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=『海の幸』誕生を支えた漁村のリーダー=

●小谷治助 /1837(天保8)〜1902(明治35)
●小谷喜録 /1864(元治元)〜1926(大正15)

小谷治助は、布良の黒川家に生まれ、後に小谷市松(喜六)の婿養子となる。漁師頭、布良村会議員、合併後の富崎村会議員、富崎村土木委員・衛生委員などの要職を歴任。布良の大火や七浦沖漁船遭難、富崎村避病院設立などに寄付をして窮民の救済を図る。安房水産会富崎村委員、日本赤十字社の正社員、房総遠洋漁業株式会社の株主となる。神田吉右衛門とともに尽力した村政と水産業発展への貢献に対し、富崎村長・石井嘉右衛門から1902 (明治35)年に感謝状と銀杯が授与されている。

喜録は治助の長男、幼名市松。布良小学校卒業後、上真倉村(館山市)の石井定吉に師事し、千葉師範学校教員の手嶋春治や小池民治について教育学を修めた。その後上京し、近代学問を幅広く学び、22歳で布良小学校の教員(授業生)となる。

富崎村助役や村会議員、大日本水産会会員、大日本帝国水難救済会布良救難所看守長、布良崎神社の氏子総代などの要職を歴任。

1890(明治23)年夏、水産伝習所の布良実習を世話したことへのお礼として、所長・関澤明清から感謝の書簡と「日本重要水産動植物之図」を贈られている。

1904(明治37)年夏、写生旅行で布良に来た若者4人(青木繁・福田たね・坂本繁二郎・森田恒友)が、路銀(旅費)がなくなり困っていたところを助け、私宅で40日間の無料宿泊を世話したことで、名画『海の幸』が誕生した。当時の家族は、喜録と妻・マス、14歳の娘・種子と6歳の養女ゆき、義母のキサ。後に種子は千葉女子師範学校に進学し、東葛飾郡川間尋常小学校の教師となるが、21歳で早逝。ゆきが障子に穴をあけて覗いたら、画家が女の人の裸を描いていたとの証言が、小谷家では語り継がれている。

16年1月11日 15,743

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