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●俵光石(たわらこうせき)

1868(明治元)〜1935(昭和10)

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「高村光雲の弟子で、只ひとりの石彫家」

俵房吉は、旧楠見村(館山市館山の楠見区)の俵石屋に生れ、熱心に石彫を探求していた。当時、馬の彫刻で著名だった後藤貞行のもとで仕事をし、「社会的には現われないが、腕のある人」と高い評価を得ていた。

明治22年に開校した東京美術学校(現東京芸術大学)では、明治25年に教授であった高村光雲の提案により、彫刻科3学年以上の実習として、木彫科・石彫科・牙角彫刻科のいずれかを専攻することになった。

同校の教師をしていた後藤は、光雲の要請により光石を預け、光雲は光石を指導して石彫科開設を進め、明治27年、彫刻家教場助手に任命した。同校初の石彫教官であろうといわれる。この頃から、光雲の一文字をもらい光石と名乗るようになった。

明治28年、京都で開催された第4回内国勧業博覧会では、「置物(大理石羊)」を出品。このとき、山本瑞雲ら僚友と撮影した記念写真が残っている。将来を嘱望されたが、家業継承のため帰省し、その才能を惜しまれた。館山では何人かの弟子をとり、近隣寺院の石彫仏像などの制作に励んだ。

館山市の浄土宗觀立山三福寺にある「釈迦如来像」は、容姿端麗で石彫佛像としては非常に秀れた作品であり、「明治三十六年十一月建立高村光雲門下俵光石石刻」と刻されている。館山市布良の本郷墓地にある「酒樽墓」、館山市見物の海南刀切神社の狛犬、館山市上真倉の妙音院の「不動尊立像」など10数体が確認される。1903(明治36)年朝鮮海域遭難、22名殉難した房総遠洋漁業株式会社の「順天丸遭難記念碑」(館山市の北下台)に光石の名が刻まれている。

(現館山市館山・俵石材)

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【参考】

高村光雲『幕末維新懐古談・谷中時代の弟子こと』

俵石材

09年7月13日 44,357

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