館山のNPO、ヘリテージまちづくり講座
古文書の保存活用学ぶ
館山市のNPO法人安房文化遺産フォーラム(愛沢伸雄理事長)と、青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会(嶋田博信会長)による「ヘリテージまちづくり講座」が開かれている。ヘリテージとは文化遺産のことで、文化庁の「地域の文化遺産を活かした地域活性化事業」の助成を受け、全5回で開催。先ごろ、同市富崎公民館で第2回目が行われ、市民ら34人が参加した。
近年、青木繁が滞在した布良の小谷家住宅や南条の小原家住宅から、明治期以降の資料が大量に発見され、近代水産業の発展に重要な関わりがあったことが分かってきた。これらの古文書をどう扱い、整理して調査していくかを学ぶため、地域史料保全有志の会代表を務める中央学院大学准教授の白水智氏を講師に迎え、「漁村資料の保存管理と活用」と題した講座を開いた。
白水氏は、長野県栄村で10年以上にわたり、山村の歴史文化を紐解く古文書の研究に携わってきた。同村は、東日本大震災の翌日の2011年3月12日に付近を震源とする震度6強の地震に見舞われ、甚大な被害を受けた。震災の一月半後に現地入りした白水氏らは、次々と解体され、廃棄物として処理される古民家や土蔵を目の当たりにし、文化財の損失に危惧を覚え、すぐに地域史料保全有志の会を発足し、そこに眠っていた文化財の救出活動を開始した。
置き場所の確保などの問題を一つ一つ乗り越え、活動報告会などを通して、子どもから高齢者まであらゆる世代の村民に「文化財を守ること」の理解を促した。今では、自治体の協力を得て、小学校の旧校舎を村の文化財保管庫にすることが認められ、将来的に村の歴史と文化の拠点施設にする流れを形成した。
白水氏は、「古文書や古い資料は家族写真と同じ。風景や人々の技術、生活の知恵や人間関係のかたちを残す地域のアルバム。その大切さに気づいたときに、文化がその地域らしさとして次の世代に受け継がれていく。震災後、生活基盤が復旧するだけでは、人は生きていかれない。文化が復興して初めて地域の復興につながると実感した」と、文化財保存の重要性を力説した。
講義後には、古文書に接する際の注意点などを解説。実際に明治期の文書類を仕分けし目録を作る実習を行った。参加者はその重みをかみしめた様子で、「この話を多くの人に伝え、押し入れの古い資料を捨てないように広めていきたい」と話していた。
【写真説明】文化財保全の重要性を力説する白水氏(中央)=富崎公民館
ウガンダ支援と子ども絵画展
活動と交流のあゆみ展
.
アフリカ内陸の赤道直下にある国ウガンダ。「アフリカの真珠」といわれる美しい国だが、経済破綻や内戦の影響で今なお貧困が続いており、旧安房南高校で始まった安房地域の支援活動が、20年来にわたって引き継がれている。そのウガンダ支援の歩みと現地から送られてきた子どもたちの絵画展が、館山市の館山病院ギャラリーで開かれている。13日まで。
「安房・平和のための美術展」をとおして7年前から支援を続けるNPO法人安房文化遺産フォーラム(愛沢伸雄代表)が主催。ウガンダの子どもたちが描いた絵画10点と、安房南高から安房高JRC、さらに市民グループへと広がっている支援活動の経過資料などが展示されている。
平和授業の中で、ウガンダではエイズと孤児がまん延し、教育を求めていることを生徒たちが知った旧安房南高で1994年、バザーや募金が生徒会活動としてスタートした。現地のNGOを窓口にして地道な支援活動を毎年続けた結果、2001年には「AWA—MINAMI(安房南)洋裁学校」がつくられた。活動は、高校の統廃合を経て安房高JRCに引き継がれ、さらに市民グループへと地域での活動の輪も広がっている。
安房南高時代に始まった活動から、間もなく節目の20年を迎えるにあたり、これまでを振り返り、今後の交流や支援のあり方を見つめ直そう、と同NPOが展示会を企画した。会場には、内戦がまだ激しかったころに現地の子どもが鉛筆で描いた絵や、やや落ち着いてきた最近の明るい作品など10点を展示。南高でのバザー風景など各種の資料や写真とともに支援活動の歩みをふり返っている。
【写真説明】ウガンダ支援の歩みと絵画作品が展示されている=館山病院
海の幸は青春の輝き
ふるさと講座 吉武教授語る 館山
(房日新聞2013年7月25日付)
館山市中央公民館の「第2回ふるさと講座-『海の幸』の輝き」が20日、同市コミュニティセンターで開催された。女子美術大学の吉武研司教授が、青木繁の生涯や作品の魅力について語った。
同市布良で青木繁(1882〜1911)が描いた代表作「海の幸」(重要文化財)を中心に、美術史や海の幸以外の青木繁が描いた作品、西洋絵画などを紹介しながら画家の視点から青木の芸術性について話した。
吉武教授は、女子美の宿泊研修で、10年以上前から同市布良を訪れ、学生らに、海の幸を描くきっかけとなった漁村風景や小谷家などを見学させて来た。現在は、青木が宿泊した小谷家の修復と保存の活動団体として、NPO青木繁「海の幸」会理事も務めている。
吉武氏は、青木と同じ九州の生まれで、幼いころから身近に感じてきたことなどを語り、「青木の海の幸には日本人の文化があり、日本人のにおいのする作品だと感じている」と日本人の誇りが感じられる作品と説明。
海の幸を制作した時期は、青木が青春を迎えていた若者で、しかも西洋の油絵を歴史からしっかりと学び、恋人の福田たねと出会い、そのたねと友人を連れて小谷家で過ごした時期であっあとし、「日本の近代化という世界へ向けていく時代背景と青木の青春時代が交差するところで作品『海の幸』が生まれ美しい輝きが出たようだ。この1点だけ残すことで絵描きとしては幸せだった」と語りかけた。