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本土唯一軍政敷かれた館山、占領軍上陸から4日間

8月28日富津、9月3日館山

(毎日新聞2015.9.2付)⇒印刷用PDF(拡大)

70年前の9月2日、東京湾に浮かぶ戦艦ミズーリ号で重光葵外相ら日本代表が降伏文書に調印した。東京湾口に位置し、軍事上の重要拠点だった館山はその翌日から、1945年6月に米軍に占領された沖縄に次いで本土で唯一、占領軍の施政下に置かれた。戦跡保存に取り組むNPO法人「安房文化遺産フォーラム」(愛沢伸雄代表)が米テキサス軍事博物館から取り寄せた写真や資料は、当時の様子を生々しく伝えている。

資料や関係者の証言などによると、千葉県内に米軍が最初に進駐したのは45年8月28日、先遣隊である米海兵隊の特殊部隊が富津海岸に上陸したのが始まりとされる。海兵隊員は二百数十人。連合国軍最高司令官のマッカーサーが厚木飛行場に降り立った30日には、館山港から上陸。館山海軍飛行隊の基地に入り、富津から館山にかけての海岸線の機雷敷設状況などを調査した。その結果を踏まえ9月3日、ジュリアン・W・カニンガム准将が率いる米陸軍第112騎兵連隊約3500人が館山に上陸した。

愛沢代表は「米軍は東京湾岸を挟む館山と横浜に正規軍を上陸させ、挟み撃ちで首都を制圧する作戦を計画していた」と説明する。

同隊の任務は日本軍の武装解除と民政監督。カニンガム准将は3日付の文書で日本側に米軍司令部による館山地区の占領を宣言した。文書では、日本軍関係者と行政当局に、館山から鴨川にかけてのすべての軍事施設や発電所、燃料施設の位置を記した地図を提出するよう求め、すべての学校の閉鎖、午後7時から午前6時までの外出禁止、酒場や劇場の閉鎖などを命じた。一方で、米兵には神社内への立ち入りを禁じ、文化・芸術品の保護、職務の妨害がない限り一般人に危害を与えないことを指示した。

軍政を敷く前の数日間、海兵隊員が館山市内で婦女暴行2件、同未遂6件、住居侵入16件など36件もの犯罪を起こしていたことが千葉県警察史に記録されている。愛沢代表は「軍政を通じて、米軍の綱紀粛正も図ったのでは」と分析する。

館山での軍政は「日本政府の機能を存続し尊重する」とした連合国軍総司令部の方針と矛盾するため、わずか数日で撤回された。軍政の終了を告げる文書は残されていないが、愛沢代表は安房中学(現安房高)の授業が9月7日から再開されたことを根拠に、館山の軍政は4日間で終わったと推定している。

【中島章隆】

15年9月2日 5,068

特定非営利活動法人(NPO) 安房文化遺産フォーラム

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