館山軍政〜少年が見た占領(下)
封鎖解け進んだ交流
(朝日新聞2015.8.8.31)⇒印刷用PDF(連載2本)
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1945年9月3日、米軍本隊上陸の直後、高橋博夫(87)の家の前の県道交差点は鉄条網で封鎖され、立ち入り禁止となった。「ぐるぐると巻く鉄条網を初めて見た」。封鎖された先に館山航空隊が広がる。米軍は交差点に機関砲を置いた。歩哨が詰め、ひと休みする歩哨舎も置かれた。
NPO法人安房文化遺産フォーラムの愛沢伸雄代表が米テキサス軍事博物館から得た記録によると、米陸軍第112騎兵連隊のカニンガム司令官は3日朝、館山終戦連絡委員会の林安委員長らを米艦に乗せ、文書「米軍による東京湾地区の占領」を手渡した。
文書には、連帯に軍政参謀課を設置▷裁判所・金融・警察権など幅広い民事を掌握▷学校・酒場・劇場などを閉鎖▷午後7時〜午前6時の外出禁止などが書かれていた(外務省の公文書より)。
歩哨は制服で鉄兜(てつかぶと)姿、肩から銃を提げていた。「だが、威圧感はなかった」と高橋は振り返る。歩哨と目が合うと、「日本軍なら『おいこら、家に入っていろ』と叱られそうな場面でも、親近感さえ覚えた。
米兵は占領地区の様々な施設を回った。安房高等女学校(安房南高校を最後に安房高校と統合)には9月2日に将校6人が訪れた、と同行の記録に残る。
「考えられる理由はある」と高橋の妻澄子(85)は言う。終戦時は安房高女3年生。当時、工場になった学校ではジュラルミンを削って何かの部品を造っていた。日本海軍の兵隊が中庭に駐屯し、高女生は病院で看護実習を受け戦場になれば臨時野戦病院にする計画も伝えられていた。
3日の文書に基づく封鎖や禁止令は数日後、学校、集会、夜間外出・・・・・・とほぼ一斉に緩和されたはずだが、裏付ける文書は見つかっていない。英語の公用語化などの軍政を準備していた連合国軍最高司令部が日本側に公布する予定の布告を3日朝、当時の重光葵(まもる)外相らの説得で撤回した事情と関係ありそうだ。
重光は著書「昭和の動乱 下」(中央公論社刊)で書いている。「総司令官は・・・・・・軍政の施行を中止することを承諾」「館山地区は・・・・・・やや混乱を見たが、軍政は後に至って取(とり)消された。・・・・・・軍政見合わせの命令伝達が間に合わなかった」
安房中学は7日、安房高女は10日に登校が再開された。高橋の家の前の鉄条網は撤去され、県道の封鎖も解かれた。
高橋は助教諭を務める西岬(にしざき)村立東国民学校(当時)に再び通い出した。女性教師と自転車をこいでいくと、銃を提げたMP(憲兵)に呼び止められた。英語で尋問された。「どこへ何しに行くのか」のようだ。身ぶり手ぶりを交えて「スクール(学校)、ティーチャー(教員)」と答えると、通行を許された。
その春安房中学を5年で卒業した高橋は、3年まで英語の授業を受けていた。「窮すれば通ず、だ」
鬼畜と教えられてきた米兵と接し、「怖いと思ったことは一度もない」と高橋は言う。それどころか、交流したいとさえ望んだ。
家の前で歩哨に立っていた兵士を10月ごろ、勤務校に招いた。当時17歳の高橋と同じくらい。騎兵連隊の馬の肩章を着けた軍服でやってきた。
兵士は黒板に名前を書いた。出身地は「テキサス」。だが世界地図でテキサスの位置を示せなかった。親しみやすい人柄だったが、これには驚いた。英単語のつづりが分からず、高橋に尋ねたこともある。
その秋には、日本文化に関心を持つ米士官2人を自宅に招き、茶を振る舞った。館山病院で始まった米兵講師による英会話教室にも出席した。米将兵への親しみはいっそう増した。
(敬称略)
(田中洋一)