少年の目で見た戦争 毎年「終戦記念日のつどい」企画
館山の山口栄彦さん 史実の掘り起こしも
太平洋戦争末期の硫黄島出撃について、海軍の人事は厳正であったと述べている本があるが、事実と違うのでは?——。少年のころ、身近にあった海軍砲術学校で見聞きした出陣学徒関係の実態から、市民の目線で真相を知りたいという男性がいる。自身は旧制中学3年生で終戦を迎え、出征したわけではないが、自分で見聞きした事実を伝えなければならないとして、ここ数年は8月15日に小さな「つどい」の場を設けている。市井の少年の目で、あの戦争を振り返る日々だ。(忍足利彦)
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「軍都・館山の歴史が、複雑な気持ちにさせる。
それでも一市民として平和を祈る」
館山市の山口栄彦さん(89)。富崎村(当時)布良に生まれた。銀行員だった父の次男で、安房中へ通った。当時の館山エリアは館山砲術学校、館山航空隊、洲ノ埼航空隊などが置かれ、軍都として発展した。
神戸村に置かれた砲術学校には、学徒出陣した学生らが大勢住み、子どものころから身近な存在だった。
村の有力者から「えいひこ」と呼ばれていた山口さんは、その有力者の使いで、砲術学校に出入りしたこともあった。そうした環境で見聞きしたのは、硫黄島へ出陣する船に乗った水兵がたった1人だけ、直前の下船命令を受けて、玉砕の島へ行かずに済んだこと。地元有力者と海軍上層部とのつながりがほのかに見え、戦後も史実の掘り起こしなどに注力した。
最近読んだ館山砲術学校兵科4期の男性の著書で、「硫黄島赴任で、海軍の人事は厳正であった」と書かれていたことから、下船命令の事実が脳をよぎった。本当に厳正だったのか、と。きょう15日午後1時半から、富崎地区公民館で開く「終戦記念日のつどい」で、「生き残った水兵」のタイトルで語り合うという(会費200円)。
15歳で迎えた終戦。自身は戦後、進駐軍に勤務した。苦学して大学を卒業し、身に付けた英語で中学校の英語教員になった。東京や神奈川の勤務が長く、故郷・富崎のことは長く、心の中にあった。
定年後は故郷に戻り、砲術学校を中心とした海軍の歴史を掘り起こした。戦争に行っていない自分が、海軍のことを調べていいのかという葛藤もあったが、子どものころからそばにあった砲術学校を語らずにはいられなかった。
昭和20年7月の白浜への艦砲射撃で、布良の自宅がぐらぐら揺れたことは忘れられない。もし、ポツダム宣言受諾がもっと遅くなったら、房総半島にも米軍が上陸し、自分の命もなかったと思う。
それでも山口さんは「反戦の思い」を強く掲げられずにいる。兵役の経験がない上に、砲術学校の訓練を毎日、目の前で見てきた。少年とはいえ、日常生活で戦争を肯定していた傾向がある。しかし、何年か戦争が長引けば、自身も出征していた。身近にある軍都・館山の歴史が、自身を複雑な気持ちにさせている。
それでも、きょう15日の終戦の日は、市民の立場で平和に思いをはせ、哀悼をささげたいという。
【写真説明】砲術学校兵科4期の男性の著書を読む山口さん=館山の自宅で