館山海軍航空隊、戦後米軍が一時占領
「国のため」4次の移転
(千葉日報2015.8.11付)‥⇒印刷用PDF
元館山市教育長 高橋博夫さん(87)=館山市=
館山海軍航空隊(館山市宮城)に絡んだ周辺住民は戦前から戦後にかけて、計4次にわたる移転を余儀なくされた。「当時は国のためにというのが大きかった」と振り返る。
最初は高橋さんが2歳の時。1929(昭和4)年の同航空隊建設の際、道路のための土地を提供しなければならなかった。約150メートル離れた現在の自宅がある場所に移った。39年頃から航空隊の拡張工事のため、2次移転として住み慣れた家を追われる住民も多かった。
太平洋戦争が激化した44年以降、航空隊は集中爆撃を浴びるようになる。硫黄島占領を目指す米軍が、日本軍の本土からの反撃を防ぐためだった。高橋さんは当時、学徒動員で館山を離れていたが、「民家もバリバリやられた。みんな恐怖で防空壕(ごう)へ入っていた」と後に知る。航空隊の離発着を妨げないため、周辺の多くの住民が3次移転を強いられた。
45年8月15日の終戦後も周辺住民の混乱は続いた。航空隊のあったエリアが占領地になることが決定し「9月1日に米軍が来る」ことを、8月28日に政府から通知される。占領地の住民は第4次移転をせざるを得なかった。猶予はわずか2〜3日。まさに着の身着のままだった」
8月30日の米軍の館山上陸に際し、自宅が政府の終戦連絡事務所の拠点になった。他の家庭は「一切の戸締りをして、外に出ないように」と命令を受けていた。
連絡事務所の関係者4、5人と一緒に高台にある自宅の窓からそっと海岸を見た。上陸してきた米軍の姿にあっけにとられた。「緑色のショートパンツ、腰にピストル。上半身は裸」。機雷など危険物を調べる先遣部隊として海に潜るためだったのだが、当時は知るよしもなく「あれがアメリカか。野蛮な国だな」と感じだ。
米軍が航空隊エリアを占領した9月3日から4日間、占領地は完全に封鎖された。その後もしばらく午前5時〜午後7時以外の外出は許されず、近くを通ることすらままならなかった。
勤務する小学校に行くにも、自動小銃を肩にした米兵の前を通らなくてはならず、「息が詰まる思いで近づき、身ぶり手ぶりで伝え、ようやく通行が許可された。あの時の緊張と安堵(あんど)の深呼吸は忘れられない」と表情をこわばらせる。
街を歩くと「グッドモーニング」と声をかけてくるなど、米兵は紳士的でトラブルはなかった。小学校に呼んだり、自宅に招き日本文化を紹介したりと、個人的には交流を深めることもできたという。
しかし、「戦争は悪」と断言する。「正義なしに、領土や石油を得ようと戦い、負ければ悲惨な目に遭うのは当然。被害がでるばかり」。平和が続くことを切に願う。
(館山・鴨川支局 吉田哲)