戦争遺跡保存全国シンポジウム④
韓国と日本、二つの祖国を生きる
河正雄(ハ・ジョンウン)=韓国光州市立美術館名誉館長
(房日新聞寄稿2015.9.5付)⇒印刷用PDF(連載5本)
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第二次世界大戦が勃発し、朝鮮人に対する徴用が法制化、創氏改名令が施行された1939年、私は在日韓国人二世として生まれた。不条理な戦争への恐れと民族的な「恨(ハン)」とがインプットされ、平和と幸福を希求する人生観と哲学が形成された。「恨」とは、人間の意思ではどうにもならない運命に振り回され、力が及ばない感情である。私は、韓国と日本、二つの祖国の故郷を愛し、信頼し合える兄弟になるための架け橋になろうと祈念してきた。
18歳まで秋田県で育ち画家を志したが、母に猛反対され、断念した。教師や新聞記者、弁護士にもなりたいとも思ったが、国籍条項や貧困のために諦めざるを得なかった。
埼玉県川口市で電気店を経営することになり、事業に成功した。私は画家になれなかったが、顧みられずに苦労してきた同胞(在日韓国人)の美術作品に出合って心揺さぶられ、その収集を始めることとなった。その後、多くの在日作家は両国の美術界で歴史的評価が高まっていった。
日本と韓国の間には歴史認識問題の溝があり、それらを乗り越えようと努力している人びとがいる。歴史を知らないということは、未来への展望が拓けない。平和を培っていくためには、しっかり歴史を学ばなければならない。その事例を紹介したい。
私が生まれた年、辰子姫伝説の伝わる田沢湖畔に姫観音像が建立された。これは、国策でダムと発電所が建設された時に絶滅したクニマスという魚類と辰子姫の霊を慰めるために建立した像であると、戦後に町当局は掲示板を立てた。私はこの解説文に納得がいかず調査を始め、10数年かけて建立趣意書を探し出した。すると、ダムと発電所建設のために徴用され、過酷な労働で亡くなった朝鮮人を慰霊する観音像であったことが明らかになった。私が朝鮮人無縁仏追悼慰霊碑を建立した翌1991年のことである。
私は在日韓国人画家の作品を収める「田沢湖 祈りの美術館」を建設し、戦前の朝鮮人犠牲者を慰霊したいと願ったが叶わなかった。しかし、韓国光州市立美術館に在日画家の作品を寄贈する縁に恵まれ、その後両国の美術館に1万余点を寄贈することになり、私の名を冠した霊巌郡立河正雄美術館も開かれた。霊巌郡は両親の故郷であり、日本に古代文化を伝えた王仁博士ゆかりの地でもある。
私のコレクションのコンセプトは「祈り」である。平和への祈り、心の平安への祈り。犠牲となった人々や虐げられた人々、社会的な弱者、歴史の中で受難を受けた人々に向けられた人間の痛みへの祈り。芸術の力は、韓日のわだかまりの根源と矛盾を克服し、地平を切り拓くことになった。文化こそが、平和をつくる上で大きな鍵となる。
私が尊敬する、浅川巧という日本人がいた。日本の統治下にあった韓国へ農林技師として渡り、禿山に植林して山を蘇らせた。朝鮮服を着て、朝鮮の食事をし。朝鮮の言葉を話して、朝鮮人を友とし、朝鮮の風習を身につけて暮らした。朝鮮の陶芸や民具の価値を認め、光を当て、韓国の文化を広く知らしめた。朝鮮人からも愛され、感謝されている。戦後、韓国では多くの日本人の墓が取りつぶされたが、浅川巧の墓は韓国の人びとによって守られてきた。
私も日本で生まれた以上、日本の国で日本を愛し、日本人にも愛されて、日本に貢献し、日本人と一緒に力を合わせて地域社会をよくする生き方をしようと、浅川巧から学んだ。異国人を見下すことなく、その文化を認めながら、両国の魂を結びつけて交流した先人の精神を忘れないようにと、私は山梨県北杜市の浅川伯教・巧兄弟資料館で「清里銀河塾」を開催している。
館山市には、戦跡やハングル四面石塔などの文化遺産を大切にして、平和祈念活動をする皆さんがいる。私は心より敬意を表している。なかでも、青木繁『海の幸』誕生の小谷家住宅を保存するために、全国の画家の皆さんと一緒に募金活動をしていることも素晴らしい。この作品は私が大好きな作品である。この絵は労働者の象徴である。苦労して私たちを育てた在日一世の姿にも重なる。小谷家住宅が公開され、船田正廣さんが制作した刻画『海の幸』のブロンズ像が設置されるときには、私も韓国の光州市立美術館に常設し、日韓の友情の証にしたいと願っている。