字の大きさが30cm四方という国内有数の碑でしたが、岩質のもろい房州石に彫られたため風化が著しくわずか数文字がかろうじて判読できるほどになってしまいました。
碑文のあらまし
明治維新の後、東京府は、自ら窮状を訴えることのできない老人を上野の護国院の土地に収容し養護した。名付けて養育院という。
養育院は、後にまた棄児を40年間養育した。その数3万7千余人となる。現在(大正3年)は2千4百人余で、そして児童が最も多い。思うに養育院の元手は、白河藩主で、老中の松平定信が寛政の改革時、江戸町民七分積金制度の蓄積が東京府に引き継がれていたものを充てて創始したものである。
これに慈善家の寄付でふやし、養育院長渋沢男爵が公共のために身を顧みずつくしてきたものである。規模は年毎に拡げられた。
明治33年に身体の極めて弱いものを千葉県船形町に移し養育した。その数百余人である。
建物を新築し、勉強ができるところを設けた。名付けて養育院支院という。約10年で子どもたちの多くは若死を免れることができ、これを聞く者は本当に感心した。
東京慈善会(院長夫人が会長)は、この事業を大いに賛成援助した。土地の名望家で土地や金銭を寄贈する人が大変多かった。
近頃、男爵が来臨視察され大変喜ばれ、これからも一層この事業を拡張しようとされ、私を呼んでこれを崖に刻みつけられた。男爵は、そこで文章をつくっていわれた。
本当に悲しいことに身寄りがなくて、さらに加えて身体が弱い児たちを同じ仲間としての心をもつ人が、これを養育院と相談し、この房総の海辺に建物を作った。
ここは冬暖かく夏涼しい。病気の人は治癒し、身体の弱い者は強くなる。ここに生活のための仕事を授け、ここで、物事の大綱を教える。常にかわいそうに思うべきである。
これら多くの児が自立して恩を思い、救済事業の志をもつ人が出ないと誰がいえようか。
○撰文:三島毅
○書:渋沢栄一