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館山軍政〜少年が見た占領

半裸で上陸した米兵(上)

(朝日新聞2015.8.30付)⇒印刷用PDF(連載2本)

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館山は沖縄以外で唯一、配線の直後に米軍が軍政を敷いた占領地区とされる。軍政は住民の目にどう写っていたのか。証言と資料で70年前を振り返る。

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1945年8月30日昼。

「来たぞ!」。室内から一斉に声が上がった。館山港を見下ろすと、先遣隊の上陸用舟艇が岸壁に近づいてきた。元館山市教育長の高橋博夫(87)は「たしか4隻だった」と記憶をたどる。

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この日、連合国軍最高司令官マッカーサーが厚木飛行場に到着し、米軍が主力の連合国軍は日本各地に進駐を始めた。千葉県には本隊の作戦を円滑に進める先遣隊として、米第4海兵連隊が富津、館山に上陸した。

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双眼鏡でのぞくや、高橋は米兵の姿に目を奪われた。上半身は裸。「緑色っぽいショートパンツを履き、肩からピストルを提げていた」。室内に居合わせた数人からも「なんだ、敵地に上陸するのに裸なんて」「日本なら考えられない」の声が上がった。家から岸壁まで300余メートル。遮るものは当時なく、よく見渡せた。

館山にこの上陸した将兵は116人(米海軍歴史センター)。高橋が目撃した上半身裸の米兵はこの時の一人とみられる。3日後の9月2日、東京湾に停泊した米艦ミズーリ号で降伏文書の調印式が行われた。日本政府は、進駐軍と折衝する館山終戦連絡委員会(委員長・林安外務惨事官)の事務所を街中の旅館に設けた(外務省公文書によると8月31日付)。高橋の家も詰め所に充てられた。8月30日、終戦連絡委の主な関係者は岸壁に出て、米軍の上陸に立ち会った。

先遣隊は上陸すると、館山海軍航空隊(現・海上自衛隊第21航空群)の基地に入った。そこから車両であちこち走り回る様子は見聞きしたが、高橋が先遣隊の米兵と顔を合わせる機会はなかった。

混乱もなく、この日家に詰めていた終戦連絡委の面々は昼間のうちに引き上げた。高橋はほかの家々のように雨戸を閉め、家にこもった。「鬼畜と教えられてきた米兵が、どんな荒くれ者なのか分からず、不安だった」

高橋は数年前から、上陸はいつで、あの米兵はどんな人たちだったのか、と考えるようになった。自ら目撃したが、裏付けるものは何もない。家から一緒に見下ろした終戦連絡委の人たちに知る顔もなかった。

幼友達で元航空自衛隊幹部学校長の利渉弘章(77)が答えを見つけた。米海軍の史料をネットで調べ、1945年8月28日の上陸用舟艇の写真を探し出した。高橋は「これだ」と声を上げて喜んだ。富津沖の人工島の要塞(ようさい)(海堡)(かいほう)に着いた上陸用舟艇の写真だった。

米軍はこの日すでに、本隊の安全な航行のために東京湾内の危険物を除去する作業に入っていた。

9月3日朝。先遣隊に続き、本隊が館山港から上陸した。高橋が家の中から見ていると、沖にとまった輸送船から隊列を組んだ上陸用舟艇が数隻近づき、急に方向を変えてコンクリートの滑りに乗り上げた。

先頭の艇から完全装備の将校が降り、後ろから重機類や車両を降ろしていたようだ。滑りは館山海軍航空隊の基地につながり、今も残る。基地には大きなテントが幾張りも設営され、大勢の将校を養う食糧も積み降ろしたようだ。

本隊の主力はカニンガム司令官(准将)率いる第112騎兵連隊で、将兵約3140人だった(「千葉県警察史 第二巻」による)。

(敬称略)

(田中洋一)

15年8月30日 4,654

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