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●第一次世界大戦と地域の動き●

20世紀初頭のヨーロッパでは、イギリス・ロシア・フランスによる三国協商と、ドイツ・オーストリア・イタリアによる三国同盟との対立が激化し、バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」といわれた。そして、対立の焦点になったのがサラエボでおこったオーストリア皇太子殺害事件であった。この出来事をきっかけにして、大正3年(1914)7月、第一次世界大戦がはじまった。

この大戦はヨーロッパの外にあった日本にとって、大戦景気をもたらし、経済不況と財政危機を一挙に吹きとばした。ヨーロッパ列強が後退していったアジア市場では、綿織物などの輸出が増えて、また戦争景気にあったアメリカ市場には、生糸などの輸出が激増したことで貿易は大幅な輸出超過となった。この結果、11億円の債務を抱えていた日本は、大正9年(1920)に何と27億円以上の債権をもつ国となったのである。

とりわけ世界的な船舶不足のために、海運業や造船業は空前の好況となり日本は世界第3位の海運国になった。鉄鋼業でも八幡製鉄所の拡張や満鉄の鞍山製鉄所の設立のほか、民間会社の設立が相次ぎ、薬品・染料・肥料などの分野でもドイツからの輸入が途絶えたことで、化学工業が勃興していった。

また、大戦前から発達しはじめていた電力業では、大規模な水力発電事業が展開され、猪苗代・東京間の長距離送電も成功し、電灯の農村部への普及や工業原動力の蒸気力から電力への転換が進んだ。電気機械の国産化も進み、その結果、重化学工業は工業生産額のうち30㌫の比重を占めるようになった。工業の躍進によって、工業生産額は農業生産額を追い越し、工業労働者数は100万人 を超えていった。

ところで、安房地域と関係が深い企業が昭和電工であり、その創立に関わったのが房総出身の森矗昶であった。明治初期まで主に肥料として使われていたカジメやアラメの海藻類は、明治20年代に入ると海藻灰にされヨード製造の工業原料になった。その生産量は年々増加し日露戦争中には需要が急増したので、明治41年(1908)に森矗昶の父為吉らは、房総にあった粗製ヨード製造業者を合同して総房水産を設立し、館山にも工場をもった。

第一次世界大戦中には、敵国ドイツから医薬品の輸入が止まり、ヨードや塩化カリなど国内で生産することが求められ、カジメ生産量は最高になった。昭和元年(1926)、森矗昶は日本沃度を設立して、ヨード製造やヨードを主とする医薬品や、カジメ・アラメの海藻灰からの塩化カリを原料とする硝石を製造して、陸軍造兵廠へ納入したといわれる。その後、水力発電所建設に乗り出していった森は、電力を利用する国産技術によって硫安生産に成功し昭和肥料を設立し、昭和9年(1934)には、独自の技術を使って日本最初のアルミニュウム会社である日本電気工業を設立した。そして、昭和13年(1938)の国家総動員法の制定をきっかけに、昭和肥料と日本電気工業を合併して総合化学工業会社である昭和電工を創立したのであった。なかでも火薬の原料などの塩化カリ生産を担っていたのが昭和電工館山工場であった。後の太平洋戦争では、工場を稼働するうえで原料の海藻灰が大量に必要とされ、県当局は軍需物資増産のため安房の漁民たちは所属する漁業組合を通じて、海藻の供給が命じられたのであった。


●対外防衛策と東京湾要塞の建設●

第一次世界大戦中、フランスがベルダン要塞を拠点にして、ドイツ軍と攻防戦を繰り広げた戦いがあった。ドイツ軍は西部戦線における膠着状態を打開しようとして、四回にわたってベルダン要塞を攻撃し、仏独両軍の戦死者が70万を超える最大の攻防戦となった。ドイツ軍は多大の弾薬を使用しても堅固な要塞をおとせなかったことが、その後の戦局で戦闘力を著しく低下させ、ドイツ敗戦の導火線となったともいわれる。大戦後、フランスは陸相マジノの発議により、独仏国境を中心に対ドイツ防衛線としての要塞線を建設してマジノ線と呼んだ。これに対してドイツでは、昭和13年(1938)にヒトラーが国境地帯軍事強化のための緊急工事を命じ、1年あまりの突貫工事に約53万人を動員して完成したのがジークフリート線である。この要塞線はマジノ線を攻撃する前進拠点になっていった。

これらの要塞とは、敵軍の侵入を防ぐため要害の地に築いた砦のことで、敵の攻撃に対し一定の地域において軍事手段を強化することを要塞化といい、防御のための砲台などの施設が戦術的に配備された。近代の国境要塞は敵侵入を阻むだけでなく、侵略を容易にする目的でも建設された。また海岸(沿岸)要塞は海峡や湾口部に設けられ、敵艦艇の行動を制限したり侵入を阻止するととともに軍事的な拠点となった。洋上の戦略的拠点には島嶼要塞がおかれた。

第一次大戦を境に、武器は高性能で強力なものに改良され、航空機をはじめとする戦車や化学兵器、潜水艦などの出現によって、交戦範囲が広がり、戦闘様式が多様化したので、要塞の戦略的戦術的意味は大きく変わっていった。

日本では、明治期に主要海峡や港湾の防衛のための大規模な海岸要塞建設が開始され、東京湾岸にある観音崎と富津での砲台構築は、そのスタートとなった。要塞は日清戦争後では海防充実の一環として、日露戦争前後には対外侵略の戦略として積極的に位置付けられた。なかでも明治13年(1880)に起工され昭和7年(1932)に完成したのが、永久要塞としての東京湾要塞であった。この要塞は、まず富津岬と観音崎との間に3つの海堡を置き、三浦半島側では横須賀軍港地区をはじめ走水や観音崎、久里浜、三崎に、また房総半島の内房では富津をはじめ、金谷や大房岬、館山の洲崎などに、東京湾口部海域全体を射程にした多数の砲台が配備された。

要塞建設では、コンクリート工法や国産の火砲製造が重要であった。明治8年(1875)、官営工場でセメント製造がはじまり、その後民営の小野田セメントや浅野セメントが設立されたことで、東京湾要塞建設に初めてコンクリートが使用され、明治23年(1890)には、鉄筋コンクリート技術を外国から導入している。日清戦争の勃発により全国規模で要塞建設がすすみ、日露戦争ではウラジオストック艦隊が津軽海峡を通過し、東京湾外に現れたことで、帝都防衛の前線として位置づけられていた東京湾要塞は一段と重要視されることとなった。

その間、明治34年(1901)には、官営の八幡製鉄1号炉の火入れがあり、従来輸入に頼っていた火砲の国産化がはじまった。明治28年(1895)に要塞司令部条例によって、永久防御工事を施し守備している地域は要塞とされ、その周辺一帯も要塞地帯と呼ばれることとなった。明治32年(1899)、軍事機密保持と防御営造物の保安のために、要塞地帯法と軍機保護法が公布され、指定された区域での水陸の形状を測量、撮影、模写することや、地表の高低の土木工事、築造物の増改築ことは、要塞司令部の許可が必要となった。後に法律が厳しくなっていくと、防御営造物から250間(約455㍍)以内の要塞地帯第一区では、一般人の出入りが禁止され、地帯内の憲兵隊や特高警察によって、防諜上住民が厳しく監視された。また、要塞地帯の地図は一般には公表されず、重要地点を空白にしている。陸軍省海軍省告示という形で要塞地帯法は三度改正され、対米英戦準備の状況のもとでは、その区域は拡張されていった。

ところで、要塞地帯周辺地域の人びとの様子を見ると、軍人たちを顕彰する社会教育・学校教育の動きがある。那古寺境内には「忠魂福原光太郎君之碑」がある。明治43年(1910)に呉鎮守府所属第一潜水艇隊第六潜水艇乗員であった福原三等機関兵曹(二五歳)が、山口県新湊沖で潜航実習中に不慮の事故死にあったことを悼んだ石碑である。この話は、事故に際して乗員の姿が「勇気・沈着」の徳目の見本として、戦前の修身教科書の教材内容としても登場している。また、住民が要塞地帯法によって直接制約を受ける前から、地域に入り込んでくる外部の人びとや内房の人びとの動きを公安警備の面から神経を尖らせていた。このことは他の地域でも共通する動きで、大正2年(1913)に東京湾口部にある北条警察署は、これまでの管轄区の館山町・北条町・那古町のほかに勝山や保田など2町3ヵ村を編入し、内房地域全体の監視体制に関わっていった。


●鉄道開通の時代●

明治5年(1872)に新橋と横浜間に日本で最初の鉄道が開通した。しかし、明治初期に千葉県の交通を担ったのは蒸気船をはじめとする水運であり、政府と千葉県はその保護を方針としたため、帝都圏であっても千葉県は、22年後にやっと市川と佐倉間に最初の鉄道が開通したのである。

鉄道業では、明治14年(1881)に日本鉄道会社が設立され、政府の保護を受けて成功したことから、商人や地主らによる会社設立ブームがおこった。その結果、官営の東海道線(東京と神戸間)が全通した明治22年(1889)には、営業キロ数で民営鉄道が官営を上まわり、翌々年には日本鉄道会社が上野と青森間を全通させたのを皮切りに、山陽鉄道や九州鉄道などの民営鉄道が幹線の建設を進めていった。

明治27年(1894)、千葉県で最初の鉄道会社として総武鉄道が設立され、この年に本所から市川を経由して佐倉までの約50キロが開通した。日清戦争後に青森と下関間が開通して以来、軍事的な戦略から全国鉄道網の統一的管理をめざこととなり、日露戦争直後の明治39年(1906)に鉄道国有法を公布し、主要幹線の民営鉄道17社が買収され、鉄道は国有化されたのであった。

房総半島の南端に位置し、北は鋸山から清澄山を結んでいった房総の丘陵が安房地域は地形的な障壁となったため、鉄道の開通が遅れたが、軍事戦略的には東京湾要塞地帯に関わっていた地域であったので、特別な配慮がなされていった。明治40年(1907)、総武・房総両鉄道を国有化するとしたことで、翌年には浜野村から安房郡までの町村長55名が連名によって、後藤新平逓信大臣に蘇我町から館山町までの鉄道敷設を請願している。

明治43年(1910)には鉄道敷設法が一部改正されて、翌々年に房総線の蘇我から木更津間が開通した。ただ、安房政友会の庄司雅二郎などが木更津から北条町まで、早期の鉄道敷設着工を要望して奔走したものの、すぐには実現しなかった。そこで早川儀之助らとともに、安房鉄道促成会を発足させて、住民サイドからも地域あげての敷設運動を展開していった。鉄道トンネル掘削事業では、重要な役割を担ったとされる鋸山トンネルが大正6年(1917)に完成し、翌年に念願であった那古船形駅の開業にこぎ着けたのであった。大正8年(1919)7月には、国鉄北条線が北條町まで開通して安房北条駅が誕生したのであった。6年後に、安房鴨川まで延びて、1929(昭和4)年には房総半島を一周する房総環状線(現内房線・外房線)全線が開通したのである。当時、安房北條と両国間の鉄道所要時間は、急行列車で3時間、普通列車では3時間57分であった。

なお、国鉄北条線が敷設されるなかで、富浦駅と安房北条駅とのほぼ中間地点に新駅の設置を予定していたので、那古町では現在の館山第一中学校グランド周辺を候補地にしていたと思われる。しかし、汽船会社の経営が不利になるとか、転地療養者の乗降が多くなるので環境が悪くなるとかの反対があったと伝えられているが、すでに敷設費寄付の10万円募金は完了していた。船形町では、鰹や鰯の水揚げで賑わう船形港の水産物輸送を海運から鉄道にという要望実現のため、正木清一郎船形町長が誘致のために尽力していた。かつて明治42年(1909)の東京市養育院安房分院設置に際しては、用地などで渋沢栄一を支援したこともあり、今度は財界の大物である渋沢の力で鉄道院に働きかけて、船形町に新駅設置を決定させたのではないかと推察されるのである。ただ、双方の町当局や関係者は、二町の名を冠した駅名で決着させて那古町への配慮をしたのではないだろうか。結局、幻の駅にはさまざまな噂が生まれたが、寄付金10万円は当時、那古寺観音堂修理資金が十分でなかったこともあり、その一部が資金に充当されて修理された。そのことによって、那古寺観音堂は1年後に勃発した関東大震災での倒壊を免れたのであった。


●米騒動の時代と安房の人びと●

第一次大戦による急激な経済の発展は、工業労働者の増加と人口の都市集中を通じて米の消費量を増大させたが、農業生産の停滞もあって、物価とりわけ米価が上昇し、都市民衆や貧しい農民たちの生活は困窮していった。

房総半島を南下する鉄道敷設がおこなわれていた頃、シベリア出兵をあてこんだ米の投機的買占めが横行して米価が急騰した。そのなかで富山県の漁村において、女性たちが直接的な行動に立ち上がったことをきっかけに、都市の人びとなどが米の安売りを求めて、また買占め反対を叫びながら米穀商や地主、精米会社を襲って警官隊と衝突した。この米騒動と呼ばれている動きは、大正7年(1918)7月から9月にかけて全国に広がり、東京や大阪をはじめ全国38市153町177村の住民たち約70万人が参加したといわれ、まもなく政府は軍隊を出動させて、鎮圧させたのであった。

安房地域で米騒動の動きはどうであったのか。この年の8月、新聞の見出しには「米価騰貴の影響 外米又は麦を使用す」と書かれ、千葉県内では「米価は日一日と高騰するばかりだ…町民の生活状態も漸次困窮を告げ外米或は麦等を使用するもの激増」(「東京日日新聞」8月11日付)と、人びとの暮らしが極めて苦しくなっていることを伝えている。県知事は談話を出して「百四十万の県民が二ヶ月間消費しても尚他に供給する丈けの余裕がある」とか、余裕ある米を「県外に輸出し又県内の在米不足地方に送荷して米を一般に潤沢ならしむべきかに就て、十三日各部主席郡書記を県庁に召集し…各郡の統一を図ったがその内容は語ることが出来ない」などと語っている。さらに続けて「況んや本年は目下の処豊作である、…県下に未だ米の暴動が起こらぬのは幸いである、…米の生産力が極めて少ない安房郡は定めし在米僅少であらうと思つたが案外大いのに驚いた、それは郡民が生産米の不足を自覚して金で蓄めず現物を以て備荒貯蓄をしたう為めである」と述べ、今年は豊作だから心配いらないと、極めて楽観した見通しを述べ、肝心の米価暴騰の対策では、具体的な施策を示さなかった。

翌日の報道によると、警察部高等課は最近の県内情勢を「漁村の生活は平時に於て常に困難にして敢て怪しむに足らず、職工は就職口多く却つて労力不足の為め…暴動の如き不穏の形勢なし、…安房郡民は多少の雑穀を有せるが尚藁細工、ビール包、木材運搬白土採取等をなし敢て困難ならず、内湾漁民は近来不漁にて甚だ困難に陥り、窮余外米に南瓜を混ぜて食せり」と報告している。日常的に厳しい生活状況であった漁民のなかでも安房郡では「近来不漁にて甚だ困難に陥り、窮余外米に南瓜を混ぜて食せり」といっているので、安房では不漁が続いているので、場合によっては暴動がおこる可能性をと示唆していた。

同じく15日付の東京日日新聞によると、県当局は県内の在米調査をした結果から、外米の供給を米価暴騰を押さえる具体策のひとつにし、県当局の指導のもと、各郡の資産家が在庫米放出や寄付金の協力に努め、廉価な米を供給し窮民救済を図ることを指示した。

しかし、安房郡の漁民たちは騒動をおこした。まず勝山町勝山派出所の記録によると「八月十八日午後八時半頃、勝山町内宿の漁師の女房連約五〇名、突如として同所米穀商某方を訪れ、米穀を東京方面に移出せざらんことを要求せり。此の集合に接するや、勝山町派出所の警部補は馳せて現場に至り、彼等を鎮めて家に帰らしむると同時に・・・・人心安定策として、郡衙に交渉し、外国米十袋を同区民に送り分配せしめ、且同町白米商をして、白米廉売を実行せしめたるを以て、間もなく人心鎮定して事なきを得たり」と記載されている。そして、20日付の東京日日新聞では、湊村内浦の騒動を取り上げ「安房の米 暴動鎮る 前掛で覆面した 女房連を検挙す」という見出しとともに、「既記安房郡湊村内浦に於ける米暴動事件に就き所轄鴨川分署より警官数名出張数名の暴徒を取押へたるが、群衆中には漁夫の嚊連が前掛けにて面部を包み暴れ廻りたる者多く尚検挙を続けつつあるが、善後策の為急遽村民大会を開き、同日より内地米一升三十銭にて廉売する事となりたる結果、人心稍緩和されたる模様なり」と漁民の女房たちが暴徒となったと報じている。

米騒動という民衆騒動の力を目のあたりにした政治家たちは、結局は政党内閣を認めて、衆議院の第一党であった立憲政友会総裁原敬が首相に指名されたのであった。新首相は、従来の慣行に反して華族でも藩閥出身者でもなく、平民籍の衆議院議員だったので、「平民宰相」とよばれて国民各層から歓迎された。しかし、国民の期待に反して、原内閣は普通選挙制の導入には冷淡で、選挙権の納税資格を引き下げ、小選挙区制を導入するにとどまった。

そのなかで普通選挙を要求する普選運動はしだいに高まり、大正9年(1920)には、数万人の大示威行動がおこなわれ、憲政会などの野党は、衆議院に男子普通選挙法案を提出した。だが、政府は時期尚早として拒否し衆議院を解散したものの、総選挙では与党立憲政友会は、大戦景気を背景に鉄道の拡充や高等学校の増設などを公約に圧勝した。しかし、立憲政友会の政策も経済恐慌によって財政的には行き詰まをみせ、汚職事件を続発させたこともあり、翌年、原首相は政党政治の腐敗に憤激した一青年によって刺殺された。

当時、全国的には大豆粕肥料や化学肥料の使用や足踏み脱殻機の普及などの農業改良がおこなわれ、作付け面積や反あたり収穫量が増大していた。全国的な米騒動も終息して、大正9年(1920)には、全国の1反(約10㌃)あたりの平均収穫量が約2石(約300㎏)に達し、米の生産量は約6千万石となっていた。だが、相変わらず米価の高騰や投機によっ利益を得た地主たちは、土地の買い占めなどをおこなったので、この頃小作地の割合は、耕地の半数近くにのぼっていた。そのようななかで小作料の軽減や耕作権の確保を求めて小作争議が激増し、大正11年(1922)には全国的な農民組織である日本農民組合が結成された。

また、さまざまな社会運動から身分や財産などによる差別のない普通選挙権の要求がなされていった。この運動では、大正8〜9年(1919〜20)には、世界的なデモクラシーを背景にして友愛会の労働者や学生を中心に大衆運動が盛り上がっていた。同時に女性たちも権利意識に目覚め、大正期に女性解放の婦人運動がはじまった。明治44年(1911)、平塚雷鳥らが青鞜社を結成し、機関誌『青鞜』を発行して女性解放を唱えた。大正9年(1920)には平塚雷鳥や奥むめお、市川房枝、矢部初子らが新婦人協会を組織して、女性参政権獲得運動をすすめていった。

●関東大震災と安房地域●

大正12年(1923)9月1日午前11時58分、相模湾北西部を震源としてマグニチュード7.9の大地震が発生し、中央気象台の地震計の針はすべて吹きとばされた。この関東大震災によって、東京市と横浜市の大部分が廃墟となり、その被害は千葉県はじめ関東一円と山梨・静岡両県に及んだ。安房地域のなかでも館山湾岸沿いの館山・北条・那古は、地震により全壊したり、火災で焼失した家屋が全体の97.8㌫にのぼり関東大震災の被災地ではもっとも大きな被害を受けた地域であった。

東京でもとくに悲惨であったのは、両国の陸軍被服?跡の空地に避難した罹災者約4万人が猛火によって焼死したのをはじめ、死者と行方不明者は、14万人以上であった。全壊・流失・全焼家屋は57万戸にのぼった。この大地震と火災の大混乱のなかで、「朝鮮人が暴動をおこした、放火した」との流言飛語のもと、政府は戒厳令を布告して、軍隊や警察を動員したほか住民たちには自警団をつくらせ、関東全域で「朝鮮人狩り」がおこなわれたといわれる。恐怖心にかられた住民や一部の官憲によって、数千人の朝鮮人と約200人の中国人が殺害された。亀戸署管内では軍隊によって10人の労働運動指導者が殺され、また憲兵によって大杉栄が殺され、社会主義運動は大打撃をこうむったのである。

大正15年(1926)6月には、千葉県安房郡教育会から『千葉県安房郡誌』が発行されている。緒言には、大正天皇即位の記念事業として郡誌の編纂が計画され、大正8年(1919)に出版と決めていたが、財政問題や郡制の廃止、そして関東大震災に遭遇したことで出版は延び延びとなって、大変な苦労のなかで完成したと記されている。その意味でも関東大震災後の復興期に発行された『千葉県安房郡誌』が果たした意義は大きく、なかでも巻末に記載されている「震災誌」は、貴重な記録といえる。

09年3月26日 17,939

特定非営利活動法人(NPO) 安房文化遺産フォーラム

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