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◎絵を通じ生き方見つめて 館山
無言館の窪島氏が講演
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太平洋戦争末期、画家を志しながら学徒出陣などで戦場に送られて命を落とした戦没画学生の作品を収蔵・展示する美術館「無言館」(長野県上田市)の窪島誠一郎館主の講演会が10日夕、館山市の県南総文化ホールであった。
窪島氏は「画学生らは反戦を訴えるために作品を描いたのではない。妻や恋人、家族など、愛するものを描くことで自分の命を描き、生きる証としたのだ」と指摘。戦後六十数年を経て日本人が大切なものを失い、子が親を、親が子を殺すという時代に「反戦平和という4文字だけでなく、自分の生き方を振り返る場所として無言館を見ていただきたい」と訴えた。
また「人間は感動の記憶を他者の命に伝えていく義務がある」と強調。「自分にしか歌えない歌、描けない絵」とともに人生を歩んでいこうとメッセージを送った。
窪島氏は1941年、東京生まれ。印刷工や店員、酒場の経営などを経て、79年に大正期の洋画家、村山槐多など夭折画家の作品を展示する「信濃デッサン館」を上田市に設立した。97年にはデッサン館の隣接地に「無言館」を設立。異色の美術館として注目され、2005年に菊池寛賞を受賞した。
講演で窪島氏は▽村山槐多の生涯▽信濃デッサン館設立の経緯▽戦没画学生たちの遺作収集に執念を燃やした画家、野見山暁治氏との出会い▽画学生らの作品に込められた思い——などを切々と語った。15年前、なぜ遺作収集をする決断をしたのかという理由については「あの時の自分の気持ちがよく分からなくなることがある。戦争とかはどうでもよくて、私の50年の人生を考えていたのかも」と赤裸々な思いを口にした。
講演会は、同館を訪ねた鋸南町の画家、溝口七生さんや年金者組合安房支部長の橋本芳久さんらが実行委員会を組織して企画。会場の小ホール(300人収容)は満員となり、入場できなかった約30人が別室のモニターで講演を聞いた。
(房日新聞2010.6.1付)
「協働」の社会がキーワード
館山 市民の会が趣意書発表
財政・医療・経済を重視
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11月にも予定される館山市長選に向け「市民マニフェスト」をまとめようと結成されたグループ「『立て直そう館山!』全市民の会」(呼びかけ人16人、愛沢伸雄代表世話人)はこのほど、設立趣意書を発表した。
少子高齢化社会が進む中「地域コミュニティの中で、市民がお互いに支えあう社会をどうつくるかが問われている」と問題提起。「行政や市民が協働するなかで(問題を)解決していく、そのような市民が主役になるまちづくりが求められている」と、市民目線での市政運営の必要性を強調している。
「立て直す」べき重要政策課題としては①財政②医療・福祉③観光・農水・雇用創出——を挙げて「足もとの館山市政の現状を学び、そこでの地域課題を確認して、その解決をはかっていく道筋を市民の立場から考えていく」としている。具体的には今後、「元気なまちづくり市民講座」などを市内各地区で開催。参加者と率直な話し合いを行っていくという。
一方、同会が12日に開くキックオフイベントの概要がまとまった。シンポジウム「癒しの海辺のまちづくり第2弾」と銘打ち、午後2時から4時半の予定で南総文化ホールで行う。参加費500円。
先進的なまちづくり事例の紹介として、東京都中野区副区長の石神正義氏が「中野サンプラザの立て直しと里・まち連携」、新潟県旧安塚町長の矢野学氏が「心の過疎をつくらないまちづくり」と題してスピーチする予定。
その後は大島博幸(館山病院総長)、平本紀久雄(千葉の海と漁業を考える会代表)、伊東万里子(劇団貝の火主宰)の各氏も加わり、「立て直そう館山!まちづくりを語ろう」をテーマにパネル討論会を行う。
石神氏は館山市出身。館山など7つの自治体と連携し、地方の一次産業と都会の消費者を結ぶ交流事業を推進する一方、中野サンプラザ社長として同施設の経営立て直しに取り組んだ。
矢野氏は、住民の重荷だった豪雪を資源ととらえ、雪の冷房化などユニークなまちづくりに取り組んだ名物町長。自治体の大型合併に際しては、公共サービス低下を防ぐために全町民参加型のNPO法人を設立、成功させた。
※シンポジウム開催概要=2010.6.12⇒⇒癒しの海辺のまちづくりシンポジウム第2弾
※【房日新聞】2010.5.19付⇒⇒記事詳細はコチラ
(房日新聞2010.6.18付)
館山市長選、石神氏が出馬を正式表明
「市民主体の市政」掲げ
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今年11月の館山市長選挙に出馬の意思を固めた同市出身で東京・中野区前副区長の石神正義氏(61)が16日、記者会見して正式に立候補表明した。石神氏はこの中で、「市政は市民の幸せを実現するためのツール(道具)であり、市政の実現すべき目標は市民が主体的に描かなけらばならないと」としたうえで、「①協働②連携③しくみづくり、の3つの理念をもとに市民と意見交換しながら戦略シナリオづくりに取り組みたい」と立候補に向けた決意を語った。
館山市と中野区は、里・まち連携事業をとおして以前から交流。こうした事業に関わるなかで、市政の現状を憂う市民グループなどから再三の要請を受け、「長い行政経験を活かして課題を解決していけば館山の立て直しはできる」と5月中旬ごろに出馬を決断した。
同区で都市計画(まちづくり)や財政などに長く携わってきた。その経験則をもとに「自治は市民が主役であり、行政は道具に徹した住民自治を標榜。さらに、施策の評価を市民から受ける」と持論を展開。
取り組むべき課題として、▽医療▽財政▽観光▽雇用をあげ、これらの課題解決には、「市の成長戦略とそれを支えることのできる教育、福祉や安全安心など幅広い社会の持続可能性の議論が欠かせない」とした。
先ごろ立ち上がった市民グループの「『立て直そう!館山』全市民の会」(愛沢伸雄・代表世話人)の「筆頭立て直し人」として、同グループを核に幅広い支援を求めていきたいとしている。
これにより、市長選は前日の市議会で出馬表明した現職と同氏の一騎打ちが確定的となり、市民の関心も一気に高まってくるものとみられる。
グラビア安房の国
『Sai』vol.78(2017.12.1) ‥⇒印刷用PDF(P.1)‥⇒印刷用PDF(P.2)
発行=一般社団法人在日コリアン・マイノリティ人権研究センター
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里見氏城跡を国史跡指定
館山稲村、南房総岡本、県内27件に
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国の文化審議会(西原鈴子会長)は18日、館山市稲の稲村城跡と、南房総市富浦町の岡本城跡をセットで「里見氏城跡」として国史跡に指定するよう中川正春文部科学大臣に答申した。いずれも房総里見氏が戦国時代に築いた居城跡で、当時の地形を良好に残し、房総半島における中世山城の変遷や、当時の地域社会、政治情勢を知る上で重要と評価された。城跡は現在、ほとんどが山林で個人所有。今後、地元市が公有化を進め、保存・活用方法、整備方針などを検討する。県内の国指定史跡は27件となる。
房総里見氏は戦国時代から江戸時代初頭にかけて10代、約170年にわたって房総半島南部を拠点とした戦国大名。初代の里見義実(よしざね)が15世紀後半に白浜城(現在の南房総市)を構えて以降、南房地域で数回にわたって本城を移している。
稲村城は現在の館山市内陸部の丘陵に築城され、3代義通(よしみち)が16世紀前半に居城とした。県教委文化財課によると、城跡は東西、南北ともに約500メートルにおよび、面積約1万8千平方メートル。中心部「主郭」の東、南側には高さ約3メートルの土塁跡が計約100メートル残る。敵からの侵攻を防ぐため丘陵斜面を削った切岸(きりぎし)、尾根を切断した切通しの跡もある。
岡本城は、現在の南房総市の東京湾を望む丘陵に16世紀後半、8代義頼(よしより)が築いた。指定史跡は東西600メートル、南北300メートルで、面積は約7万6千平方メートル「主郭」周辺には2段にわたって計約700メートルの切岸跡が見つかっている。主郭北西側の「三の郭」は、汐入川を通じて海につながり、船が発着する港の機能を備えていたとされる。
同課は「稲村城、岡本城ともに、当時の房総地域では突出して大きな規模で里見氏の勢力の大きさを示している」としている。
地元観光資源と期待
史跡の本格整備目指す
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戦国武将の里見氏の居城だった稲村城(館山市稲)と岡本城(南房総市富浦町豊岡)=市指定史跡=の城跡が一躍、国の史跡指定を受けることになった。国指定にふさわしい史跡整備に向けた取り組みが始まる。
山城の稲村城は国府が置かれた府中を見下ろし、麓に交通路(現国道128号)が東西に延びる。白浜城から北へ勢力を伸ばした里見氏の、安房支配の戦略がうかがえる。4代義豊の1534(天文3)年、天文の内乱で傍流の義堯が勝利し居城が移った。前期里見氏から後期里見氏へ、転換点の舞台が稲村城だ。
国指定に、15年間にわたり保存運動を続けるNPO安房文化遺産フォーラム代表の愛沢伸雄さん(60)は「里見の歴史を見直し、地域の歴史文化を地域みんなで大切にするきっかけになれば」と期待を寄せる。
稲村城跡は1983年の県教委の調査で成果が少なかったことや、土地所有者が複雑で史跡指定を果たせなかったという。一方で91年、後背地に県の工業団地計画が浮上。市は稲村城跡を通る進入路を計画した。愛沢さんらは96年に保存会を結成し、保護を訴えて最終的に1万超の署名を集め、市議会で請願が採択。市道路計画は変更となり、市も史跡保護にかじを切った。
国指定となったが、土地買収の同意はまだ65%。年に数回下草が刈られるだけで本格整備は当分先の話だが、愛沢さんは「長い取り組みを続けたい。市も文化遺産を生かすまちづくりをしてほしい」と単体でなく、安房・上総地域に20ヵ所以上点在する“里見城址群”の史跡化を目指す。
岡本城跡は富浦湾に面し、里見水軍の拠点だった。戦国末期、8代義頼が、上総を基盤とした弟の梅王丸の内乱を治めるなど、ここでも里見の歴史で重要局面を迎えた。
里見の城跡と知られ、74年に富浦町指定(現南房総市指定)となり、頂上部に碑が建つ「里見公園」として親しまれる。国指定に石井裕市長は「地域の重要な文化財として保存管理し、観光資源として地域振興を図りながら、後世に継承したい」と歓迎した。山のほとんどがビワ園。今後整備計画を立てていく。
◎特攻兵からの「遺言」⑥
…米軍上陸なら第2の沖縄
…本土唯一の直接軍政に
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房総半島南端の館山市およびその周辺は帝都・東京を守る重要な拠点だった。館山海軍航空隊があり、東京湾要塞地帯の一角として砲台や魚雷基地が設置されていた。
「館山周辺は、米軍が上陸すれば、第二の沖縄として戦闘が行われた可能性が高かった」。戦争遺跡保存活動を行なっているNPO安房文化遺産フォーラムの愛沢伸雄理事長(56)は語る。
敗戦が色濃くなった時期、南房総市(旧三芳村)にロケット特攻機「桜花」、鋸南町に「海竜」「回天」などの水中特攻艇の基地が置かれた。館山市の洲崎、波左間には「震洋」の基地も秘密裏に造られた。
震洋は6千隻以上が製造された。ベニヤ板のボートで、舳先に爆薬を装備、自動車のエンジンを積み海上を疾走した。小さな漁港にまぎれるように、格納壕や隊員の居住壕が掘られた。波左間漁港内には発進用のスロープ、洲崎には完成時期の記された格納壕が今も残る。
◇出発なく終戦
「死の棘」「魚雷艇学生」などの著書のある作家・島尾俊雄氏は、奄美諸島の加計呂麻島で震洋隊長だった。「出発は遂に訪れず」では、8月13日の特攻戦発動と15日の終戦の詔勅により揺れ動く心を描いている。
「第18突撃隊戦時日誌」によると、波左間に配属された真鍋康夫中尉を部隊長とする第59震洋隊の176人。首都を守るため予備学生や予科練など若い命が集められ、1945年7月14日に基地に入った。しかし震洋が配備されたのは8月13日で、出発はなく終戦を迎えた。
◇祖国安泰願い、散る
「ベニヤ板のモーターボートに爆薬を積んで敵艦艇に体当たり。今考えれば確かにお粗末な特攻兵器であるかもしれない。しかし若き隊員たちは祖国日本の安泰を願い戦場に散ったのである」(長崎県川棚基地で震洋訓練を行なっていた伊藤太兵衛氏の回想=千葉日報社「幻の本土決戦」より)。
終戦直後の9月3日、米占領軍が館山航空隊近くに上陸。残った日本軍人らの妨害を警戒した占領軍は、4日間ではあったが、館山に本土で唯一の直接軍政を敷いた。
(千葉日報・穐田政宏)