戦禍を刻む 69年円の夏に① 第2部場所ものがたり
闇が語る軍都の歴史〜日本の戦後ここにはじまる・赤山地下壕跡など
(千葉日報2014.8.15付)
若者や家族ずれを中心に多くの海水浴客があふれ、花火大会開催の時には露店が所狭しと並ぶ。県内有数の行楽地、館山の夏の姿。その華やかさとは対照的に、東京湾の入り口に位置するここはかつて「東京湾要塞」として首都防衛の一画を担い、さまざまな軍事施設が置かれた。
実践航空部隊として全国5番目に開放された館山海軍航空隊、陸上の実地訓練教育を行う館山海軍砲術学校、航空兵器整備要員を養成する洲ノ埼海軍航空隊が次々誕生。市内には現在、これらに関連する47カ所の戦争遺跡が確認され、今日の平和を見守るように静かにその歴史を伝えている。
戦跡唯一の市指定史跡「赤山地下壕跡」がその代表だ。うっそうと生い茂る木々に隠れるようにして、にぎわう市営プールの横にひっそりと入り口があった。
足を踏み入れると、真夏とは思えないほどひんやりとした空気が肌をなでる。69年前から時が止まっているような妖しさ。狭い通路を抜けながら進むと、高さ約4メートルもある巨大な部屋がいくつもあり、壁にはツルハシで削った跡が鮮明に残る。
全長1.6キロと全国的にも大規模な防空壕がいつ、何の目的で作られたかは、はっきりしない。内部には発電所跡があり、館山航空隊の事務や医療施設などとして使われていたことが、数少ない資料や証言から判明しているのみだ。
南房総周辺の地域づくり活動をするNPO「安房文化遺産フォーラム」の愛沢伸雄代表(62)は、極秘の航空機開発や実験など機密性の高い部隊が置かれていた可能性を指摘。終戦を知らされず、8月16日以降も数日にわたって待機する人がいたという証言もあるという。
ある男性が戦後40年間近く住み付き、温度が一定に保てることからキノコを栽培。愛沢代表は「この人は戦時中、何をしていたと思う?ヒントはキノコだよ」。男性は化学戦の研究で有名な731部隊にいたのだとか。残念ながら男性はすでに亡くなり、直接話を聞くことはできなかった。
赤山地下壕跡は2004年から一般公開され、今年3月末までの10年間で約15万人が訪れた。市生涯学習課は「平和学習の拠点としてだけでなく、観光資源としても定着してきた」。
空爆から戦闘機を守るための掩体壕(えんたいごう)、洲ノ埼航空隊の「戦闘指揮所」とされる地下壕跡や、機銃調整で使用された射撃場跡に今も突き刺さったままの戦闘機の弾。市内の至る所に生々しく残る“歴史の証人”たちを見て、海上自衛隊館山航空基地の正門近くにある海岸を最後に訪れた。
日本が降伏文書に調印した翌日の1945年9月3日、米軍が本土初上陸した海岸。館山は本土で唯一、4日間の直接軍政が敷かれた。「ここから日本の戦後が始まった」と愛沢代表。私有地に残る戦跡の保存方法など課題もあり「館山と戦争は切っても切れない。当時を知る方々が少なくなる中、戦跡を通して歴史を受け継いでいかなければいけない」と結んだ。
(社会部・鈴木陽次)