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(朝日新聞2007年08月16日付)

62年目の記憶③

3.従軍慰安婦

(写真)石碑に花を手向ける人と天羽道子施設長(右端)=15日、館山市大賀のかにた婦人の村で


きよらのおとめ

つれさられ

なげきのなみだ

あともなく

8月15日夕、館山市の婦人保護施設「かにた婦人の村」の小高い丘に女性たちの歌声が響いた。

戦時下で従軍慰安婦として尊厳を奪われた女性たちの鎮魂の集い。20年以上にわたって毎年、敗戦の日に営まれてきた。

集いのあった丘の頂に「噫(ああ) 従軍慰安婦」と刻まれた石碑が建つ。

碑を建てようと周囲の心を動かしたのは、慰安婦だった過去を公に告白した女性だった。

城田すず子さん(仮名)。

1921年に東京・深川で生まれ、10代で台湾・馬公に渡った。特要員と呼ばれる海軍の慰安婦となり、サイパン島、トラック島、パラオ島へと移ったという。65年の「婦人の村」の開所とともに入所し、93年3月に亡くなった。

「兵隊さんや民間の人のことは各地でまつられるけど、中国、東南アジア、南洋群島、アリューシャン列島で、性の提供をさせられた娘たちは、さんざん弄(もてあそ)ばれて足手まといになったら、ほっぽり出され。(中略)私は見たのです。この眼で、女の地獄を」

城田さんは「婦人の村」の施設長だった故深津文雄牧師に何通も手紙を書き、訴えた。

「城田さんの訴えをきっかけに、深津先生は慰安婦について調べました。そこで初めて日本人も外国人も慰安婦になっていたことを知ったのです。ショックでした」

現在、施設長を務める天羽道子さん(80)は振り返る。当時はまだ、慰安婦の問題は広く知られていなかった。

決して繰り返してはならない「事実の記録」として碑を建てよう。85年8月に木の碑ができ、1年後に石碑に変えられた。

除幕式には城田さんも車いすで参加した。天羽さんの目には、祈りをささげる城田さんの姿が焼き付いている。

深津牧師は00年に亡くなった。天羽さんはその遺志を引き継ぎ、今も週に一度の見学日には訪れた一般の人に石碑を案内することにしている。

「丘の上で話をしても、全く知らなかった、という人もいます。若い人に『なぜ従軍慰安婦がいたのか』『どうしてこんな碑があるのか』問い続けてほしい」と話す。

東京・早稲田の「女たちの戦争と平和資料館」(wam)で今、「中学生のための『慰安婦』展」が開かれている。

アジアの元慰安婦の女性たちの証言の中に、城田さんの話や手紙も展示されていた。軍関係の資料、慰安婦の記述をめぐり論争になっている教科書問題の説明もある。

事務局長の渡辺美奈さんは言う。

「歴史認識の違いや中学生に性がからむ問題をここまで教えるべきなのかという声もあるが、学生にも大人にもきちんとした事実を知ってもらいたかった」

wamは今年初めて、展示を見学に訪れた人に「婦人の村」の鎮魂祭への参加を呼びかけた。これをきっかけに、約20人が新たに参加し、入所者約40人と花をささげた。

wam運営委員長の池田恵理子さんは「8月15日はアジアを中心に世界7カ所で、慰安婦問題の解決を求める運動がある。勇気を出して声をあげた各国の被害女性と心を一つに、私たちも行動したい」と話した。

歴史認識やナショナリズムの問題が絡んで、とりわけ、慰安婦問題を語る時、内外で激しい議論を巻き起こす。

7月末、米下院本会議が慰安婦問題で日本政府に謝罪を求める決議を採択した。決議に弾みをつけたのは、旧軍が直接関与したという「狭義の強制性」を裏付けるものはないと主張した、安倍首相の3月の発言だった。

天羽さんは「慰安婦の体験を話す人たちは、思い出したくもないような事実を表現している。日本人はその声を本気で聞いていない」と思う。

館山湾を見下ろす丘の上の石碑が、過去と向き合うことの大切さを静かに語りかけているようだった。

07年8月16日 5,711

『赤い鯨と白い蛇』映画上映にあたり

上映委員会委員長 伊東万里子

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東京大空襲で母と弟たちを亡くした私が、父の故郷・館山で暮らすようになったのは、日本が戦争に勝つと信じてやまなかった昭和20年4月のことでした。東京の女学校から旧制安房高等女学校に転校し、安房第二高等学校(現在の安房南高校)を卒業するまでの6年間、私は館山ですごしました。戦禍に傷ついた私の心を温かく励ましてくれたのは、館山の自然と諸先生や多くの友人でした。あれから62年たった今もなお、母なる館山・安房の地は私の心の支えです。

そんな私の想いを代弁してくださるかのように、安房南高校の先輩であるせんぼんよしこさんが、館山を舞台に素晴らしい映画をお創りになりました。『赤い鯨と白い蛇』という不思議なタイトルで、賀川京子さん、樹木希林さん、浅田美代子さんたち女性ばかりが出演しています。せんぼんさんの体験を重ね、主人公(香川さん)が少女時代の疎開先館山を訪ねるという設定です。「赤い鯨」は館山沖で訓練していた特殊潜航艇を意味し、「白い蛇」は家の守り神を象徴しています。女性の眼から見た戦争と平和、現代人の抱える問題テーマに、語り継ぐことの大切さや生命の尊さ、そして美しい愛を描いた作品です。

せんぼんさんが78歳で映画監督デビューしたと伺い、私は封切り初日に岩波ホールへ足を運びました。世代の異なる5人の女性とラストシーンの赤ちゃんが織り成す物語は、まるで絵巻のように見えました。まさに、せんぼんさんが日本テレビのディレクター時代に手がけた看板番組「愛の劇場」シリーズの集大成とも言える作品だと思いました。すべての世代に通じるメッセージは、せんぼんさんでなければ描けない、しかも美しい館山だからこそ描けた作品です。せんぼんさんがふるさと館山に熱い想いを贈ってくださった宝ものに思えて、とても感動しました。シネマ夢倶楽部ベストシネマ賞、日本映画批評家大賞、藤本賞など多数を受賞し、モントリオール国際映画祭にも出品され、高い評価で世界に受け入れられていることは大変な偉業です。

私たちの女学生時代、戦争について本当のことは知らされていませんでした。安房で本土決戦が想定され軍備強化されていたことや、私たちが「ひめゆり部隊」に匹敵する役割を担わされていたかもしれなかったことなど、私も最近になって知りました。封印されてしまった過去の出来事をきちんと見つめなおし、次世代を担う子どもたちに何を手渡さなければならないか、それを問うのがこの映画の主題です。しかも、由緒ある安房南高校が創立100年を迎え、さらに統廃合によってその名が消えゆく最後の年に誕生した記念碑的作品です。「誠の徳を磨けよ」と建てられた母校です。そこで学んだ卒業生の手によって、このような素晴らしい映画が創られたことを、心から誇りに思います。

私やせんぼんさんに当時のことを教えてくれたのは、10数年にわたる戦争遺跡の調査をし、安房南高校をはじめとする高校教育と地域づくりに尽力されてきた愛沢伸雄さん(NPO法人南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム理事長)です。シナリオを作るうえでの情報提供から戦争遺跡のロケ地選定に至るまで、せんぼんさんに協力をした愛沢さんが、この映画を地元の人にぜひ見てほしいと願い、10月14日に上映会を企画してくださいました。

この映画は、すべての世代の人にぜひ見てほしい映画です。そして、受けた感動の中身をじっくりと考えてみませんか。それが、戦争を起こさない世界を子孫に贈るための大切な一歩であると信じます。

この思いに賛同された方は、上映委員会として力を貸して下さいますようお願いいたします。今月14日には、上映委員会向けの試写会を予定しています。参加をご希望の方は、事務局(池田恵美子090-6479-3498)までお問合わせください。皆さんのご協力を心よりお待ちしています。

07年7月11日 5,230

●里見氏の貴重な史料発見

「終焉の地」倉吉で学術調査

〜10代忠義の文書原本も

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戦国時代に館山を拠点に房総を支配した大名・里見氏の研究を行っている県内の大学教授らがこの程、鳥取県倉吉市などを訪れ、聞き取りや古文書確認などの現地調査を行った。今後成果を学術的な形で正式に発表したいという。

調査を行った「里見氏研究会」は、『房総里見一族』などの著書のある千葉経済大学の川名登名誉教授を代表に、佐藤博信千葉大学教授、千葉県史中世史部会専門員の滝川恒昭さん、法政大学非常勤講師の和気俊行さん、NPO法人理事長の愛沢伸雄さん。

倉吉は後期里見氏10代の忠義が、徳川幕府から改易され没した「里見氏終焉の地」。里見氏を縁として「南総里見まつり」などで市民同士の交流を深めている。

里見忠義に関する史料、史跡などの総合的研究が目的で、これまでにも会員の個別の調査は行っていたが、記録に残す形での本格的な調査は初めて。

忠義の墓のある倉吉市の大岳院、忠義が奉納した棟札のある北条八幡宮、里見屋敷跡などで遺品や文書などの調査、忠義の没した同市関金町で聞き取り調査などを行った。

このうち、大岳院では忠義から出された文書のなかで、今まで「写し」でしか知られていなかった文書の「原本」が発見され、滝川さんは「これは大変大きい成果といえる」という。

移封当初の里見忠義が、どういう立場であったかの再検討をせまる史料も見つかったという。

また調査活動期間中には、同市で特別講演「里見忠義終焉の地を訪ねて」も行われ、川名名誉教授が史実としての里見氏と「八犬伝」との違いなどを語った。

愛沢さんは「今回の学術調査を機に、館山市と倉吉市の歴史、文化を活かした市民交流をさらに深めていきたい」と話している。


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07年12月25日 9,128

大正ロマンの香りただよう

鈴木家住宅と小高熹郎記念館を訪ねる

(女優の酒井和歌子さん来館)

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07年5月14日 5,313

(朝日新聞2007年08月18日付)

62年目の記憶⑤

足運ぶ想像力

・平和学習に活用

・肌で感じる傷跡

・身近な所に点在

(写真)

館山市の戦争遺跡のガイドを務めている愛沢伸雄さん(左)と池田恵美子さん=14日、館山市にある遺跡「掩体壕(えんたいごう)」で


今月14日、房総半島南端の館山市を訪ねた。

海上自衛隊館山基地近くの海岸には「関係者以外立ち入り禁止」と書かれたロープが張られていた。

「米軍は、この海岸から初めて本格的に本土に上陸したんです」

同行してくれたNPO法人「南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム」理事長、愛沢伸雄さん(55)がそう教えてくれた。

62年前の1945年9月3日午前9時20分。3千人を超える占領軍本隊の米陸軍第8軍第11軍団が、目の前のロープの先の海岸から上陸した。

朝日新聞は翌日の紙面で報じた。「連合軍米第八軍の一部カンニングハム代将下一個連隊約三千は三日午前九時二十分より館山に上陸を開始」

その前日の9月2日、東京湾上の米国の戦艦ミズーリ艦上で、重光葵外相(当時)が出席し、降伏文書調印式が行われたばかりだった。

東京湾の入り口に位置する館山。東京湾要塞(よう・さい)地帯の指定を受け、館山海軍航空隊など多くの軍事施設が置かれた。戦争末期には本土決戦に備えて特攻基地の配置が進んだ。軍の要塞と化したのだった。

戦後、たくさんの戦跡が残されたが、長い間放置されたままだった。

「戦跡を地域教材として活用できないか」。社会科の高校教諭だった愛沢さんは93年から調査研究を始め、04年にフォーラムを立ち上げた。

14日は、同フォーラムの事務局長を務める池田恵美子さん(46)も一緒に戦跡を案内してくれた。

海自館山基地の南側の標高約60メートルの小高い山の中に、総延長約2キロの旧館山海軍航空隊「赤山地下壕(ごう)」があった。

ひんやりとした中、天井の電灯を頼りに奥に進む。懐中電灯を壁に向けると至る所にツルハシで掘った跡が残る。

軍の一次資料がなく、当時を知る人の証言も少ないが「戦争末期に本土決戦に向けて掘削されたのではないか」と愛沢さんは推測する。

赤山から車でさらに3分ほど走ると、住宅地の中に突如、コンクリートの建造物が現れた。

「掩体壕(えん・たい・ごう)」と呼ばれる格納庫だ。戦争末期、空襲から戦闘機を守るために作られた。

愛沢さんによると、住民や兵士たちによって約10カ所作られたが、現存しているのはこの一カ所のみ。「私有地なので戦跡として保存するのが難しい」のだという。

海軍航空隊の射撃場跡、海軍砲術学校跡、砲台跡……。館山には約50の戦跡が確認されているという。

愛沢さんは「戦跡は当時をいきいきと語る。歴史的想像力を育む場として、平和学習にふさわしい教材だと思う」と語った。

6月22日。その館山を千葉女子高の1年生約300人が遠足に訪れた。約3時間かけて、赤山地下壕、掩体壕、米軍上陸地を訪ねた。

「千葉が第2の沖縄になるかもしれなかったとは思わなかった」「戦争がどんなものなのか、どんなことがあったのかを詳しく知りたいと思った」。そんな感想が返ってきたという。

行き先として、館山を提案したのは同高校の社会科教諭の楳沢(うめ・ざわ)和夫さん(50)。「千葉県歴史教育者協議会」のメンバーで、県内の戦跡調査に取り組んできた。

戦争の記憶は遠ざかり、戦争体験者は減っていく。体験を「聞く」のではなく、戦跡の現場に「足を運ぶ」。それが戦争を語り継ぐ有力な方法になるのでは。楳沢さんはそう考えている。

60年以上前のアジア・太平洋戦争の記憶は遠くなるばかりだ。土地開発などで破壊されたものも多いが、私たちの身近な所に目を向けると戦争の傷跡を伝える遺跡はあちこちにある。それを「過去の遺物」ととらえるのか、それとも「過去を伝える語り部」と見るのか。

問われているのは、私たち一人ひとりなのかもしれない。(有近隆史)

07年8月18日 5,050

●〝おふくろの味〟まとめました

〜41品のレシピ集発刊

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(房日2007.9.8付)

07年9月8日 6,747

空き店舗利用し、まちかどミニ博物館

館山の商店街6か所にオープン

ウォーキング参加者に無料でおにぎりを提供

安房水産高生

07年2月7日 5,358

戦国大名里見氏最後の城主であった10代忠義が、安房の国から伯耆へ国替えとなった縁で、館山市と鳥取県倉吉市の交流が続いているが、その倉吉の地で育った桜が「里見桜」として安房へ里帰りすることになった。里見氏を偲んで館山市で開催される南総里見まつり前日の20日には、城山公園山頂に関係者が集い、植樹祭が行われる。

改易された忠義が最初に住んだ倉吉の神坂町は打吹山の麓にあり、打吹山は郷土が生んだ横綱「琴桜」の名にも由来する桜の名所。蟄居同然の忠義が、打吹山の桜を眺めながら、遠い故国館山に思いを馳せていたであろうことは容易に想像がつく。

そこで、大山や蒜山山麓から流れくる水と、忠義が土となった伯耆の国の大地で桜を育て、忠義400年の思いを「里見桜」として形を変え、故国館山へ里帰りさせよう、と地元の有志が里見桜実行委員会を組織。企画・検討を重ね、NPO法人たてやま・海辺のまちづくり塾の辰野方哉代表へ桜進呈の打診があり、里見まつりウィークに合わせて植樹祭が実現することになった。

山頂で午後4時から行われる植樹祭には、里見氏誕生の地で、辰野氏らとも交流を深めている群馬県旧榛名町からも関係者が来館。倉吉市の同実行委メンバーと館山市からは市長や教育長、観光協会長ら関係者が顔をそろえ、忠義を供養しながら植樹する。

07年10月19日 6,609

小山市の史跡見学

里見氏稲村城跡を保存する会メンバー

07年12月15日 6,803

館山・地域まるごと博物館

〜ゆたかな歴史文化が息づくまちづくり

07年8月20日 5,193

特定非営利活動法人(NPO) 安房文化遺産フォーラム

旧称:南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム(2008年5月に現在の名称に変更)

〒294-0045 千葉県館山市北条1721-1

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