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●経済恐慌のもと航空戦略の最前線「館山海軍航空隊」開隊●

世界大恐慌を契機に、各国とも軍縮による財政負担の軽減を求める国際軍縮会議開催の声が広がった。昭和5年(1930)、ロンドンにおいて補助艦制限のための海軍軍縮会議が開かれ、そこで再び日本は補助艦保有量の制限を受けたので、海軍内部では絶対反対の声が上がった。しかし、国際的な見地からみて建艦競争は日本に不利として、結局は条約を批准した。忘れてならないのは、世界的な経済恐慌に突入していた時期にもかかわらず、海軍は補助艦保有量制限を補うために第一次軍備拡充計画をたてて、軍事費の増大を要求していったのである。

ところで、ワシントン海軍軍縮条約で決まった主力艦保有量制限を受けて、廃棄艦のうち起工済みであった戦艦「加賀」と巡洋戦艦「赤城」を本格的な航空母艦(以下空母と略)に改造することにした。主力艦の制限で失った戦力を補助艦の増強で補おうとしただけでなく、条約制限外の兵力である航空軍備の積極的な拡充策を図ったのである。こうして基準排水量2万7千トン、搭載機60機という当時では最新鋭の大型空母「赤城」と「加賀」の2隻が、海軍航空戦略の期待を背負って相次いで竣工した。

ここで問題であったのは、空母の戦術的な運用という面で、これまで全く経験がなかったうえに、空母に関する教育訓練や艦載機の実地訓練を積んだパイロットたちが不足していた。制度や教育方法を改善して、早急に空母のパイロット養成をすすめる必要があったので、海軍は航空軍備の拡充を柱に、空母パイロットの養成のための基地航空隊(陸上飛行場)の新設をすすめていった。

大正5年(1916)、航空兵力の増強のため神奈川県横須賀に最初の航空隊をスタートさせ、以後佐世保・霞ヶ浦・大村などに航空隊を開隊させていった。そして、那古の対岸である館山湾の一角が海上航空基地の予定地として浮上していた。東京湾口部を臨む館山には、東京湾要塞関連施設があって要塞地帯に指定されているため、住民たちは機密保持の厳しい規制が課せられていた。東京湾要塞地帯にあって鏡ヶ浦と呼ばれる波静かな館山湾は、水上航空機の発着にも適していた。

関東大震災によって、館山湾沿岸と海底は隆起し、宮城海岸と鷹ノ島、沖ノ島の間が広く浅瀬となっていたので、構想していた空母の形に似せた海上基地建設には極めて好条件であった。昭和2年(1927)、近くの頼忠寺山(通称「赤山」)を削った土砂と海底を浚渫して、埋立造成工事が開始された。そして4年後、全国で5番目の基地航空隊として館山海軍航空隊(以下、通称の「館空」と略)が開隊したのであった。

海上基地の滑走路は、地形的に海からの西風を強く受けるように配置され、とくに空母の短い飛行甲板による離発着艦を想定した飛行訓練には最適な飛行場となり、パイロットたちから「陸の空母」と呼ばれるようになった。当時、航空兵力増強を主張する海軍首脳たちは、将来の戦争では航空機での戦いが主力になるとみて、攻撃型空母を中心に据えた機動部隊編成による戦略や戦術を構想していた。そのため高性能な艦上戦闘機(艦戦)や艦上攻撃機(艦攻)の開発をすすめるとともに、空母での離発着艦操縦技術に優れたパイロット養成に力を注いでいた。「館空」司令から空母「赤城」や「加賀」などの艦長に転出することが多いのも、教育訓練の時点から実戦配備にふさわしいパイロットを見極めることによって、機動部隊戦略を具体化するねらいがあったのではないかと思われる。優れたパイロットでも夜間の離発着艦や有視界飛行に限界があったので、夜間飛行の方位測定では、航空機用に長・中・短波が併用できるように電信機が改良されていった。また、空母関係の航空機のために無線誘導の自動帰投装置が開発され、洋上での行動範囲が広がっていった。このような実戦的な訓練を担った「館空」は、その後のハワイ真珠湾攻撃に投入された艦上攻撃機のパイロットたちを養成し、高度な攻撃訓練を実施していたとの証言もある。

1930年代に入り、海上哨戒や機上からの偵察において飛行艇の能力では限界があったので、海軍では航続距離が長く陸上基地用の偵察機の試作をはじめていた。昭和7年(1932)、航空本部技術部長であった山本五十六少将の号令のもと、複葉双発艦上攻撃機を陸上機に改造し、そこに新規開発の三菱製発動機を搭載して、これまでにない陸上攻撃機の開発を進めた。「館空」に配備されてからも飛行実験は繰り返しおこなわれ、機体や発動機の面にさまざまな改良が加えられていった。

そのなかで日本で最初の引込脚方式を採用した双発中翼単葉機タイプの陸上攻撃機の開発に成功したのであった。昭和10年(1935)2月、九六式中型陸上攻撃機(通称「中攻」)として世界の航空界に登場した。「館空」には6機が配備され、本格的な攻撃部隊として実用訓練に入った。翌年9月には、途中悪天候にもかかわらず館山・サイパン島間の約2200`の無着陸飛行に成功し、最新鋭機「中攻」が高性能な航空機であることを世界に示した。

満州事変以降、海軍は航空兵力を拡充強化するため、次々と軍備補充計画を策定し、議会も追認していった。昭和12(1937)年7月、蘆溝橋事件を契機として日中戦争が勃発し、8月には「館空」で訓練され、その後木更津航空隊所属となった「中攻」部隊が、いわゆる「渡洋爆撃」と呼ばれる航空作戦を実施した。以来、中国大陸の諸都市へ無差別の戦略爆撃が開始されたことで、日中戦争は全面的に展開し、次第に泥沼に入っていった。

現在の海上自衛隊館山基地のすぐ南側に標高60メートルの通称「赤山」と呼ばれる小高い山がある。凝灰岩質砂岩などからできた岩山のなかには、総延長2キロメートル近くの地下壕跡と、巨大な燃料タンク基地跡などが残っている。基地建設のときに十分な地質調査をして、その後海軍の専門工作部隊によって建設された地下壕と思われるが、赤山地下壕に関わる資料が全く不明で、当時の証言も少ない。ただ、戦争末期に再び本土決戦用に地下壕が掘削されたようで、大部分素掘りのまま使用され、今もツルハシの跡が鮮やかに残っている。数少ない地元の証言によると、1930年代半ばごろから赤山近くの海岸の埋め立てが極秘におこなわれ、状況から見て赤山地下壕を掘った土砂が運ばれた可能性が高い。完成した地下壕施設から随時使用されたようで、「館空」で行われていた軍極秘の航空機開発・実験に関わる格納施設や、航空機用の長距離無線通信などの機密の高い部隊が置かれていたと推察されている。

「館空」の防空砲台群の戦闘指揮所や実戦のなかで医療施設として使用されていたとの証言があるが、地下壕内部の形状から見て、基地の司令部・奉安殿・戦闘指揮所・兵舎・病院・発電所・航空機部品格納庫・兵器貯蔵庫・燃料貯蔵庫などの施設があったと考えられ、全国でも極めて珍しい航空要塞的な機能をもった地下壕であった推定している。


●満州事変から日中戦争へ●

満州では民族主義の立場から国権回復運動がおこり、満州鉄道の独占的な経営などへの反発が強まっているだけでなく、世界大恐慌の影響を受けて経営も悪化していた。満州での動向に危機感をもった軍内部では、武力で満蒙問題を決着をつけようとしていた。政党や財閥、大新聞なども「日本の生命線満蒙」と叫び、その危機感を煽っていた。

昭和6年(1931)9月18日夜、関東軍は奉天郊外で満州鉄道の線路を爆破して、これを中国軍の行為だと主張するとともに、張学良軍を攻撃して、翌日には奉天城を占領するという柳条湖事件を引き起こした。若槻内閣は不拡大方針を唱えたが、関東軍は計画的に戦線を拡大し、開戦半年後には満州の主要部分を占領して「満州事変」と呼ばれるようになった。こうして日本と中国の15年にわたる戦争がはじまった。

昭和5年(1930)に開隊した館山海軍航空隊の戦略的重要性はすぐに発揮され、基地の強化が図られていった。昭和14年(1939)の資料「軍極秘館山海軍航空隊現状申告覚書」(防衛研究所図書館蔵)によると、基地には准士官以上104名と下士官・兵1435名、そして特別教育中の搭乗員231名が任務にあたっていた。とくに教育訓練では「現下膨張シツツアル航空隊ノ要員養成ニ於テ其ノ基礎的教育ノ良否ガ懸ツテ将来我海軍航空部隊ノ素質ニ影響スル…殊ニ本隊ハ水上機ノ全部、艦上機ノ一部即チ海軍航空特別教育ノ大部ヲ擔當スル重責ニアル…」と記し、「毎日平均艦上攻撃機三〇機水上偵察機三〇機計六〇機ヲ使用シツツアリ」と報告している。館山航空基地には八九式艦攻二三機、九七式艦攻四〇機、九四式水偵三〇機、九五式水偵二二機など一二四機が配備されるとともに、当時海軍航空機の兵站基地として、中国の漢口や南京、高雄などの最前線基地に九七式艦攻を送り込む極めて重要な任務も負っていたのであった。

ところで、昭和12年(1937)7月7日夜、北京郊外の盧溝橋付近で、日中両軍の衝突事件がおこった。近衛文麿内閣は不拡大声明を出したが、すぐに停戦交渉の道をとざし、8月には上海でも日中両軍は衝突した。9月に中国で第二次国共合作が成立すると、日本は宣戦布告をしないまま、全面戦争に突入していったのである。

軍部の強硬論におされていた近衛首相は、翌年1月に「国民政府を相手とせず」とする声明を出して、国民政府との和平の道を閉ざしてしまった。国民政府は、首都を漢口から重慶に移して抗戦した。その年の10月の武漢・広東作戦によって、中国の重要都市のほとんどを占領した日本軍は、中国大陸に24個師団を派遣したにもかかわらず、占領地は都市と鉄道沿線にとどまっていた。

中国戦線での打開策がないまま、日本はソ連に対しても仮想敵国視をし、翌年には満州とモンゴルの国境であるノモンハンで、ソ連・モンゴル両軍と日本軍とは、衝突し日本軍は大敗を喫したのであった。このノモンハン事件の最中、ヒトラーのドイツはソ連と独ソ不可侵条約を締結し、9月にはポーランドを攻撃した。その結果、9月3日に、ヨーロッパでは第二次世界大戦がはじまった。


●要塞地帯の人びとと館山市の成立●

明治32年(1899)、軍機保護法と要塞地帯法が公布され、防諜(スパイ防止)法規が整備された。日中戦争が勃発すると、昭和12年(1937)に軍機保護法が改正され、軍事上の秘密は軍事機密・軍事極秘・軍事秘密などに分けられ、種類や範囲は陸海軍各大臣の命令で定めることができた。このとき探知収集や漏洩行為に対する刑罰規定が強化され、那古町をはじめ要塞地帯の周辺地域に住む人びとは、一段と厳しい規制下に置かれることになった。

一方、外国人の入国や宿泊、居住などについても、大正7年(1918)に内務省令「外国人入国ニ関スル件」が定められていたが、満州事変以後、日本に対する各国のスパイ活動が激しくなったので、昭和14年(1939)に内務省令「外国人ノ入国、滞在及退去ニ関スル件」によって厳しい規定が設けられた。対米英戦争が勃発した昭和16年(1941)12月9日には、内務省令「外国人ノ旅行者等ニ関スル臨時措置令」が公布され、居住地の都道府県外への旅行には一層厳しい制限が設けられた。

ところで、昭和14年(1939)に、軍機保護法による軍事秘密の保護の範囲がさらに拡大すると、国防目的の軍用資源に関する事項の漏洩防止のために軍用資源秘密保護法が制定され、外国人とか日本人とかを問わずスパイ対策が強化された。

日中戦争の勃発にともなって、国民の防諜への関心も高まり、各地で防諜関係の団体が結成された。千葉県では東京湾に面する地域一帯が要塞地帯法の指定地域となり、昭和12年(1937)には館山北条町において、民間の防諜基幹として取締官憲を支援し要地防衛の実績発揚を目的に安房要地青年協会が結成され、続いて君津郡17ヵ町村の青年団を中心に君津要地青年協会が組織された。

当時の千葉県警察官僚は議会で「本県ハ軍郷トモ申スベキ非常ニ軍関係ノ部隊並ニ学校ノ所在地デアリ、一面又地理的ニ帝都ニ接触シ、国防上要地ヲ占メテ居リマスノデ、防諜問題ニ付テハ非常ニ力ヲ入レテ居ル…防諜報国団ヲ各警察署単位ニ方々ニ作リマシテサウシテ、サウ云フ方面ノ防諜上特ニ注意セテ戴キタイ方面ノ人ニ会員ニナツテ戴キ、或ハ講演会ヲ開キ或ハ座談会ヲ開クト云フヤウナ方法デ、防諜ニ付テハ相当力ヲ尽シテ居ル・・・附近ノ県ナドニ比較致シマスト、例ヘバ神奈川県ナドハ非常ニ千葉県ハ防諜ノ方面ガ進ンデ居ルト云ウノデ、色々千葉県ノヤリ方ヲ見ニ来テ居ルト云フヤウナ例モアリマシテ、本県トシテハ比較的防諜ノ方ニ付テハ早クカラ進ンデ居ル…」と述べている。改正された軍機保護法によって、些細な話も厳格に適用され、安房地域でも特別高等警察や憲兵隊が密告により摘発したという記録が残っている。

昭和14年(1939)1月に勅令第20号で警防団令が公布され、2月には那古町議会で那古町警防団規定が議決され公布された。この年11月3日には、那古町は船形町とともに、館山北条町と合併し館山市が成立した。初代市長には、石崎常夫が選出された。同時に県告示によって館山警察署と改称され、館山・北条・那古・船形の四警防団も合併して館山市警防団となって、初代団長は那古町長であった鈴木森蔵が就任している。内務省は翌年になって、従来から各県で防諜連盟などの名称で結成していた組織を解消して、今後警防団が防諜組織としての役割を担うことを指示した。

千葉県では写真撮影によるスパイ活動防止のため、全千葉県写真連盟によってカメラ登録制となり、登録者には千葉県警察部・千葉県各憲兵分隊・全千葉県写真連盟という三者連名の登録証が交付され、カメラを携行する場合は登録証の携帯が義務づけられた。また、防諜体制の確立を目的に防諜意識を普及するため、全国一斉に「防諜週間」がもけられ、千葉県では期間中、講演会や映画会の開催はじめ、防諜作文の募集・ポスター・パンフレット配布などがおこなわれた。さらに、その徹底を図り実践を強化する目的で、戦時国民防諜強化運動が全国一斉に実施され、運動期間中において館山や千葉、木更津の各警察署では、スパイが同署管内に潜入したとの想定のもとで演習がおこなわれた。

昭和19年(1944)、戦局の緊迫化にともない要塞地帯にある内房地域への学童疎開要請も、要塞司令部は防諜上、不許可にした。千葉県内の防諜強化のため、この年2月に東京湾岸を管轄する千葉・館山・木更津など11警察署に、翌年1月には残りの18警察署に、各警察署管轄を単位に地区防諜協議会を設置することを命じている。東京大空襲をはじめ本土に対する空襲が激化するなかで、「マリアナ時報」などの降伏宣伝ビラが米軍機によって散布されていた。その状況に内務省は「敵ノ文書図画等ノ届出ニ関スル件」を公布し、宣伝ビラなどを発見し拾得した者はすぐに届出することを義務づけ、防諜の徹底を図った。しかし、東部憲兵隊文書の「流言飛語流布状況ニ関スル件」には、本土決戦に関わり「沖縄戦局ニ期待及至関心ヲ有シ大部悲観的憶測」や、空襲への「依然被害誇大吹聴、敵宣伝ビラニ因ル憶測」が多いと報告されている。千葉県は戦局の動向に敏感であったのか検挙者が多い。沖縄戦の次は房総での本土決戦との認識が広がったものの、多くの住民に厭戦気分が生まれ、浮き足立った状況があったと推察される。


●戦時統制とくらし●

日中戦争がはじまると、直接的な経済統制にふみ切り、臨時資金調整法などを制定して、軍需産業に資金や輸入資材を集中的に割り当て、軍部と結んで強力な国防国家を建設する動きをつくっていった。戦争の拡大につれて軍事費は年々急増し、財政が膨らみ増税を進めていった。そして、昭和13年(1938)4月には国家総動員法を制定し、政府は議会の承認なしに、戦争遂行に必要な物資や労働力を動員する権限をもって、国民生活を全面的な統制下においた。中小企業の強制的な整理も進め、翌年には国家総動員法にもとづく国民徴用令により、国民は軍需産業に動員されていった。

不要不急の民需品の生産や輸入は厳しく制限され、生活必需品は品不足となっていた。このため政府は、国家総動員法にもとづき、昭和14年(1939)10月に価格等統制令を出して公定価格制を導入し、経済統制をさらに強化していった。国民に対しては「ぜいたくは敵だ」「欲しがりません、勝つまでは」といったスローガンのもとで消費の切り詰めを強要し、翌年にはぜいたく品の製造・販売の禁止、砂糖・マッチなどの消費を制限する切符制となった。次の年には米が配給制となり衣料も切符制となり、生活必需品への統制が極端に強まっていった。農村でも政府による米の強制的買い上げ制度(供出制)が、昭和15年(1940)から実施され、生産奨励のために小作料の制限や生産者米価の優遇などの措置が取られた。ただ、労働力や生産資材の不足のため、前年を境に食糧生産が低下して食糧難が深刻になっていった。

そして、昭和15年には首相を総裁する大政翼賛会が結成され、後に道府県知事が支部長となっているが、この組織は従来からの町内会や部落会をもとに隣組をつくり、国民統制の組織として整備していった。全国約19万9千か所の下部には、約114万か所の隣保組織が張り巡らされた。この隣組では、寄り合いである常会に月1回全世帯からの出席が義務づけられ、政府や関係機関からの指示や連絡などが伝達され、必要な連絡事項は回覧版を使って隅々まで伝えられた。また、隣組は食糧や生活必需品の配給も担当したので、行事は欠席できなかったうえに、私生活を相互に監視する役割も担っていた。この年には政府が労働者の統制を目的に労働組合も解散させ、大政翼賛会的な大日本産業報国会を設立した。また、国家総動員法にもとづき国民徴用令を公布し、労働者を民需産業から軍需産業に動員したり、中学生以上の学徒や未婚女性なども強制的に軍需産業へ動員していったのである。

隣 組 (岡本一平作詞)

とんとんとんからりんと隣組 格子をあければ 顔なじみ

回してちょうだい回覧版 知らせられたり 知らせたり

とんとんとんからりんと隣組 あれこれ面倒 味噌醤油

ご飯の炊き方 垣根越し 教えられたり 教えたり

経済統制

1938年3月 綿糸配給切符制実施・5月 ガソリン切符制実施

1939年3月 賃金統制令公布・4月 米穀配給統制法公布・6月 パーマネント禁止・7月 国民徴用令公布・10月 価格等統制令公布

1940年 4月 米穀強制出荷命令発動・6月 砂糖・マッチ切符制実施・国民服制定 隣組制度・10月 ダンスホール閉鎖

1941年 4月 生活必需物資統制令公布・六大都市に米穀配給通帳制を実施・5月 木炭配給通帳制・酒切符制を実施

1942年 1月 食塩の通帳配給制実施・2月 衣料品切符制実施。みそ・醤油切符制配給実施

1943年 5月 薪配給制実施・12月 都市疎開実施要綱発表

1944年 8月 砂糖の家庭用配給停止

09年3月26日 13,196

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旧称:南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム(2008年5月に現在の名称に変更)

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