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館山の空を飛んだ落下傘兵から山頭火を描く画家へ…

秋山巌さん(松戸市在住)

聞き手=池田恵美子

死の恐怖と生の喜び

館山の訓練で教わる


昭和16年、海軍で落下傘部隊に選抜されて館山で訓練を受けた。高度300mで航空機から飛び出し、パラシュートを広げて館空に着地する。飛び出した瞬間は目の前が真っ暗になる。尻込みしても、容赦なく空中にたたき落とされる。

落下傘が開かないで、地上に激突し死んだ者もいた。風が強いと空中で流され海に落ちる。すぐ救助隊が出るが、これも間に合わないで死んでいく。次は自分の番かもしれない。だが訓練を拒否することはできない。一度飛ぶと10円もらえた。今の10万円ぐらいの価値があった。だが金を残す気はなかったですね。

台湾の基地を経由して、開戦後の17年初めにティモール島のクパン(現インドネシア)に上陸。最初の2日間の戦闘で、部隊500人のうち30数名が負傷した。その後はミレ島(マーシャル諸島)の警備などをして、同年暮れにいったん日本に戻った。自転車より遅いのではという貨物船に乗った。米軍の潜水艦攻撃が怖くて、夜は板きれと水筒を持って甲板で寝た。

18年に館山砲術学校で各種兵器の取り扱い訓練を受け、部隊を再編成。サイパンへ向かう前に、アッツ島へ応援だと言われた。2万人の米兵の中に突っ込めという作戦だった。これは中止になったが、アッツ島の日本兵は見殺しになった。

サイパンでは、ガダルカナルに向かい敵を襲撃する200名の部隊に選抜された。「たった200人で何ができる」と疑問に思ったが、反抗できるわけもない。泣く泣くサイパンを発ったが、数ヶ月後にはサイパンに米軍が上陸した。私は結局ラバウルにいて他の部隊の応援などをし、そこで終戦を迎えた。運がよかったとしかいいようがない。

終戦時は対空砲の担当。それまで毎日グラマン(戦闘機)などが来襲していたのに、8月14日は来なかった。おかしいなと思っていたら、15日に敵機が低空飛行して「日本は降伏した」とビラをまいた。暗号兵の友人からそれらしき話も聞いていたし驚きはなかった。ホッとして、やれやれという気持ちだった。

私は大分県竹田生まれの百姓の子。近くの寺の和尚が墨絵を描いていて、8歳のころから手ほどきを受けていた。

戦後、坂本繁二郎さんがやっていた太平洋美術学校に入り、毎日デッサンをしていた。坂本さんは寡黙な先生で「この線はいかん」とか注意はするが叱りはしない。ほどなく先生は郷里の福岡に帰られてしまい、新しく来た先生が気に入らなくて学校は辞めた。

棟方志功との出会いは、日本橋に絵の具を買いに行き、白木屋(デパート)で展覧会を見たこと。躍動感と墨の色にひかれ、次の日も見に行った。それで門下生となり、版画の世界に入った。

彼の有名な言葉だが、棟方さんには「お前の絵には化け物がない。化け物を出せ」と何度も言われた。後日、大原美術館でその言葉の由来を聞いた。昭和初期、柳宗悦が初めて棟方の版画を見た時、京都の河井寛次郎に「化け物を見た。すぐ来い」と電報を打ったのだという。

柳宗悦さんが棟方に「井戸は2本掘らなければダメだ」と話したという。絵一本でなく、想像力をつけるために文学や詩を読めと。私は遠野物語を絵にしようと東北に通ったり、一茶や西東三鬼の俳句に興味を持ち、そんな中で種田山頭火に出会った。

「生死(しょうじ)の中の雪降りしきる」という山頭火の句を彫っていた時、仲のよかった和尚の薦めで永平寺本山が募集したポスター原画に応募。これが特選に選ばれた。それまでは、なかなか芽が出なかったのだが。

その後、知らない間に私の作品が、大英博物館に所蔵・展示されていると聞かされた。フクロウをモチーフにした作品を米国の美術館に出したら、評判になったり。忘れたころにボストンの大きな画廊から突然の注文の依頼がきて、縁の下から版木を引っ張り出したこともある。

戦争の善し悪しは論じないが、私は館山で6か月間訓練を受け、そこで死の恐怖と生の喜び、人に対する思いやりを徹底的に教わった。縁がある館山で今後、私が文化面で出来ることがあれば手助けしたい。

(本稿は1月23日に南総文化ホールで行われたトークショーの内容を要約・再編成したものです)

(房日新聞2010.1.26付)

10年1月26日 6,097

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