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●鳥山確斎(とりやまかくさい)

1819〜1856

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『安房の歴史』より

19世紀中頃、安房出身の鳥山確齋(新三郎)は、東條一堂に儒学、加藤瑞園に兵法を学び、江戸の京橋桶町に蒼龍軒という私塾を開いた。この塾には嘉永4(1851)年、学友江帾五郎の紹介で、21歳の吉田松陰が寄宿していた。当時、東條一門の重席を担っていた33歳の確齋は、幕閣に意見書を出せる立場になっていた。

文政2(1819)年、朝夷郡大川村の漁船三隻を所有する裕福な家庭の二男として出生した確齋は、八歳のとき左眼を負傷し、失明寸前のなかで学問に目覚めたという。新田氏が出自という鳥山氏の調査研究によって、南朝の忠臣新田義貞の末裔であるとの自覚を高め、後に尊王論をもつにいたった。

江戸湾入口にあたる安房は、海防の最重要拠点で、文化7(1810)年には、白河藩(藩主松平定信)が安房72か村に約3万2千石の領地を得て、洲崎などに台場を造り、異国船と対峙していた。松陰は江戸の佐久間象山にもとで海外事情を学びながら、蒼龍軒に寄宿していたが、嘉永6 (1853) 年にペリーが軍艦4隻を率いて浦賀に来航した時、象山と松陰は浦賀に行き渡航の機をうかがったといわれる。

翌年ペリーが再来航すると、松陰は停泊していた軍艦に小舟で出向き、乗船を歎願したが拒否された。この密航未遂が発覚する前に自首した松陰は、江戸伝馬町の獄に繋がれ、確齋も嫌疑を受けたという。この頃から頻繁に吐血していた確齋は、獄中にいる松陰のための義援金集めに奔走したが、安政3(1856)年、病のため38歳で他界した。

確齋の訃報に落胆した松陰は、長州の獄中から土屋矢之助らとともに呼びかけ、江帾や桂小五郎らも江戸で呼応し、吉祥寺の墓地に墓碑を建立した。松陰が後に松下村塾を主宰し、高杉晋作や伊藤博文、山縣有朋らの人材を育成していった背景には、確齋から激動の時代を生きる指針を学んだことが大きい。



◎千倉町郷土史研究会による碑の説明看板(平成20年1月)より

「文武両道の教育者」

先生は、郷土七浦の生んだ偉人です。 名前は新三郎、あざなを正清と言いました。姓は鳥山(とりやま)、名は確斎(かくさい)と言いました。文政2(1819)年に安房郡(現在の南房総市)千倉町大川の宇山孫兵衛の子として生まれました。

若いうちから文武の道をきわめ、20歳の時には江戸に出てさらに勉強に励みました。31歳の時、「蒼龍軒」という塾を開きました。そのころは、外国の船がしばしな日本の沿岸に来て、国内は騒がしくなりました。先生は、吉田松陰など国の将来を心配する武士達と行き来して新しい世の中をつくろうと努力をしていました。

また、病気に負けずオランダ語辞典「和蘭文典筌」を書き終えました。しかし、間もなく病状が悪化し、安政3(1856)年に38歳の若さでおしくも亡くなりました。墓は東京本郷駒込の吉祥寺にあります。明治45(1912)年、功績が認められ特別に従五位を贈られました。

09年7月10日 32,201

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