



土曜日は、ツアーに同行させて頂きありがとうございました。
ボランティアといいながら、十分なお手伝いができず申し訳なかったです。
ガイドの斉藤さん、飯塚さんも大変熱心な方で、参加者も皆満足されていたことと思います。
今回の参加者は、若いグループで私もとても話がしやすく、また彼らの活動にも興味を持ちました。
さて、ツアーのほうは池田様の講義が大変充実しており、あれでも時間が半分になっていましたから、
倍の時間がありましたら、どんなに深い内容であったか想像できません。
自分も小さな頃、防空壕で探検ごっこをしていたクチですので、なじみはありますが、
改めて洞窟の壁に刻まれたツルハシの溝ひとつひとつに手を触れると、
先人達の努力と苦労を感じます。
また、館山が歴史的に非常に先進的で開放的、様々な人、文化を受け入れる土壌があったことは、
今後の時代を切り拓いていく際にも大きな力だと思います。
私はこの一ヶ月、毎日館山の自然や文化に触れ、イベントに顔を出し、
「館山はすばらしいところだな」と一層その思いを強くしました。
もちろん様々な問題も存在していることは事実だと思いますが、
地元の方、引越しされてきた方々の力を合わせていければ、
きっといい港町が作れると思います。
私も微力ながら貢献してまいりますので、今後ともよろしくお願いします。
当日の内容は、
自分のブログ(新たに始めた木のブログでまだ最近のものです)に掲載させて頂いています。
本当にこのような機会を頂き、ありがとうございました。



安房歴史文化研究会2013年(第24回)公開講座 2013年7月27日
明治期館山の殖産興業をみる 〜小原金治の経済人ネットワーク
NPO法人安房文化遺産フォーラム代表 愛沢 伸雄
明治期、千葉県議や衆議院議員であった小原金治は、安房銀行(千葉銀行の前身)や房総遠洋漁業(株)の設立や経営に関わっていたので、安房の殖産興業をたどるうえで重要な人物である。小原金治の生涯については、資料に乏しく不明な点が多い。最近、館山市南条の生家から自筆の『自叙伝草稿』(以下、「草稿」)の断片が発見された。この「草稿」と富崎の小谷家住宅から発見された水産資料を通じて、明治期の館山の姿を知ることができる。
金治は、1859(安政3)年、豪農であった父桂助母かよの長男として旧南条村で出生。12歳で旧館山藩士であった叔父から初めて読み書きを学ぶ。以来、22歳まで農業の傍ら、地域の漢学の師を訪ね、独学で勉強。21歳のときに大きな転機が訪れる。金銭問題で裁判所に民事訴訟をおこし勝訴した。折しも自由民権の嵐が吹き荒れていた時代、政治を見る眼や法律に強い関心をもち、北条村で何回か開催されていた民権派の演説会に参加した。東京からの弁士小野梓や田口卯吉や、地元の県議小原謹一郎や若手の満井武平らの熱弁を見聞し、政治世界に入る契機になったと思われる。
激動する時代にあって、22歳の金治青年も大きな志をもって上京した。当時、著名な漢学者の岡千仭(鹿門)の塾に通い、夜学の法律学校で学ぶ。しかし、3年後に父が重病になり、やむなく帰郷。その頃、北条村で開催された民権派の演説会では弁士の一人として活動するなかで、1884(明治17)年25歳の金治は南条村会議員に選ばれた。
村議の活動では、住民から無法状態にあった房州白土の採掘と土地問題について相談をうけた。金治は県や国に働きかけるとともに、住民との契約関係をもった会社を立ち上げることにした。安房坑業会社と呼ばれたこの白土会社は、「東洋煙草大王」の異名をもつ岩谷松平が社長になり、地元からは金治自らが取締役となった。最近、源慶院からこの会社と契約を結んだ吉田智道住職の証書が見つかっている。
岩谷は松岡村出身の福原有信とともに東京・銀座で活躍していた経済人で、後に東京選出の衆議院議員になっている。さまざまな商品を扱った全国的な商社の岩谷商会と関わり、金治は初めて実業を学んだと書いている。金治の身近にいた親しい政治家は、館野村出身の県議小原謹一郎である。小原は公共事業的な海運業を訴える正木貞蔵に共鳴し、安房汽船会社を創設した人物である。しかし、運賃競争で破産して大きな負債をかかえ三六歳で亡くなっている。また、盟友になる満井武平を通じて彼の叔父である富崎村長神田吉右衛門とも交流が生まれ、安房の水産業問題も語り合ったであろう。
1890(明治23)年、金治と満井はともに県議に当選した。二人は力を合わせて安房の殖産興業に取り組んでいった。当時、関澤明清や神田らは近代的な水産事業を自ら実践していた。満井は大隈重信の立憲改進党に入ったが、金治は党派の政策にこだわらない政治的立場をとっていた。県議三期目になった35歳の金治は、盟友の満井や角田真平(号竹冷)の仲介で大隈重信と会見。その後に大隈の理念に共鳴して改進党の一員となったのであった。
衆議院の解散後、安房の候補者選定のなかで大隈の側近岡山兼吉らの説得があり、金治は県議を辞して改進党候補者に擁立された。1894(明治27)年、日清戦争勃発の年九月の第四回衆議院議員選挙は改進党の重鎮島田三郎らの応援や安房国改進党の全力をあげた選挙運動によって、自由党の加藤淳造を押さえて見事当選した。日清戦争のなかで注目されることが「草稿」にある。後に東京株式取引所理事長になった同僚議員角田真平の仲介で、金治は勝海舟と会見したという。日清戦争と国政のあり方について懇談し、高い見識に驚いたとの記載がある。
1897(明治30)年までの3年間の議員活動で、安房において重要なものの一つが、神田や満井らの水産業の改革を応援し、関澤明清が館山で取り組んでいる先駆的な遠洋漁業を奨励する法律に関わっている。二つ目には県議時代より正木貞蔵らの公的な海運事業「安房団体」組織し援助してきた。水産業の振興のためには安定的な海運業の振興が重要であったが、常に資金的な課題を抱えていた。金治は殖産興業の資金を調達する金融機関設立が急務であると安房郡長の吉田謹爾とも相談していた、吉田の義父は旧館山藩士で金治の叔父とは仲間であったし、8歳年長の吉田は村議や県議の時代から強い結びつきがあった。金融機関設置する方策では、金治は安房出身である大物大蔵官僚である曽根静夫国債局長に相談したであろう。曽根は日清戦争時に戦時国債を発行し戦費調達を成功させた人物として金融界に大きな影響をもっていた。金治と曽根と吉田の三者の連携のもとで、安房ゆかりの企業人福原有信や浅田正文、川崎財閥の総帥川崎八右衛門らを発起人として、1896(明治29)年、千葉銀行の前身である安房銀行がスタートしたのであった。
謹厳実直で実務派の吉田謹爾は郡長を辞め専務取締役として全てを仕切った。この年に金治は病気になったこともあり議員生活を終えている。しかし、自ら先頭に立って本格的な安房の殖産興業に取り組んでいった。1897(明治30)年、館山の地でモデル的な遠洋漁業事業を実践して企業化のきっかけをつくった関澤が志半ばで急逝した。関澤の実弟鏑木余三男は、その遺志を継いで房総遠洋漁業株式会社創設を呼びかけた。翌年に安房銀行の資金や国からの遠洋漁業奨励金が投入され、北洋のオットセイ・ラッコ猟を主とする本格的な漁業会社が設立され、金治が社長となったのである。
近代的な水産業を模索していた盟友満井の叔父神田吉右衛門は、富崎村長として数多い遭難漁民の救済や鮪延縄船改良の施策をはじめ、鮑組合の収益を教育など公共事業のために使い、人びとに敬愛されていた。また、資生堂の福原有信は帝国生命保険を創設しているが、1894(明治27)年に社長となり、吉田らが呼びかけて遭難者家族救済のための保険事業に関わった。神田も全国でも先駆けて遭難者救助積立金制度や布良同盟保険をつくり、福原の帝国生命保険と連携した取り組みをおこなった。実はこの動きは人びとの貯金制度などのきっかけとなり、不安定な金融業のなかで地域密着型の安房銀行は、強固な経営基盤をつくり地域振興に貢献していったことを忘れてならないであろう。
その後も小原金治は、安房に関わる金融・経済人などさまざまなネットワークを通じて地道に地域の殖産興業に努めていった。金治は吉田謹爾が亡くなった1914(大正3)年、安房銀行を頭取として引き継いでいる。県内の金融界の重鎮として、千葉銀行創設に一石を投じるなか、1939(昭和14)年79歳で没している。
今回の報告は、小原金治の動きを切り口に明治期の安房での殖産興業の一端を紹介した。



ウガンダ支援続けて20年
安房の高校生ら関係者が交流会 館山
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NPO法人安房文化遺産フォーラム(愛沢伸雄代表)は7日、安房地域の高校生らによるアフリカ東部のウガンダへの支援活動20周年を記念する交流会を、安房西高校で開いた。関係者ら40人が集まり、活動を振り返ったあと、記念としてウガンダに寄贈するブロンズ像が披露された。
支援のきっかけは、当時、旧安房南高の教諭だった愛沢代表が、孤児の救済活動を行うNGOウガンダ意識向上協会の代表、スチュアート・センパラさん(57)に出会ったこと。ウガンダでは、内戦でエイズがまん延し孤児があふれていることを知った。
愛沢代表は、生徒らにボランティア活動を提案し、94年に支援が始まった。その後、安房高JRC部を経て、安房西高JRC部へと受け継がれて、支援バザーや募金などの活動が続けられている。
安房南高時代の資金援助を原資に2000年には、ウガンダの首都カンパラ市に職業訓練施設「安房南洋裁学校」が完成。交流の象徴として同南高の校章が掲げられた。
この日の交流会では、節目に合わせて作成した記念誌を、高校生や活動を支えた同窓芳誼会をはじめとする出席者に配布して、活動を説明。活動に関わった卒業生や支援を受けたウガンダの子どもたちの声も紹介された。
活動紹介の後には、20周年を記念してウガンダに贈られる、元南高の美術教師で彫刻家の船田正廣さん(76)が制作した、制服姿の安房南高の生徒立像が披露された。寄贈にあたり、安房西高JRC部から約5万円、館山信用金庫からふるさと応援ファンドとして10万円の助成もあった。
愛沢代表は「小さなことから始まった生徒たちの思いが、人と人をつないで素晴らしい活動になった。20年続いていることに感謝するとともに、今後も続いてくことを願っています」と思いを語った。


●今回の見学では、戦跡や四面石塔などの具体的な内容だけではなく、「学ぶ」という本質を学んだ。自分の興味のあること意外の内容でも、新たな発見ができるように視野を広くしていきたいと思った。
●見学会では様々な事を学んだと思います。安房博物館で食べた昼食は海を見ながらだったので、普段食べている昼食よりも格別においしかったです(写真)。今回学んだ事を、これからの学習につなげられるようにしたいと思います。
●今日の見学会は初めて参加したものでしたが、学ぶものが多くありました。安房はアワビの水揚げ量が日本屈指なもので、千葉はピーナッツだけではないと思いました。
●今回の見学会は、非常に充実していました。そうして勉強になりました。戦争とそう渫は、皆知っているのに、その非しさや犠牲になった人々の悲しみは、僕達には分からない事であり、体験した方々にしか分かりません。その傷跡を本日、真の今さりにし、唯々、衝撃、そして悲しみが一気に押し寄せました。
●授業、事前学習等で戦争遺跡の話は聞いていたが、相変わらず千葉にイメージが結びつかなかった。しかし今回の文字通り貴重な体験によって史実の一片を知れた。四面石塔は驚く程適当に置いてあるように見え、「地元の人にとっては普通の物」という印象を受けた。
●今回の見学会では思っていたよりも多くのことを学んだ。例えば、慰安婦の事はなんとなくは知っていたが、今日さらに詳しく知る事ができてとても勉強になった。
●今日館山に行って、いろんな場所を見てたくさん話を聞いてとても勉強になりました。こんな身近な所で今日聞いたような辛い歴史があったことを知ってとても驚いて、もっといろんな事を知りたいなと思いました。
●のしにアワビとか海軍は左から書くとかおもしろい話がいっぱいあっておもしろかった。辛い歴史があることを知らなかったことが悲しかった。
●初めて見学会に参加して、普段自分が行かないようなところを見ることができたので、とてもよい経験ができました。房総についてはあまりくわしくは知らないので、これからも色々知っていきたいです。
●初めての見学会で、様々な事に刺激を受けたと思います。捕鯨や戦跡、千葉にもたくさんの伝統があって、しかしそれは生活の上で忘れられたり、隠されようとしていたり。知りたいと思う事と知ってほしいと声をあげることの大事さを学び始めた気がします。
●初めての見学会は、いろんな事が勉強になりました。大巌院四面石塔には四つの国の言葉で「南無阿弥陀仏」と書いてあること(写真)、「アマさん」には男性と女性両方いること、ウミホタルには悲しい過去があったこと等がわかりました。これからももっと知っていきたいです。
●今回のプロジェクト見学会は非常に楽しむことができました。特に、最後の四面石塔は感動しました。四面石塔はどんな想いで創られたのでしょうか。僕は、色んな本を読んだので、四面石塔には何かの暗号文があると思っています。いや、あってほしい。
●今日、見学会で館山に行って、すごく勉強になりました。館山は何回も来ているけど、今日また新たな館山を垣間見られてよかったです。特にかにた婦人の村の教会に行った時に自分の知らなかった世界を知ることができました。



●380年前に書かれた日本寺院の「ハングル碑石」
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日本の千葉県館山市にある仏教寺院大巌院には参拝客の人目を引く珍しい石塔がある。正門から法堂に入って行く通りにあるこの四面石塔には中世のハングルが刻まれている。380余年前ただの村に違いなかった館山に、ハングル碑文を刻んだ石塔が建てられた背景は何なのだろうか。学者たちの研究でその謎が少しずつ解けていっている。
「ハングル表記のモデルは阿彌陀経」=高さ2メートル19センチの四面石塔は形が碑石に近い。東西南北4面にはそれぞれハングルと中国の篆書体の漢字、日本式の漢字、サンスクリット語でそれぞれ「南無阿彌陀仏」が刻まれている。また北には1624年、山村茂兵という人の施主で立てられたという由来が短く書かれている。
東に刻まれたハングルは音価がない子音(イウン)を書き入れたいわゆる「東国正韻」式表記だ。これは訓民正音創製初期から16世紀までに使われた表記法だ。すなわちこの塔が刻まれた1624年当時には韓半島からも消えた表記方式という意味だ。中世国語を専攻した東国大チャン・ヨンギル教授は、現地調査結果をもとに四面石塔のハングル表記と書体が「阿彌陀経諺解双渓寺本」(1558年刊行)とそっくりだと分析した。壬辰倭乱中に日本に伝わったこの仏経のあちこちに散らばっている該当の字を参考して碑文を刻んだという推定だ。
「壬申倭乱の犠牲者を称える平和の塔」=最大の謎は塔を建てた人がどんな意図でハングルを刻んだのかという点だ。これについて、館山地域の郷土史学者たちは「壬辰倭乱の時、死んだ朝鮮人の霊をなぐさめ、日本に連行された朝鮮人を労わる心を込めてハングルを刻んだ可能性が高い」という学説を出している。これらは当時、大巌院の雄誉上人の行績に対する研究をもとに徳川幕府と密接な関係だった雄誉が江戸で朝鮮通信使や壬辰倭乱の時に連行された朝鮮人と接触した可能性が高いと考えている。郷土史学者石和田秀幸氏は研究論文で「四面石塔は日本と朝鮮の間に起きた悲劇(壬辰倭乱)を乗り越えて平和と信頼回復を祈るもの」と主張している。
(館山=イェ・ヨンジュン特派員)




知恵袋講座54回目
語り手=河辺智美さん
テーマ=安房からウガンダの交流・支援活動
参加費=200円(茶菓子・資料代)
愛沢授業実践をきっかけに旧安房南高校生から始まったウガンダ支援活動は、安房平和のための美術展など地域に根付いて20年になります。東洋大学国際地域学部4年の河辺さん(安房高出身)が、昨年ウガンダ研修で視察訪問した見聞報告をします。



○館山の戦争遺跡で街づくり
〜要塞など系統化、歴史公園都市に
…市調査委賀報告書作成し意欲
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館山市内の戦争遺跡をまちづくりに活用しようと、学識経験者らをメンバーにつくられた市戦争遺跡調査研究委員会(委員長・田辺員人東京家政学院大学学長)が最終報告書の素案を了承した。年度内に報告書をまとめる。
市は、これらの戦争遺跡を平和学習や交流に生かした、地域まるごとのフィールド博物館「館山歴史公園都市」づくりを目指す。
東京湾の出入り口に位置する立地条件のため、館山は太平洋戦争中の本土防衛要塞など、近代戦争遺跡が多いことで知られる。市教委の調べでは、館山海軍航空隊関係17、洲ノ埼海軍航空隊関係6、館山海軍砲術学校6など計47ヵ所を数える。
しかし、戦後57年が過ぎ、記録などが風化している。同委員会は昨年7月に発足、これら遺跡の文化財指定を視野に、財団法人「地方自治研究機構」と協力して現地調査や関係者アンケートなども実施してきた。
「歴史公園都市」構想は、館山、洲ノ埼の両海軍航空隊、東京湾要塞、館山砲術学校の3地区を大きく遺跡群として系統化。それによって首都圏防塁の地、館山の歴史文化性を後世に伝えようとしている。
各遺跡の関係者を対象としたアンケートも225通が集まり、平和学習の素材などに生かされる。
田辺委員長は「館山の場合、広島や沖縄のような悲惨さはなかったが、明治、大正、昭和と3代にわたる戦術や戦略の変化をたどることができる。いろいろな立場から戦争を考える場になればよいと思う」と話している。

