◆千葉遺産33◆
◎かにた婦人の村 従軍慰安婦碑
…歴史の闇ひそやかに、声なき同僚 鎮魂の場
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急勾配の坂を登ると、館山の海とミニチュアのような街並みが眼下に広がる。小高い丘の上に位置する「かにた婦人の村」(天羽道子施設長)。施設内には入所者がパンづくりや陶器づくりに従事する作業棟や農園、教会が並び、それらを見下ろす丘の上に「噫(ああ)従軍慰安婦」と書かれた石碑(高さ約2メートル)が建っている。
かにた婦人の村は65年、東京都のプロテスタント系社会福祉法人「ベテスダ奉仕女母の家」が母体となり、故深津文雄牧師が設立した婦人保護長期収容施設だ。1956年の売春防止法成立を受け、障害のある女性を長期間生活する施設として建設された。
施設には深津牧師の墨書が今も残る。「かにたとは、そこを流れる小さな川の名前でした。(中略)そのほとりに捨てられた、いとも幸うすき女性百人の、共に住む村の名前となりました」。ノンフィクション作家・沢木耕太郎氏が72年に発表したルポルタージュ「棄(す)てられた女たちのユートピア」(新潮文庫「人の砂漠」所収)の舞台ともなった。
これまで全国各地の婦人保護施設から「長期収容が必要」と判断された延べ179人の女性が入所。38人は他施設などへ移り、59人はここで亡くなった。家族に引き取られたのはわずか2、3人だという。現在、20〜90代の女性82人と、職員約20人がともに暮らす。生活費は国、県からの補助金や寄付金で賄われている。
◇ ◇
深津先生
兵隊さんや民間の人のことは各地で祭られるけど、性の提供をさせられた娘たちは、さんざんもてあそばれて足手まといになったら、ほっぽり出され。
私は見たのです。この眼で、女の地獄を……。
慰安婦碑は、施設建設に深くかかわった従軍慰安婦経験者が深津牧師にあてて書いた手紙から生まれた。
城田すず子さん(仮名)。21年、東京都に生まれ、戦中は台湾や南洋諸島で慰安婦を経験した。55年に入所した東京都の更正施設の紹介で、深津牧師に出会う。
「社会に出ても帰る場所もない。自活する場所がほしい」と話す城田さんを前に、深津牧師は障害や病気を背負い身寄りのない女性が共同生活を送る「コロニー」の建設を決意。「かにた婦人の村」に結実した。
「毎晩夢を見る」。入所して20年がたつころ、城田さんが慰安婦経験の悪夢を見ると訴えた。「軍隊のいった所、いった所に慰安所があった。かつての同僚がマザマザと浮かぶのです。どうか慰霊塔を建てて下さい」
1年後、「鎮魂ノ碑」と墨書したヒノキの柱を建てた。それが話題となり、全国から寄せられた寄付金で翌85年、「噫従軍慰安婦」と刻まれた石碑が建てられた。
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天羽施設長(82)は戦後の混乱の中、「社会の悲惨、捨て置かれた人々に仕えたい」と同法人で働き始め、78年にかにた婦人の村に入った。そこで初めて慰安婦の存在を知り「ショックを受けた」という。
慰安婦問題は70年代から、旧日本軍の関与や強制性の有無を巡り、今なお論争になっている。天羽施設長は「他者の痛みを、痛みとして感じる心が大切。碑は同じことを繰り返さない、という決意の表明でもあるのです」。その鎮魂碑は、村の小高い丘の上から、私たちを見下ろし、歴史の闇に生きた女たちの慟哭(どうこく)を今に伝えている。【中川聡子】
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◇行こうョ!千葉遺産
かにた婦人の村(館山市大賀594、電話0470・22・2280)はJR館山駅からバスで「市営住宅前」下車、徒歩7分。毎年、終戦記念日の8月15日に鎮魂祭を行っている。同市のNPO法人「安房文化遺産フォーラム」(電話0470・22・8271)が団体向けに、慰安婦碑を含めた館山市の戦争遺跡に関する平和学習ツアーを実施している。