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(朝日新聞2007年08月18日付)

62年目の記憶⑤

足運ぶ想像力

・平和学習に活用

・肌で感じる傷跡

・身近な所に点在

(写真)

館山市の戦争遺跡のガイドを務めている愛沢伸雄さん(左)と池田恵美子さん=14日、館山市にある遺跡「掩体壕(えんたいごう)」で


今月14日、房総半島南端の館山市を訪ねた。

海上自衛隊館山基地近くの海岸には「関係者以外立ち入り禁止」と書かれたロープが張られていた。

「米軍は、この海岸から初めて本格的に本土に上陸したんです」

同行してくれたNPO法人「南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム」理事長、愛沢伸雄さん(55)がそう教えてくれた。

62年前の1945年9月3日午前9時20分。3千人を超える占領軍本隊の米陸軍第8軍第11軍団が、目の前のロープの先の海岸から上陸した。

朝日新聞は翌日の紙面で報じた。「連合軍米第八軍の一部カンニングハム代将下一個連隊約三千は三日午前九時二十分より館山に上陸を開始」

その前日の9月2日、東京湾上の米国の戦艦ミズーリ艦上で、重光葵外相(当時)が出席し、降伏文書調印式が行われたばかりだった。

東京湾の入り口に位置する館山。東京湾要塞(よう・さい)地帯の指定を受け、館山海軍航空隊など多くの軍事施設が置かれた。戦争末期には本土決戦に備えて特攻基地の配置が進んだ。軍の要塞と化したのだった。

戦後、たくさんの戦跡が残されたが、長い間放置されたままだった。

「戦跡を地域教材として活用できないか」。社会科の高校教諭だった愛沢さんは93年から調査研究を始め、04年にフォーラムを立ち上げた。

14日は、同フォーラムの事務局長を務める池田恵美子さん(46)も一緒に戦跡を案内してくれた。

海自館山基地の南側の標高約60メートルの小高い山の中に、総延長約2キロの旧館山海軍航空隊「赤山地下壕(ごう)」があった。

ひんやりとした中、天井の電灯を頼りに奥に進む。懐中電灯を壁に向けると至る所にツルハシで掘った跡が残る。

軍の一次資料がなく、当時を知る人の証言も少ないが「戦争末期に本土決戦に向けて掘削されたのではないか」と愛沢さんは推測する。

赤山から車でさらに3分ほど走ると、住宅地の中に突如、コンクリートの建造物が現れた。

「掩体壕(えん・たい・ごう)」と呼ばれる格納庫だ。戦争末期、空襲から戦闘機を守るために作られた。

愛沢さんによると、住民や兵士たちによって約10カ所作られたが、現存しているのはこの一カ所のみ。「私有地なので戦跡として保存するのが難しい」のだという。

海軍航空隊の射撃場跡、海軍砲術学校跡、砲台跡……。館山には約50の戦跡が確認されているという。

愛沢さんは「戦跡は当時をいきいきと語る。歴史的想像力を育む場として、平和学習にふさわしい教材だと思う」と語った。

6月22日。その館山を千葉女子高の1年生約300人が遠足に訪れた。約3時間かけて、赤山地下壕、掩体壕、米軍上陸地を訪ねた。

「千葉が第2の沖縄になるかもしれなかったとは思わなかった」「戦争がどんなものなのか、どんなことがあったのかを詳しく知りたいと思った」。そんな感想が返ってきたという。

行き先として、館山を提案したのは同高校の社会科教諭の楳沢(うめ・ざわ)和夫さん(50)。「千葉県歴史教育者協議会」のメンバーで、県内の戦跡調査に取り組んできた。

戦争の記憶は遠ざかり、戦争体験者は減っていく。体験を「聞く」のではなく、戦跡の現場に「足を運ぶ」。それが戦争を語り継ぐ有力な方法になるのでは。楳沢さんはそう考えている。

60年以上前のアジア・太平洋戦争の記憶は遠くなるばかりだ。土地開発などで破壊されたものも多いが、私たちの身近な所に目を向けると戦争の傷跡を伝える遺跡はあちこちにある。それを「過去の遺物」ととらえるのか、それとも「過去を伝える語り部」と見るのか。

問われているのは、私たち一人ひとりなのかもしれない。(有近隆史)

07年8月18日 5,064

映画「赤い鯨と白い蛇」を観て

上映委員会 橋本芳久

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民話と神話が交錯したような芸題の映画が、館山で撮影されていると知ったのは二〇〇五年であった。正直なところ、初めはその異様な題名にあまり期待をしていなかったのだが、観るたびに新しい気づきと感動がこみ上げてくる。

内房線特急ビューの車内に始まり、南欧風の館山駅西口から鏡ヶ浦、洲崎灯台など、つぎつぎと見慣れた風景がスクリーンいっぱいに広がる。館山の海、浜、山、樹々にそよぐ風、葉のささやき。散歩の道すがら、いつも目にする波左間の六地蔵。すべてが身近で、親しみ深い場面の連続。

そんな館山を舞台にして、年代も環境も違う五人の女性たちが過ごす三日間。それぞれ苦悩を乗り越えて明日に希望をつないで生きてゆく姿には、共通した教訓的なものを感じる。それを導いているのは香川京子扮する保江婆の生き様であろう。

「自分の心に素直な生き方を」「私を忘れないで欲しい」という言葉と大切な品物を保江に託し、敗戦の二日前、特殊潜航艇の青年少尉は命を落とした。彼との約束を守るため、認知症で薄れゆく記憶を懸命にたどりながら、館山の掩体壕や地下壕などの戦争遺跡を歩きまわり、遺品を探しあてる保江。そして、鏡ヶ浦の水平線に沈みゆく夕日に赤く染まった潜水艦と、白い軍服に身を包んだ青年の回想シーンが重なる。これは、亡くなった青年将校への、いや戦争で犠牲を強いられたすべての者への鎮魂の場面として深く心に残る。

香川京子の迫真の演技は、渋さの中に輝きを増して光っていた。戦後まもなく、沖縄の苦しみを描いた『ひめゆりの塔』で主人公を演じた少女が、歳を経て再びいまに生き帰った姿を見た思いである。絶妙な樹木希林、爽やかな浅田美代子などの演技も素晴らしく、真剣さが伝わってきて好感が持てる。

圧巻なのは、ラストに近いシーンである。今まで静かに描かれていたスクリーンが、一挙に激しい動に転じ、八幡神社の神輿祭りの場面となる。宮地真緒演ずる保江の孫娘が、生まれたばかりの赤子をしっかりと抱きしめ、若者達が力いっぱい担ぐ神輿を見つめている。赤子の胸には保江が恋人から貰った七つボタンの一つが光っていた。妊娠し、ボーイフレンドから「俺と結婚したいのなら子供を堕ろせ、産みたいのなら別れろ」と言われていた娘が、結婚できたのかどうかは描かれていない。しかし、明日を担う若者のたくましさ、未来への無限の希望を印象付けるような転換が素晴らしい。

かつて館山の地は軍都であり、人も自然も自由な呼吸すらできない時代があった。戦争が終わり、苦しみから解放された館山の地は、生き生きと輝くばかりの美しさと可能性をよみがえらせた。随所を飾っている館山の美しい自然を背景にして、いのちや平和の尊さ、その可能性と希望が描き出されている。それは自然ばかりではない。安房高女・安房南高校の卒業生であるせんぼん監督の母校の威風堂々とした木造校舎をはじめ、この地に生きてきた人びとの営みがもつエネルギーであるといえよう。

苦悩をかかえて現代を生きる人びとの心を癒し、生きる力を育んでくれる珠玉の作品である。館山市民、いや千葉県民の一人として、せんぼん監督はじめ関係者の皆様に、素晴らしい作品を有難う、と心から言いたい。十月十四日に開かれる南総文化ホールの上映会には、せんぼん監督も駆けつけて講演してくださるとのこと、本当に楽しみである。

一人でも多くの方がこの映画を見ることができるように、上映委員会ではチケットを預かって販売に協力してくださる方を募集しています。事務局(090-6479-3498)までご連絡をください。

07年8月7日 5,613

小山市の史跡見学

里見氏稲村城跡を保存する会メンバー

07年12月15日 6,816

「戦跡考古学」って、ご存じですか? 軍需工場、壕(ごう)、飛行場など、明治〜第2次世界大戦末期に築かれた「戦争遺跡」を対象とした考古学の一分野で、近年、調査や研究が盛んに行われています。こうした成果を踏まえ、「戦争遺跡を国指定史跡に」との動きも出てきました。


(写真:千葉県館山市に残る掩体壕跡)

壕内に照明はない。懐中電灯を借りて見学する=沖縄陸軍病院南風原壕群で

闇の中に、米軍の火炎放射器で焼かれたとみられる黒こげの坑木が浮かび上がる。天井には、朝鮮半島出身の兵士が刻んだと思われる「姜」の文字が……。沖縄県の南風原町(はえばるちょう)で行われている、「沖縄陸軍病院南風原壕群」の公開事業での一こまだ。

同壕は44年、沖縄守備軍だった旧日本軍第32軍の陸軍病院のために造られた。映画にもなった、いわゆる「ひめゆり学徒隊」が働いていたことで知られる。

同町が「戦争の悲惨さを伝える証し」として、この壕を町の文化財に指定したのは90年。94年からは内部などの発掘調査を実施。補強を行った後、今年6月から、30本あったとみられる壕のうち20号に限り一般公開に踏み切った。

公開1カ月で入場者は2000人超。「事前予約制で、1回(約20分)あたり10人しか壕に入れない」(同町教育委員会)ことを考えると、かなりの数字だ。「発掘によって、壕の構造などもわかってきた。調査前と比べ、戦争遺跡への関心も確実に高まっています」と、同町教委の上地克哉学芸員は話す。


◆沖縄から誕生

戦跡考古学という言葉が生まれたのは80年代のことだ。沖縄県立博物館の當眞(とうま)嗣一・元館長が研究誌で、「戦争遺跡や遺留品などの物質的資料に基づき、沖縄戦の実態に触れる必要」を説いたのが始まりだった。

だが、「新しい遺跡」のため、考古学者の間ではなかなか受け入れられない。「ヒマなんだねとか、そんなの考古学じゃないと言われたこともあった」とある研究者はいう。

転機となったのは95年だ。原爆ドーム(広島市)の世界文化遺産への登録に先立ち、この年、「史跡名勝天然記念物指定基準」が改正された。幕末〜明治初年までとされてきた史跡指定の対象が、第2次世界大戦終結までに広がったのだ。

十菱駿武・山梨学院大教授によれば、97年には全国で4件だった戦争関連の文化財は07年現在、121件に。発掘も100件を超すとみられる。

中でも、最近注目されているのが、山梨県の南アルプス市だ。市教委による05年度からの学術調査で、航空機を隠すための掩体(えんたい)壕や滑走路などが発掘された。

現場は、第2次世界大戦末期に建設された「御勅使河原(みだいがわら)飛行場(暗号名・ロタコ)」の跡地。掩体壕の基礎となるコンクリート部分の仕上がりなどが、壕によってばらばらだったことなどが明らかになっている。


◆文化庁が調査

一方、遺跡の保護を担当する文化庁では、03年から「近代遺跡(軍事に関する遺跡)地域別詳細調査」に着手している。

沖縄陸軍病院南風原壕群などの沖縄戦の関係遺跡をはじめ、松代大本営予定地地下壕(長野市)など、近代の軍事史を考えるうえで重要と思われる50遺跡について、文献や現地調査を実施。今年度中に報告書にまとめる予定だ。

関係者の間では、この50の戦争遺跡を「原爆ドームに続く国指定史跡に」と期待が高まる。


◆交流の場にも

しかし、予算上の制約から、今回の調査には指定の前提となる発掘や測量が含まれていないため、今後詳しく調べるかどうかは自治体次第。

さらに、戦争の記憶を好ましく思っていない土地・建物の所有者から協力が得られない例もあるといい、「まだ課題は多い」と同庁の山下信一郎・文化財調査官は話す。

しかし、戦跡の持つ、こうした負のイメージを踏まえたうえで、戦争遺跡を生涯学習資源、交流・観光資源として活用しようという市町村も出てきた。

東京湾防衛の要衝だった千葉県館山市では、「館山歴史公園都市」構想と題して、公開中の館山海軍航空隊赤山地下壕跡(全長1.6キロ)を核に、近くの宮城掩体壕跡、洲ノ崎海軍航空隊射撃場跡などを加えた散策コースの整備を目指す。ゆくゆくは市内に47ある戦争遺跡のうち、主要なものを線として結ぶ予定だ。

同市教委の杉江敬主査は「いわゆる負の遺産であっても、地域を語る歴史の一ページであることにかわりありません。住民の皆さんの理解を得たうえで、平和学習の拠点として保存・活用を進めていきたいと考えています」と話している。


*朝日サイトはこちら。

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