(日本経済新聞2010.3.14付)
「海の幸」会のこと
入江観
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山国育ちの私は、今、四十年を超えて海辺の街で暮らしていることを幸せに思っている。
朝寝坊の私は同行しないが、妻は早朝の海岸歩きを習慣にしている。時折、地曳網に出合うことがあり、鯵や時には平目などを分けてもらってくることがある。「魚が減った」という漁師の嘆きも聞こえてはくるが、そんな時、海の恵みと直につながっているという実感はある。
今日の話は、そのことではない。青木繁の描いた「海の幸」についてである。
この作品は、近代日本の洋画としては最も早い時期に国の重要文化財に指定され、美術の教科書にも載っており、現在は作者の郷里でもある久留米市の石橋美術館にあるが、長年にわたって東京・京橋のブリヂストン美術館に陳列されていたので多くの日本人の眼に触れ、記憶に残っているはずである。
十人の全裸の男たちが、銛に貫かれた、人の背を超える大きな三尾の鮫を、担いで波打ち際を歩いていく。若者の群像は、各々が持つ銛が作り出す横V字の形で鎖のようにつながれている。同時に右から左へ向かって隊列の進行を促してもいる。空も、海も、砂地も荒々しいタッチで、その部分だけ見れば完成にはほど遠い。塗り残しの部分も多い。しかし、青木繁の作品の多くにはそれこそが彼の魅力といえる「仕上げ」という辻褄合わせがない。
当時、地方の高校生であった私は、開館して間もないブリヂストン美術館の一室で、この絵の前に立って戦くような感動を覚えたことを忘れない。そのような言葉の用意もなかったが、絵というものが、始原的な生命の発露であることを、つまり絵の力を初めて教えられたのかもしれない。
「海の幸」が描かれたのは明治三十七年(一九〇四年)。東京美術学校を卒業した二十二歳の青木が、その夏、森田恒友、坂本繁二郎、恋人であった福田たね等を伴って、房州・布良の海岸に滞在した折のことであり、青木繁一行の滞在した小谷家は代々網元であって、今も当代の小谷栄夫妻によって大切に住み継がれている家屋の一室であった。
もう十年以上前から、女子美術大学の吉武研司さんは、毎年、学生を引率して布良海岸に写生旅行を続けているうちに、その小谷家をしばしば訪れるようになったと言う。訪問を重ねる度に、彼は、青木繁の残香を探し求めるようになり、浜の古老から小谷家の仙台のおばあさんが子供のころ、障子に穴をあけて部屋を覗くと、青木繁が、裸の福田たねを描いているのが見えて驚いたというような話を聞きだしたりもしている。
彼は「海の幸」が生まれたその部屋を残せないかという強い思いを抱くようになったという。そういう思いを温めているときに、青木繁と故郷を同じくする久留米出身の元編集者でもあった画家、吉岡友次郎さんと出会い、「海の幸」への思いを共有し、九州や栃木など青木ゆかりの地の紀行を重ねつつ、その部屋を残すことを真剣に考え始めたということである。
二人だけではいかんとも難しく、多くの人に協力を求めたところで、私にも話があった。
もともと、こうした文化遺産を残すということの意味を充分理解しても、それはやりだしたらキリのない話であり、消えるものは消えるにまかせるのが自然の理ではなないかという考えが一方にはあることも承知している。同時に、こうした事業はつまるところ資金集めということであり、そういうことに自分に適正があるのかと自問もしてみた。
二人の男の無料の熱意にほだされたということもあるが、私にNOと言わせなかったのは、若き日に「海の幸」を前にして受けた感動、その一点につきると言うほかなかった。
二人が、小谷家の当主の御理解を得て動き始めたのは当然のことであり、館山市の教育委員会にも相談に出向き、強い関心を示してくれたが、ご多分にもれず予算は無いとのことで、すでに地元にある保存会との連係を探りながら、自分たちが率先して動き出すべきだと活動を開始する。
画家はもとより、評論家、美術館関係者に発起人としての参加を促し、昨年六月、地元関係者を招いて、上野の東京文化会館で設立総会を開催した。
この会の事業目的として「海の幸」が描かれた小谷家の復元、保存を行い、これを広く一般に公開し、同時に南房総地域の環境保存に貢献すること、また、これに関連する調査研究と情報交換などを行うことを確認した。
総会の議を経て、事務局所在地の神奈川県に申請していたNPO法人(特定非営利法人)の認可も、この一月に下りた。
理事長には、北里研究所名誉理事長、女子美術大学理事長でもある大村智先生にお願いしたが、大村先生は依頼と同時に、即座に布良の小谷家を訪問し、実見した上で承諾してくれた行動の人手ある。理事長には錚々たる顔ぶれが揃ったが、その一人であった平山郁夫先生が急逝されてしまったことは残念の極みであった。
NPO法人の認可を受けて、二月末に総会、理事会を経て、いよいよ活動が開始されることになった。
現下の社会、経済状況の下での募金活動が容易ではないことは想像がつくことである。しかし、こういう状況だからこそ、日本の文化が試されているのではないだろうか。
日本全体に広く呼びかけながら、ひとり、ひとりの感動の拠を守ろうという人が、どれだけ居るかが問われているのだと思う。
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○いりえ かん
洋画家、女子美術大学名誉教授。1935年栃木県生まれ。東京芸大卒。62年フランスに留学。帰国後、春陽会会員に。71年に昭和会優秀賞、96年に宮本三郎記念賞。