里見氏城跡を国史跡指定
館山稲村、南房総岡本、県内27件に
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国の文化審議会(西原鈴子会長)は18日、館山市稲の稲村城跡と、南房総市富浦町の岡本城跡をセットで「里見氏城跡」として国史跡に指定するよう中川正春文部科学大臣に答申した。いずれも房総里見氏が戦国時代に築いた居城跡で、当時の地形を良好に残し、房総半島における中世山城の変遷や、当時の地域社会、政治情勢を知る上で重要と評価された。城跡は現在、ほとんどが山林で個人所有。今後、地元市が公有化を進め、保存・活用方法、整備方針などを検討する。県内の国指定史跡は27件となる。
房総里見氏は戦国時代から江戸時代初頭にかけて10代、約170年にわたって房総半島南部を拠点とした戦国大名。初代の里見義実(よしざね)が15世紀後半に白浜城(現在の南房総市)を構えて以降、南房地域で数回にわたって本城を移している。
稲村城は現在の館山市内陸部の丘陵に築城され、3代義通(よしみち)が16世紀前半に居城とした。県教委文化財課によると、城跡は東西、南北ともに約500メートルにおよび、面積約1万8千平方メートル。中心部「主郭」の東、南側には高さ約3メートルの土塁跡が計約100メートル残る。敵からの侵攻を防ぐため丘陵斜面を削った切岸(きりぎし)、尾根を切断した切通しの跡もある。
岡本城は、現在の南房総市の東京湾を望む丘陵に16世紀後半、8代義頼(よしより)が築いた。指定史跡は東西600メートル、南北300メートルで、面積は約7万6千平方メートル「主郭」周辺には2段にわたって計約700メートルの切岸跡が見つかっている。主郭北西側の「三の郭」は、汐入川を通じて海につながり、船が発着する港の機能を備えていたとされる。
同課は「稲村城、岡本城ともに、当時の房総地域では突出して大きな規模で里見氏の勢力の大きさを示している」としている。
地元観光資源と期待
史跡の本格整備目指す
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戦国武将の里見氏の居城だった稲村城(館山市稲)と岡本城(南房総市富浦町豊岡)=市指定史跡=の城跡が一躍、国の史跡指定を受けることになった。国指定にふさわしい史跡整備に向けた取り組みが始まる。
山城の稲村城は国府が置かれた府中を見下ろし、麓に交通路(現国道128号)が東西に延びる。白浜城から北へ勢力を伸ばした里見氏の、安房支配の戦略がうかがえる。4代義豊の1534(天文3)年、天文の内乱で傍流の義堯が勝利し居城が移った。前期里見氏から後期里見氏へ、転換点の舞台が稲村城だ。
国指定に、15年間にわたり保存運動を続けるNPO安房文化遺産フォーラム代表の愛沢伸雄さん(60)は「里見の歴史を見直し、地域の歴史文化を地域みんなで大切にするきっかけになれば」と期待を寄せる。
稲村城跡は1983年の県教委の調査で成果が少なかったことや、土地所有者が複雑で史跡指定を果たせなかったという。一方で91年、後背地に県の工業団地計画が浮上。市は稲村城跡を通る進入路を計画した。愛沢さんらは96年に保存会を結成し、保護を訴えて最終的に1万超の署名を集め、市議会で請願が採択。市道路計画は変更となり、市も史跡保護にかじを切った。
国指定となったが、土地買収の同意はまだ65%。年に数回下草が刈られるだけで本格整備は当分先の話だが、愛沢さんは「長い取り組みを続けたい。市も文化遺産を生かすまちづくりをしてほしい」と単体でなく、安房・上総地域に20ヵ所以上点在する“里見城址群”の史跡化を目指す。
岡本城跡は富浦湾に面し、里見水軍の拠点だった。戦国末期、8代義頼が、上総を基盤とした弟の梅王丸の内乱を治めるなど、ここでも里見の歴史で重要局面を迎えた。
里見の城跡と知られ、74年に富浦町指定(現南房総市指定)となり、頂上部に碑が建つ「里見公園」として親しまれる。国指定に石井裕市長は「地域の重要な文化財として保存管理し、観光資源として地域振興を図りながら、後世に継承したい」と歓迎した。山のほとんどがビワ園。今後整備計画を立てていく。
「海の幸」絵画に感動 館山
富崎小児童 東京の「青木繁展」を鑑賞
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館山市の市立富崎小学校(川名裕子校長・児童数10人)の子どもたちがこのほど。東京ブリヂストン美術館で開かれた「没後100年・青木繁展」を鑑賞した。地元ゆかりの画家にある青木繁の代表作「海の幸」などを鑑賞した。
日本でも有数の画家として知られる青木繁。富崎には縁が深く、同地区の民家に滞在しながら、布良の漁師を描いたといわれる「海の幸」は代表作となっており、記念碑も建っている。
同行では青木繁について、安房節伝承、アジの開きづくりとともに「3つの『あ』」をキャッチフレーズに、地元のよさ、伝統を活用した総合的な時間「やってんべぇ富崎」のなかで、地域と交流しながら学習。
没後100年にあたる今年は「青木繁プロジェクト」と名付け、学習支援サポーターや地域住民らの協力のもと、フィールドワークで足跡をたどったり作品を通しながら、郷土のよさを学んでいる。
美術館での作品鑑賞はこの一環。児童の活動を知った県内在住者が「子どもたちのために」と、チケットを贈ってくれたことで実現した。
会場では、「海の幸」をはじめ油彩や水彩など約200点の作品を鑑賞。同校玄関には平成17年度の在校生が制作した「海の幸」のレプリカが飾られているが、子どもたちは「本物をみることができてとっても嬉しい」「いろんな絵を描いていたんだね」と、感激していた。
川名校長は「多くの人の協力で、非常によい学習が出来た。これかたも子どもたちのサポートをしていただければ」と感謝していた。
(房日新聞2011.9.14付)
保険推進員が研修会
身近な歴史や文化学ぶ
(房日2011.1.14付)
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館山市保健推進協議会はこのほど、市民の健康づくりに関する身近な相談相手となる保険推進員を対象に、地域再発見をテーマにした研修会を、同市コミュニティセンターで開いた。
「館山の自然・歴史・文化について知り、より地域に溶け込んだ活動につなげる」ことが狙い。
第9期推進員145人が参加。NPO法人安房文化遺産フォーラムの池田恵美子さんによる「まだまだある!おらがまち再発見」と題した講演に耳を傾けた。
「東京から遠い静かな土地と思っていたが、戦争の軍事拠点だったり、転地療養の地であったりと、歴史ある土地だったのですね」「まさに館山の再発見をした気分。知人に話したり、案内したりの楽しみが増えました」と推進員たち。
事務局の市健康課では「保険推進員の任期は3年で、来年4月からは第10期へとバトンタッチされる。今後も推進員が楽しく活動できるような内容で研修会を企画していきたい」と話している。
看護師修学資金貸付制度〜館山市
館山市は、看護師養成学校に進む学生を支援する「看護師等修学資金貸付制度」の利用を呼びかけている・
4月1日からスタートした新しい制度。これまでに問い合わせが15件ほどあり、2人が申し込みをした。担当の健康課では「制度を積極的に利用してもらい、地域の看護師確保を図りたい」としている。
安房地域の看護師不足解消が目的で、専門学校や大学など看護師養成機関への修学を側面支援。看護師を地域の手で育成しようという。安房の3市が足並みをそろえて制度化している。
館山市では月額3万円(1万円、2万円、3万円から選択)が上限で、貸付の決定を受けた月から修学終了までが期間。卒業後、市内の病院などで貸付を受けた期間以上継続して看護職に従事した場合は、返還を全額免除。市以外の安房郡市内の医療機関の場合は、半額が免除となる。
制度を受けるには条件があり、詳しくは館山市健康課(0470-23-3113)へ。
(房日新聞2011.5.3付)
身近な歴史に興味津々〜市民ら商店街を歩いて巡る
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NPO安房文化遺産フォーラムは15日、館山市北条の銀座商店街を巡るウォーキング「歩いてみよう館山の街を」を開いた。市民ら17人が参加。書店や和洋菓子店、呉服店、旅館、元禄地震の津波から人を救った言い伝えの残る「サイカチの木」などを訪れた。
サイカチの木は、館山市図書館近くにあり、元禄地震の津波のとき、この木につかまって助かった人がいると伝えられている。サイカチの木の保護、保全を図ることを目的に「サイカチの木を守る会」が設立され、今回、この活動に賛同した同フォーラムがまちおこしの一助になればとウォーキングを計画した。ウォーキングでは、館山市図書館からスタートし、文具店の「松田屋」や和洋菓子店の「房洋堂」、陶磁器店の「秋山陶苑」など12ヶ所を訪ねた。
同フォーラムの小沢義宣さんがツアーガイドとなり、街並みを歩きながら各店舗に立ち寄り、店主が店の歴史などを説明したり、参加者は売られている商品を購入していた。同商店街は、鉄道の開通とともに南町交差点付近の商店、駅前に移転するなどし商店街となった。松田屋も移転した店の1つで、店主の松井悦子さんが、店内に飾られた関東大震災後に、廃材利用で建設された店の写真を紹介。このころは、楽器や書籍、文房具、スポーツ用品など1階で扱っていました」などと話した。参加者からは、「立派な店構えで驚きます。廃材とは全く思えないですね」といった声が聞かれた。
サイカチの木では、同会の森林インストラクターで樹木医の齊藤陽子さんが、「枝を落とした方が、木の勢いが良くなります」など管理や保存について説明したり、語り部の礒部清子さんがサイカチの木にまつわる創作語りを披露した。70代の女性は、「小学生のころ、通学路でいつも見ていた木が、そんな大切なものだとは知らず遊んでいました。なつかしい」と話した。
5月10日午前9時50分から、同様のウォーキングが予定されており、参加者を募っている。問合せは、NPO安房文化遺産フォーラム(0470-22-8271)へ。
青木繁《海の幸》への想い
館山美術会 顧問 船田正廣
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信州上田生まれの私は、人生の半分以上を安房の地で美術の教鞭をとってきた。私にとって大学の大先輩である青木繁が、東京美術学校(現東京芸術大学)を卒業した明治37年夏、布良という海岸で名画《海の幸》を描いたということは知っていたが、その漁村こそ私の住んでいる館山市内だということは随分長い間気づかなかった。近代西洋画として第一号の重要文化財となった《海の幸》は、私のみならず多くの美術家に影響を与えてきたといっても過言ではない。
素っ裸で隊列を組んで、大きなサメを担いで砂浜を行進するということは、実際に布良の漁師がしていたとは考えにくい。美術学校で、人体美学や美術解剖学を学んだばかりの青年青木繁が、布良の男らしい漁師と荒々しく担ぎゆかれる大魚を見て、人間の労働における身体美、裸で平等に躍動する人体の憧憬に感動したのではないだろうか。この衝撃的な体験と、学校での机上の学問を融合していったとも思われる。男たちの歩く先には大きな夢が満ちているし、目指す先は永遠にあるという確信に満ちた大ロマンを感ずる。
還暦を迎えて県立高校を退職し私立安房西高校の非常勤講師となったとき、私はあらためて《海の幸》とじっくり向き合う時間をもつことができた。私は彫刻家として、彼とはちがうが、彼と同等の衝撃的体験を共有することは出来ないだろうか…と。
そして感じたことは、青木繁は彫刻家以上に彫刻的な絵を描ける画家であるという結論だった。それなら、この絵から必ず彫刻が生まれると確信出来た。なるべく絵画《海の幸》に近い形で、原画と同寸大で彼の感動に迫ってみようと思い、粘土によるレリーフ(浮き彫り)に取りかかった。
1年、2年は制作に行き詰った。その度に、彼の描いた骨組みや筋肉表現に行きつけず頭が下がった。自分の才能も、もういくら頑張ってもこれ以上のものは出て来ないと感じた。3年目に入ったある日、彫塑のヘラを置いた。完成作品の撮影をし、写真の右下に写し込まれた2004.7.31の日付を見たとき、私は身震いがした。青木繁が布良に滞在し《海の幸》を描いた1904年夏から、ちょうど百年目の夏だったのである。私の『刻画・海の幸』はこうして誕生した。その後、この感動に共感してくださった安房西高校の理事長によりブロンズ鋳造され、同校に展示していただいている。
先ごろ布良崎神社神輿世話人である島田吉廣氏は、《海の幸》の構図は神輿の御浜下りから着想したものではないかと自説を披露された。小谷家に隣接している布良崎神社の祭礼は、当時8月1日に行なわれていたという。だったら、7月中旬から布良に滞在していた青木が、漁師たちの神輿が海に入り、また海から上がってくる様子に衝撃を受けたと考えてもおかしくない。さらに10日後には相浜で、安房神社神輿の御浜下りと続く。神話世界を具現化したいと願っていた青木繁にとって、恰好の素材であったに違いない。
8月27日に南総文化ホールで開かれる「青木繁《海の幸》フォーラム」が楽しみである。多くの館山市民、安房の市民にご来場いただき、一緒にこの感動を共有したいと願っている。