(日本経済新聞・文化欄2005.5.11付)
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●首都防衛館山の秘密基地
.〜南房総の旧軍遺跡を調査、地域から戦争を見る
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NPO法人南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム
理事長:愛沢伸雄
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●列島だより…安房を再発見
戦跡保存やガイド、合唱団
要塞、特攻の軍都だった
平和、元気な地域づくり
NPO法人安房文化遺産フォーラム
愛沢伸雄/小沢義宣/池田恵美子
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地域づくりをめざして千葉県の房総半島南部(安房地域)でNPO法人安房文化遺産フォーラム(館山市、愛沢伸雄代表)が精力的に活動しています。戦争遺跡、中世の城跡、文化財の保存・活用、各種イベントから地域運動まで活動の幅を広げています。(上田明夫)
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活動の柱のひとつ戦争遺跡ツアーガイド(平和研修)は、フォーラム設立後の五年間で八百団体約二万人。最近の日程を聞くと—
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11月21日 労組の九条の会
26日 全商連
同 静岡地方のタクシー協会
30日 政党関係者
12月6日 旅行団体
同 東京の労組
7日 無料ガイド
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先月22,23日は若者向けに「戦国こすぷれ大会〜里見八犬伝in館山」を主催。28日は「地域医療と看護学校問題を考える医師・看護師と市民の集い」もありました。12月のこの後も東京の中学1年生40人のガイドなどスケジュールはぎっしりです。
戦跡ツアーの一つに参加してみると、ホテルの一室で映像を使った座学のあと赤山地下壕へ。
ガイドは、かつて釣りざんまいを夢見て移り住んだ小沢義宣さん(70)。6、7年前、愛沢氏らの戦跡調査の公民館活動に参加し「釣りができない日に歩いていると変なものに出合う。なんだろう、なんだろうと思っていましたが、案内と説明でそれがわかった」とこの道へ。
●ウミホタルの歌
青い光を放つウミホタル。館山は世界的にも有名な生息地ですが、戦時中、軍事利用で地元の子どもたちが採取を命じられました。平和研修で語り継がれ、生まれたのが合唱組曲「ウミホタル〜コスモブルーは平和の色」。NPO主宰の市民合唱団もでき、この12月も3回の練習です。
●戦国の城跡歩く
戦国大名里見氏の史跡をめぐるウオーキング、空き店舗を活用した「まちかどミニ博物館」と多彩に活動する同フォーラム。一昨年、「あしたのまち・くらしづくり活動」で内閣官房長官賞を受賞、この十一月には千葉県知事から地域観光振興功労で表彰されたばかりです。
事務局長の池田恵美子さんは「会員は200人、ガイドは50人ほどが活動しています。戦争遺跡とともに地域の有形無形の文化とその遺産を継承し、活用し、みんなが元気に、そして支え合う地域づくりをしたいですね」と話します。
●平和、元気な地域づくり
NPO代表 愛沢 伸雄さん
足もとの地域の人々の生活や文化を見つめ、再発見し、平和で元気よく住むことのできる地域社会にしたい。だれもが願うその思いから、「何もない」「保守的地域だから」ではなく、安房(「安らかな家」の意と解しています)という名に込められた地域を歩き、話を聞き、調査研究と運動を重ねると、その尽きせぬ魅力と特性を知ることができました。全国的にも貴重な戦争遺跡の再発見もその一つです。
平和研修で訪れた方から自分の地域を見つめ直すきっかけになったという感想も寄せられています。この南房総を舞台に平和と地域活性化のネットワークがこれからも広がればすばらしい。地域コミュニティ、地域と地域、地域と世界を足もとからつなぐNPOの発展に力を尽くしたい。
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●太平洋戦争開戦の日
要塞、特攻の軍都だった
きょう12月8日は、67年前の1941年、日本軍がハワイ真珠湾攻撃をした日です。主力は航空母艦と艦載機でした。愛沢氏らによると、軍都館山のシンボル館山海軍航空隊は空母パイロットの養成機関で、基地は「陸の空母」と呼ばれ、真珠湾攻撃とも深くかかわっていました。
すぐ山側にある赤山地下壕は「住民から、ごみ捨て場で子どもが遊んで危ないという訴えがあった所」とフォーラム会員の神田守隆さん(元共産党館山市議)。市民とともに神田さんも議会で尽力し、今は館山市指定文化財として一般公開されています。
調査で秘密のベールをはがし、総延長約2キロの地下要塞の姿を市民と全国に知らせ文化財にまでしたのが、当時県立高校で「世界史」を教えていた愛沢氏ら市民だったのです。
●岬や海岸線には
戦争遺跡は館山市だけで五十カ所近く。安房文化遺産フォーラムが出版した『あわ・がいど 戦争遺跡』を手に海辺を行くと、常緑のマテバシイの樹林、波打ち際、あるいは今は中学校のなかに戦争遺跡の数々が。
南房総は明治期から「東京湾要塞地帯」に指定され、戦争とともに強化されました。指折りの景勝地、大房(たいぶさ)岬(南房総市富浦)は岬全体が要塞跡でした。
南に行くと、太平洋諸島の上陸作戦訓練にはぴったりの平砂浦(へいさうら、白砂青松百選)を演習場にした館山海軍砲術学校跡。常時1万5千人が訓練したという当時の写真パネルが展示してありました。
●本土決戦に備え
海岸線を行くと、戦争末期の本土決戦に備えた水上特攻艇「震洋」などの特攻基地跡です。海から離れたところには本土決戦の切り札、ロケット特攻機「桜花」の基地跡も。
南房総に展開した七万の軍隊が本土決戦・「第二の沖縄戦」の臨戦態勢のまま1945年8月に敗戦の日を迎えます。9月3日、米占領軍本隊約3,500人が館山に上陸、4日間でしたが本土で唯一「直接軍政」をしきました。軍政解明のきっかけは「中学校の日誌で記述を発見したことから」(池田事務局長)といいます。
要塞・訓練・特攻—サンゴの北限の温暖な気候と花、海水浴や釣りの観光とレジャーのまちのもう一つの顔です。
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※WEBの記事はこちら。
新市民伝*池田恵美子さん
NPO法人南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム事務局長
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「東京湾要塞」から大戦を知る
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第二次世界大戦末期、「本土決戦」に備え多くの軍事施設がつくられた千葉県の房総半島南部。「東京湾要塞」と呼ばれた。その遺跡の保存と地域の再発見を呼びかけている。
半島南部の館山で育った。家の前の直線道路は旧館山海軍航空隊の滑走路跡、遊び場は地下壕や砲台跡だった。
小学校の終わりにハワイのサマーキャンプに参加したとき、日本軍の真珠湾攻撃を教えられた。教科書で学ぶのとは違う衝撃を受け、戦争とは何かを真剣に考えた。
フェリス女学院大から保険会社などで東京に17年。体調を崩して00年、館山に戻る。地域雑誌の編集をしていた際、戦跡の調査と保存活動を続ける高校教師と出会った。
「館山の基地で訓練を受けたパイロットが真珠湾に出撃した」
「基地に近い赤山地下壕(総延長約2キロ)では、無線で太平洋全体の戦闘を指揮していたのではないか」
ふるさとが戦争で果たした役割を知った。学校の勉強だけではわからないことがある。
「子どもたちに戦跡を見てまず何かを感じてほしい」
04年、高校教師とともに戦跡を保存・活用するNPO法人を設立した。市は赤山地下壕を一般公開し、文化財に指定した。年間約1万5千人が訪れる。特攻基地などを含めた戦跡の見学コースをつくり、ガイドも養成する。
住民の歴史も掘り起こす。戦争中、地元農家は食糧増産のため栽培を禁じられた特産の花の種を隠して残した。戦争だけではない。「八犬伝」の里見氏の城跡、4言語が刻まれた江戸時代初期の石塔、渡米したアワビ漁師…。
「先人の営みに学びたい」
(編集委員:辻陽明)
(朝日新聞2007年08月18日付)
62年目の記憶⑤
足運ぶ想像力
・平和学習に活用
・肌で感じる傷跡
・身近な所に点在
(写真)
館山市の戦争遺跡のガイドを務めている愛沢伸雄さん(左)と池田恵美子さん=14日、館山市にある遺跡「掩体壕(えんたいごう)」で
今月14日、房総半島南端の館山市を訪ねた。
海上自衛隊館山基地近くの海岸には「関係者以外立ち入り禁止」と書かれたロープが張られていた。
「米軍は、この海岸から初めて本格的に本土に上陸したんです」
同行してくれたNPO法人「南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム」理事長、愛沢伸雄さん(55)がそう教えてくれた。
62年前の1945年9月3日午前9時20分。3千人を超える占領軍本隊の米陸軍第8軍第11軍団が、目の前のロープの先の海岸から上陸した。
朝日新聞は翌日の紙面で報じた。「連合軍米第八軍の一部カンニングハム代将下一個連隊約三千は三日午前九時二十分より館山に上陸を開始」
その前日の9月2日、東京湾上の米国の戦艦ミズーリ艦上で、重光葵外相(当時)が出席し、降伏文書調印式が行われたばかりだった。
◇
東京湾の入り口に位置する館山。東京湾要塞(よう・さい)地帯の指定を受け、館山海軍航空隊など多くの軍事施設が置かれた。戦争末期には本土決戦に備えて特攻基地の配置が進んだ。軍の要塞と化したのだった。
戦後、たくさんの戦跡が残されたが、長い間放置されたままだった。
「戦跡を地域教材として活用できないか」。社会科の高校教諭だった愛沢さんは93年から調査研究を始め、04年にフォーラムを立ち上げた。
14日は、同フォーラムの事務局長を務める池田恵美子さん(46)も一緒に戦跡を案内してくれた。
海自館山基地の南側の標高約60メートルの小高い山の中に、総延長約2キロの旧館山海軍航空隊「赤山地下壕(ごう)」があった。
ひんやりとした中、天井の電灯を頼りに奥に進む。懐中電灯を壁に向けると至る所にツルハシで掘った跡が残る。
軍の一次資料がなく、当時を知る人の証言も少ないが「戦争末期に本土決戦に向けて掘削されたのではないか」と愛沢さんは推測する。
赤山から車でさらに3分ほど走ると、住宅地の中に突如、コンクリートの建造物が現れた。
「掩体壕(えん・たい・ごう)」と呼ばれる格納庫だ。戦争末期、空襲から戦闘機を守るために作られた。
愛沢さんによると、住民や兵士たちによって約10カ所作られたが、現存しているのはこの一カ所のみ。「私有地なので戦跡として保存するのが難しい」のだという。
海軍航空隊の射撃場跡、海軍砲術学校跡、砲台跡……。館山には約50の戦跡が確認されているという。
愛沢さんは「戦跡は当時をいきいきと語る。歴史的想像力を育む場として、平和学習にふさわしい教材だと思う」と語った。
◇
6月22日。その館山を千葉女子高の1年生約300人が遠足に訪れた。約3時間かけて、赤山地下壕、掩体壕、米軍上陸地を訪ねた。
「千葉が第2の沖縄になるかもしれなかったとは思わなかった」「戦争がどんなものなのか、どんなことがあったのかを詳しく知りたいと思った」。そんな感想が返ってきたという。
行き先として、館山を提案したのは同高校の社会科教諭の楳沢(うめ・ざわ)和夫さん(50)。「千葉県歴史教育者協議会」のメンバーで、県内の戦跡調査に取り組んできた。
戦争の記憶は遠ざかり、戦争体験者は減っていく。体験を「聞く」のではなく、戦跡の現場に「足を運ぶ」。それが戦争を語り継ぐ有力な方法になるのでは。楳沢さんはそう考えている。
◇
60年以上前のアジア・太平洋戦争の記憶は遠くなるばかりだ。土地開発などで破壊されたものも多いが、私たちの身近な所に目を向けると戦争の傷跡を伝える遺跡はあちこちにある。それを「過去の遺物」ととらえるのか、それとも「過去を伝える語り部」と見るのか。
問われているのは、私たち一人ひとりなのかもしれない。(有近隆史)
先日は申し込みはもちろんのこと、
現地でのガイド等色々とお世話になりました。
予定よりも1時間も遅れてしまったことに関しては、
改めてお詫び申し上げます。
豊津ホールでの事前学習で、
足元から戦争・平和を考えること が大切だと
いわれたことばが凄く印象的でした。
ツアー見学につい ては、地下壕内の精巧なつくり、
戦跡の多さ、戦跡と館山市民との近さには凄く驚かされました。
また、ガイドの方の説明も詳しく、
特に市指定の赤山地下壕とそうでない戦跡との差の部分に関しては
考えさせられるものがありました。
これからのご活躍を陰ながら応援しています。
拝啓 この度は中身の濃い素晴らしい研修を
させて頂き、ありがとうございました。
あの地下壕群を見るにつけ、もし本土決戦に
なっていたら…と、ゾッとする思いがしましたし、
館山に上陸した米軍による4日間の直接軍政が
敷かれ、戦後日本の占領政策が始まった等と
いうことも、初めて知ることができました。
中でも私にとって心打たれたのは、天羽道子理事長
さんがご説明下さった「かにた婦人の村」と
あの山頂近く、天に向かって尖り立つ「噫従軍慰安婦」の
石碑でした。まさに未だ癒されることのない、
石の叫びを聴く思いが致しました。
そして深津文雄牧師さんの「底点の人々」という
言葉の持つ重さも、改めて深く考えさせられました。
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先日は、館山戦跡スタディーツアーの学習とガイドありがとうございました。
時間の関係で充分にコースを廻ることはできませんでしたが、参加者からはよかったという感想が寄せられています。
全員ではありませんが添付いたしましたので、ご一読ください。
座学のなかで案内のあった、「赤い鯨と白い蛇」の上映を考えています。
上映権をお持ちということでしたので詳しく教えていただきたいと思います。
よろしくお願い致します。
また、来年の6月頃にお会いできそうです。みなさんによろしくお伝えください。
【館山戦跡スタディツアー参加者感想】
2008.11.21
参加者:20名
事務局:02名 計22名
※館山がこんなにも歴史(戦争の跡を残した)あるところだとは知りませんでした。赤山地下壕はスケールが大きく、案内で紹介されている防空壕ではなく愛沢さんの説で要塞というのも「そうだなぁ〜」とうなずけた。暗さと静けさは怖さを感じるものでした。噫 従軍慰安婦」の碑の話も慰安婦の話もなんとなく知っている程度だったが深く掘り下げて聞くと戦争のむなしさ、悲しさをあらためて知りました。(軍人はまつられても慰安婦は何もない)午前の1時間の座学は本当に良かった。特に学んだのは歴史で何が起きた、何があったかを学ぶのではなくその背景を(想像)することが大切であること。戦跡を残すことをただ残せ!というのではなく色々な角度から伝えていくことが重要なのだということ。(憲法9条も同じように色々な角度で話していくことが必要)今回参加して戦争は絶対にしてはいけないし、何も生み出さないということをあらためて感じ、今後のライフワークの中にも役立てていきたい!
※噂に聞いていたが(何かの本で見た)館山でこんなにスケールの大きな戦跡があったとは思いませんでした。次回第2弾もあったらいいなぁ。戦跡が埋もれてしまわないようにたくさんの人に関心を持ってもらいたい、感動しました。
※有意義な一日でした。ガイドの方の説明も熱心で時間があればもっといろいろ見学したかったのですが残念でした。集合時間は7:15のはずが(いつものことですが)時間を守らない人がいたのはどうにかなりませんか。
※風邪は強かったけれど、お天気でとても良かったです。個人ではけして見学なんてしなかったと思います。戦跡ツアーを計画していただいたから見ることができました。あの岩を人の手で掘っていたのですね、みな無理矢理連れてこられてずっと寒くて暗い中で作業したんですよね。地下壕の奥行きすごいですね、全て人が作ったのですよね。私は戦後に生まれて本当に良かった・・・・。かにたの施設、登っていくのに大変。従軍慰安婦の石碑を見て、声にならない声、しぼりだした声「噫」むなしい、かわいそう、何の罪もないのにこっそりと生活しなければならなかったのですものね、お気の毒でした。とてもいい勉強でした。ありがとうございました。
※平和について勉強するのは高校生以来のことだと思います。前半の座学はとても良かったです。おもしろかったし、ためになったし、考えさせられること、感じるものがありました。こんな内容ならまた勉強したいと思いました。後半の見学は、シンと静まりかえった壕の美しいともいえる壁を彩る地層をみていると、現在の外観から感じる印象と終戦時期の喧騒や混乱を考えると複雑な思いがしました。自分が知らず知らず通り過ぎている街並みにも歴史の跡があり当時の人々の思いを伝えているかもしれないと考えました。
※館山というと海水浴のイメージしか知らなかったのですが、歴史を知って驚きました。また、NPOとして熱心に活動している方がいる一方で、行政の無関心もいまどきありえないと思います。美しい海を見下ろす山は、実は地下に戦争の爪痕をかかえている。日常をはなれて戦跡ツアーに参加するなんて私はなんて平和なのでしょう。この街で暮らしている人がいるというのに・・・・。良い一日でしたありがとうございました。
※館山の戦跡については全く知らなかったので勉強になりました。かにた村の名前は聞いていましたが、館山の山の上にあったのですね。まだまだ封印された場所、事柄がたくさんあるのでしょうね、まだ、戦争を知っている世代が残っているうちに正しく記録されて伝えて欲しいです。
※貴重な戦跡をめぐる機会を頂ありがとうございました。地域史が世界史と無関係ではなく、リンクしているということを実感でき非常に興味深いものでした。ガイドの方の戦後ではなく戦前という言葉が重く感じられました。
※戦争を語り継ぐ上でその土地に根ざした形で取り組むことの大切さを感じました。同時に、近現代史の視点、海外との関わりなどについても考えて行きたいと思いました。戦跡については、実際にこの目で見て、戦争中の状況について想像力を働かせることの大切さを感じました。また、戦跡を保存したり、証言を集め残すことの大変さ、大切さを感じました。今が再び「戦前」になってしまうことのないようがんばっていきたいと思います。
※愛沢伸雄、池田恵美子さんのお話がとても分かり易く、歴史のつながりの感動を覚えました。平和は貧困克復と普段の生活が末永くできるようにすることを痛感しました。人々は皆、それぞれの仕事、生活を通して平和的、友好的に生活してきたものだと思う。国家権力がかかわるとどうして戦争になってしまうのか。実は、館山は家内の実家なので、38年間通い詰めて来ましたが、身近にこのような活動があったのを知りませんでした。家族での話題が一つ増えました。
意見・要望(次回企画など)
★このような楽しい企画を広く知らせていくべき。そのヒントは、今日の池田恵美子さんの話にあったように!
★とうきょう・さいたま戦跡・平和マップは、これから一つ一つ行ってみたい、役に立ちそう。
★次回は一泊して、一日目10:00発で二日目14:00帰路に着く行程でジックリ見学してきたいですね。(廻るべきところは全て廻って)
★戦跡などについて実際に見て想像力を働かせる企画
★戦争体験を語り継ぐ企画
★近現代史の学習
★戦争と平和に関わる映画の上映
★最近の日米安保体制の学習
★さいたまと戦争との関わりがある場所・施設(軍需工場など)
★これからも個人では行けないけれども、ツアー企画だったら参加できるので企画していただきたい。
★長野県松代(一泊二日)・沖縄(二泊三日)くらいで!
★城を見たい(土から成る)!(歩いてみたい)
★松代も見たい!(沖縄もいいなぁ〜)
11月15日(土)好天気のもと、秋のイベントである館山の戦跡をめぐる「平和ツアー」が行われました。
午前中1時間半,「NPO法人安房文化フォーラム」からパワーポイントを使っての大変分かり易い事前講義を受けました。ホテルでの昼食後、同会ガイドさんの懇切丁寧な説明・案内で「赤山地下壕」など5カ所の戦跡をめぐりました。これらを通して、参加者一人ひとりが平和への想いをより深め、憲法9条の大切さをあらためて確認しあえた、大変有意義な一日となりました。
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昨日は、ありがとうございました。
熱意あふれた池田さんの講義に、ただただ圧倒されました。同行した生協の方も、池田さんのお話をもっと聞きたいと言っておられました。
カモミールの会の仲間達も、館山に行けて、池田さんのお話を聞いて歴史を学び、現地で戦跡を見て、ヘリコプターの騒音を聞き、学ぶところが多かったです。
案内をしてくださった、9条の会の皆さんの丁寧な説明に、心打たれました。
研修内容について、他の友人にも伝えたいと思います。
今後も、ご活躍を!
(千葉市女性センター 男女共同参画講座受講者)
◆千葉遺産33◆
◎かにた婦人の村 従軍慰安婦碑
…歴史の闇ひそやかに、声なき同僚 鎮魂の場
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急勾配の坂を登ると、館山の海とミニチュアのような街並みが眼下に広がる。小高い丘の上に位置する「かにた婦人の村」(天羽道子施設長)。施設内には入所者がパンづくりや陶器づくりに従事する作業棟や農園、教会が並び、それらを見下ろす丘の上に「噫(ああ)従軍慰安婦」と書かれた石碑(高さ約2メートル)が建っている。
かにた婦人の村は65年、東京都のプロテスタント系社会福祉法人「ベテスダ奉仕女母の家」が母体となり、故深津文雄牧師が設立した婦人保護長期収容施設だ。1956年の売春防止法成立を受け、障害のある女性を長期間生活する施設として建設された。
施設には深津牧師の墨書が今も残る。「かにたとは、そこを流れる小さな川の名前でした。(中略)そのほとりに捨てられた、いとも幸うすき女性百人の、共に住む村の名前となりました」。ノンフィクション作家・沢木耕太郎氏が72年に発表したルポルタージュ「棄(す)てられた女たちのユートピア」(新潮文庫「人の砂漠」所収)の舞台ともなった。
これまで全国各地の婦人保護施設から「長期収容が必要」と判断された延べ179人の女性が入所。38人は他施設などへ移り、59人はここで亡くなった。家族に引き取られたのはわずか2、3人だという。現在、20〜90代の女性82人と、職員約20人がともに暮らす。生活費は国、県からの補助金や寄付金で賄われている。
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深津先生
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