大人の遠足〜千葉・館山海軍航空隊赤山地下壕跡
本土決戦に備えた「地下要塞」
房総半島の先端部に位置する千葉県館山市。県内外から多くの海水浴客が訪れる夏の人気スポットだが、先の大戦では本土決戦に備えた最重要拠点の一つとされ、現在も多くの戦争遺跡が残る。その中でもっとも有名な戦争遺跡が、館山海軍航空隊赤山地下壕(ごう)跡(同市宮城)だ。7月上旬、同地下壕跡で、戦争遺跡の保存や若い世代への継承などに取り組んでいるNPO法人安房文化遺産フォーラム」(愛沢伸雄代表)のガイドツアーがお紺われると聞き、参加させてもらった。
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■広々とした空間
全長1.6キロの壕への入り口は、公民館の裏にある。受付を済ませヘルメットを装着して中に入ると、ひんやりと冷たい空気が頬に触れた。ツアー当日は大雨だったが、壕内の気温は外と比べ5度ほど低いだろうか。壕内に入ってすぐの場所は、天井の高さ3、4メートルほどの広々とした空間だった。
「ここはディーゼル発電機が置かれ、発電所として活用されていた場所です。中には病院や売店がありました」。ガイド役を務めた同団体副代表の鈴木政和さん(69)はこう説明してくれた。同団体が集めた元兵士らの証言によると、壕内には他に格納庫や奉安殿、戦闘指揮所、兵舎などがあったとされる。
終戦時には壕内で保管されていた多数の無線機が米軍に接収されたという記録もあるといい、海軍の防空壕としてだけでなく要塞としての機能を備えていたことが推測できる。大戦末期には多くの兵士が駐屯していたとみられるが、鈴木さんは「当時の資料が残っていないため、何人いたかは分からない」と話した。
通路をさらに奥に進む。先ほどの発電所と同様、部屋として使われていたとみられる空間はどこも広々としていた。こうした部屋の壁には木枠が打ち込まれていた跡があり、扉が設置されていたという。
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■素掘りのまま使用
壕内の暗さに目が徐々に慣れてくると、壁面に広がる鮮やかな地層に気付いた。さらによく見ると、無数のツルハシの跡が残されている。壕の建設時期は諸説あり、昭和10年代の初めとも19年以降とも言われているが、海軍の工作部隊が本土決戦に備えて急ごしらえで掘削し、素掘りのまま使用していた様子がうかがえる。
鈴木さんは「地下壕は平和を考える上でたいへん貴重な戦争遺跡。これからの若い世代にしっかりと伝えていきたい」と話した。
約1時間にわたる地下壕内の見学の後、地域の歴史学習会も開かれた。同団体の池田恵美子さん(54)が市内の戦争遺跡のほか、江戸時代の安永9(1780)年に清国貿易船が座礁して漁民が救助にあたった郷土の歴史などを紹介。池田さんはこうした南房総地域に残る戦争遺跡や史跡、記念碑などを生かし、「戦争遺跡や他文化との交流・共生の歴史を学ぶピースツーリズムを育てたい」と語った。
今年は戦後70年。赤山地下壕跡のような施設が必要とされる時代が二度と来ないことを願いながら、かつての軍都を後にした。
(大島悠亮)
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■赤山地下壕跡
千葉県館山市宮城。入壕受付は近接する施設「豊津ホール」(同市宮城192の2、TEL0470・24・1991)で行う。JR内房線館山駅からバスで約10分。開壕時間は午前9時半〜午後4時で、休壕日は毎月第3火曜日と年末年始。入壕料は一般200円、小中高生は100円。安房文化遺産フォーラムは個人や小グループ対象に毎月第1日曜日の午前に無料ガイドを実施。10人以上の団体は有料。詳細は同フォーラムTEL0470・22・8271。