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特攻艇「震洋」館山沖に残骸

元搭乗員が確認「間違いない」

(読売新聞千葉版2017.8.22付)‥⇒印刷用PDF

太平洋戦争中に造られた旧海軍の特攻艇「震洋」のものとみられるスクリューやエンジンが館山沖で見つかっていたことがわかった。戦後、震洋を館山沖で処分したという関係者の証言とも一致し、地元の専門家は「貴重な発見だ」と話す。震洋の建造に、南房総地域の船大工が動員されていたことも証言から明らかになった。(笹川実)

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館山市には、わかっているだけで波左間(はざま)漁港と洲崎(すのさき)・栄(えい)の浦漁港付近の2か所に震洋の基地が作られた。基地といっても、浜に船を出す「滑り」と呼ばれるコンクリート台と、船や燃料などを隠す壕(ごう)があっただけ。旧海軍の資料では、壕は奥行15〜25メートルの素掘りのトンネル計18本で、計58隻を配備する予定だったが、実際に配備されたのは10隻前後だったという。

震洋の一部とみられる残骸を発見したのは、波左間漁港でダイビングサービス店「波左間海中公園」を営む荒川寛幸さん(79)。約半年前、同漁港から北西へ約1キロ、水深約32メートルの海底に、エンジンやスクリューなどが沈んでいるのを見つけた。館山には旧海軍の基地があったことから、荒川さんは戦争の遺物である可能性が高いと考え、知り合いのメディア関係者に相談したという。

メディア関係者が改めて現場を撮影し、今月、かつて波左間にいた元震洋搭乗員高部博さん(88)(東京都立川市柴崎町)に見せたところ、残骸は震洋の部品とみられることが分かった。高部さんは読売新聞の取材に、「エンジンの形や、大きなスクリューなどから震洋に間違いない。終戦で指示があり、自分たちで何隻も波左間沖で船底を破って沈めた。その1隻でしょう」と話す。

防衛省防衛研究所によると、震洋は豪州に1隻が現存し、国内には知覧特攻平和会館(鹿児島県)に一部実物を使った復元船がある。「見つかった残骸が震洋の部品だとすれば、戦争直後なら分かるが、最近では珍しい発見と言える」としている。


▽元船大工「地元で造った」

旧海軍の資料などから震洋は東京や横須賀で造られたとみられてきたが、館山市高井の元船大工、保田(やすだ)善治郎さん(89)は「地元の造船所でも震洋を造っていた」と証言する。

保田さんは旧千倉町白間津(しらまづ)出身で、15歳の時に地元の造船所の親方に弟子入りした。「1944年に造り始め、6月までに6隻の震洋を造った。検査を通ると軍のトラックが運び去った」という。勤務先には年配の船大工7〜8人と、見習い4人がおり、見習いの保田さんは船大工の作業を手伝った。当時、特攻艇を造っているという認識はなかったが、親方から船名を「震洋」と聞かされたことを記憶しているという。

戦跡に詳しい安房文化遺産フォーラムの愛沢伸雄代表(65)は「残骸の発見とともに、後世に伝えるべき貴重な証言だ。漁船づくりで培われてきた南房総の高い造船技術が戦争に動員されたことを示している」と話す。

旧海軍の資料や高部さんの証言によると、館山の震洋基地は、終戦の8月15日を過ぎても出撃態勢を維持し、隊の解散で実際に「終戦」になったのは72年前のきょう22日だった。


【震洋】

旧日本海軍が開発した特攻用のモーターボート。1人乗りは全長約5メートル、重量約1トン。250キロの爆薬を積み、敵の船舶に体当たり攻撃する。基地は全国各地に作られ。約6200隻が建造されたが、ほとんどが体当たり前に撃沈されるか、出撃前に終戦を迎えた。


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8月22日07時18分 1,035

特定非営利活動法人(NPO) 安房文化遺産フォーラム

旧称:南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム(2008年5月に現在の名称に変更)

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