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*訳=朝鮮中央日報2007.06.15


●380年前に書かれた日本寺院の「ハングル碑石」

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日本の千葉県館山市にある仏教寺院大巌院には参拝客の人目を引く珍しい石塔がある。正門から法堂に入って行く通りにあるこの四面石塔には中世のハングルが刻まれている。380余年前ただの村に違いなかった館山に、ハングル碑文を刻んだ石塔が建てられた背景は何なのだろうか。学者たちの研究でその謎が少しずつ解けていっている。

「ハングル表記のモデルは阿彌陀経」=高さ2メートル19センチの四面石塔は形が碑石に近い。東西南北4面にはそれぞれハングルと中国の篆書体の漢字、日本式の漢字、サンスクリット語でそれぞれ「南無阿彌陀仏」が刻まれている。また北には1624年、山村茂兵という人の施主で立てられたという由来が短く書かれている。

東に刻まれたハングルは音価がない子音(イウン)を書き入れたいわゆる「東国正韻」式表記だ。これは訓民正音創製初期から16世紀までに使われた表記法だ。すなわちこの塔が刻まれた1624年当時には韓半島からも消えた表記方式という意味だ。中世国語を専攻した東国大チャン・ヨンギル教授は、現地調査結果をもとに四面石塔のハングル表記と書体が「阿彌陀経諺解双渓寺本」(1558年刊行)とそっくりだと分析した。壬辰倭乱中に日本に伝わったこの仏経のあちこちに散らばっている該当の字を参考して碑文を刻んだという推定だ。

「壬申倭乱の犠牲者を称える平和の塔」=最大の謎は塔を建てた人がどんな意図でハングルを刻んだのかという点だ。これについて、館山地域の郷土史学者たちは「壬辰倭乱の時、死んだ朝鮮人の霊をなぐさめ、日本に連行された朝鮮人を労わる心を込めてハングルを刻んだ可能性が高い」という学説を出している。これらは当時、大巌院の雄誉上人の行績に対する研究をもとに徳川幕府と密接な関係だった雄誉が江戸で朝鮮通信使や壬辰倭乱の時に連行された朝鮮人と接触した可能性が高いと考えている。郷土史学者石和田秀幸氏は研究論文で「四面石塔は日本と朝鮮の間に起きた悲劇(壬辰倭乱)を乗り越えて平和と信頼回復を祈るもの」と主張している。

(館山=イェ・ヨンジュン特派員)

07年6月15日 5,993

戦国大名里見氏最後の城主であった10代忠義が、安房の国から伯耆へ国替えとなった縁で、館山市と鳥取県倉吉市の交流が続いているが、その倉吉の地で育った桜が「里見桜」として安房へ里帰りすることになった。里見氏を偲んで館山市で開催される南総里見まつり前日の20日には、城山公園山頂に関係者が集い、植樹祭が行われる。

改易された忠義が最初に住んだ倉吉の神坂町は打吹山の麓にあり、打吹山は郷土が生んだ横綱「琴桜」の名にも由来する桜の名所。蟄居同然の忠義が、打吹山の桜を眺めながら、遠い故国館山に思いを馳せていたであろうことは容易に想像がつく。

そこで、大山や蒜山山麓から流れくる水と、忠義が土となった伯耆の国の大地で桜を育て、忠義400年の思いを「里見桜」として形を変え、故国館山へ里帰りさせよう、と地元の有志が里見桜実行委員会を組織。企画・検討を重ね、NPO法人たてやま・海辺のまちづくり塾の辰野方哉代表へ桜進呈の打診があり、里見まつりウィークに合わせて植樹祭が実現することになった。

山頂で午後4時から行われる植樹祭には、里見氏誕生の地で、辰野氏らとも交流を深めている群馬県旧榛名町からも関係者が来館。倉吉市の同実行委メンバーと館山市からは市長や教育長、観光協会長ら関係者が顔をそろえ、忠義を供養しながら植樹する。

07年10月19日 6,611

小山市の史跡見学

里見氏稲村城跡を保存する会メンバー

07年12月15日 6,807

(朝日新聞2007年08月16日付)

62年目の記憶③

3.従軍慰安婦

(写真)石碑に花を手向ける人と天羽道子施設長(右端)=15日、館山市大賀のかにた婦人の村で


きよらのおとめ

つれさられ

なげきのなみだ

あともなく

8月15日夕、館山市の婦人保護施設「かにた婦人の村」の小高い丘に女性たちの歌声が響いた。

戦時下で従軍慰安婦として尊厳を奪われた女性たちの鎮魂の集い。20年以上にわたって毎年、敗戦の日に営まれてきた。

集いのあった丘の頂に「噫(ああ) 従軍慰安婦」と刻まれた石碑が建つ。

碑を建てようと周囲の心を動かしたのは、慰安婦だった過去を公に告白した女性だった。

城田すず子さん(仮名)。

1921年に東京・深川で生まれ、10代で台湾・馬公に渡った。特要員と呼ばれる海軍の慰安婦となり、サイパン島、トラック島、パラオ島へと移ったという。65年の「婦人の村」の開所とともに入所し、93年3月に亡くなった。

「兵隊さんや民間の人のことは各地でまつられるけど、中国、東南アジア、南洋群島、アリューシャン列島で、性の提供をさせられた娘たちは、さんざん弄(もてあそ)ばれて足手まといになったら、ほっぽり出され。(中略)私は見たのです。この眼で、女の地獄を」

城田さんは「婦人の村」の施設長だった故深津文雄牧師に何通も手紙を書き、訴えた。

「城田さんの訴えをきっかけに、深津先生は慰安婦について調べました。そこで初めて日本人も外国人も慰安婦になっていたことを知ったのです。ショックでした」

現在、施設長を務める天羽道子さん(80)は振り返る。当時はまだ、慰安婦の問題は広く知られていなかった。

決して繰り返してはならない「事実の記録」として碑を建てよう。85年8月に木の碑ができ、1年後に石碑に変えられた。

除幕式には城田さんも車いすで参加した。天羽さんの目には、祈りをささげる城田さんの姿が焼き付いている。

深津牧師は00年に亡くなった。天羽さんはその遺志を引き継ぎ、今も週に一度の見学日には訪れた一般の人に石碑を案内することにしている。

「丘の上で話をしても、全く知らなかった、という人もいます。若い人に『なぜ従軍慰安婦がいたのか』『どうしてこんな碑があるのか』問い続けてほしい」と話す。

東京・早稲田の「女たちの戦争と平和資料館」(wam)で今、「中学生のための『慰安婦』展」が開かれている。

アジアの元慰安婦の女性たちの証言の中に、城田さんの話や手紙も展示されていた。軍関係の資料、慰安婦の記述をめぐり論争になっている教科書問題の説明もある。

事務局長の渡辺美奈さんは言う。

「歴史認識の違いや中学生に性がからむ問題をここまで教えるべきなのかという声もあるが、学生にも大人にもきちんとした事実を知ってもらいたかった」

wamは今年初めて、展示を見学に訪れた人に「婦人の村」の鎮魂祭への参加を呼びかけた。これをきっかけに、約20人が新たに参加し、入所者約40人と花をささげた。

wam運営委員長の池田恵理子さんは「8月15日はアジアを中心に世界7カ所で、慰安婦問題の解決を求める運動がある。勇気を出して声をあげた各国の被害女性と心を一つに、私たちも行動したい」と話した。

歴史認識やナショナリズムの問題が絡んで、とりわけ、慰安婦問題を語る時、内外で激しい議論を巻き起こす。

7月末、米下院本会議が慰安婦問題で日本政府に謝罪を求める決議を採択した。決議に弾みをつけたのは、旧軍が直接関与したという「狭義の強制性」を裏付けるものはないと主張した、安倍首相の3月の発言だった。

天羽さんは「慰安婦の体験を話す人たちは、思い出したくもないような事実を表現している。日本人はその声を本気で聞いていない」と思う。

館山湾を見下ろす丘の上の石碑が、過去と向き合うことの大切さを静かに語りかけているようだった。

07年8月16日 5,711

大正ロマンの香りただよう

鈴木家住宅と小高熹郎記念館を訪ねる

(女優の酒井和歌子さん来館)

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07年5月14日 5,314

●里見氏の貴重な史料発見

「終焉の地」倉吉で学術調査

〜10代忠義の文書原本も

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戦国時代に館山を拠点に房総を支配した大名・里見氏の研究を行っている県内の大学教授らがこの程、鳥取県倉吉市などを訪れ、聞き取りや古文書確認などの現地調査を行った。今後成果を学術的な形で正式に発表したいという。

調査を行った「里見氏研究会」は、『房総里見一族』などの著書のある千葉経済大学の川名登名誉教授を代表に、佐藤博信千葉大学教授、千葉県史中世史部会専門員の滝川恒昭さん、法政大学非常勤講師の和気俊行さん、NPO法人理事長の愛沢伸雄さん。

倉吉は後期里見氏10代の忠義が、徳川幕府から改易され没した「里見氏終焉の地」。里見氏を縁として「南総里見まつり」などで市民同士の交流を深めている。

里見忠義に関する史料、史跡などの総合的研究が目的で、これまでにも会員の個別の調査は行っていたが、記録に残す形での本格的な調査は初めて。

忠義の墓のある倉吉市の大岳院、忠義が奉納した棟札のある北条八幡宮、里見屋敷跡などで遺品や文書などの調査、忠義の没した同市関金町で聞き取り調査などを行った。

このうち、大岳院では忠義から出された文書のなかで、今まで「写し」でしか知られていなかった文書の「原本」が発見され、滝川さんは「これは大変大きい成果といえる」という。

移封当初の里見忠義が、どういう立場であったかの再検討をせまる史料も見つかったという。

また調査活動期間中には、同市で特別講演「里見忠義終焉の地を訪ねて」も行われ、川名名誉教授が史実としての里見氏と「八犬伝」との違いなどを語った。

愛沢さんは「今回の学術調査を機に、館山市と倉吉市の歴史、文化を活かした市民交流をさらに深めていきたい」と話している。


WEB記事は、こちら

07年12月25日 9,130

映画『赤い鯨と白い蛇』を観て

千葉大学教育学部 川上 和宏

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07年10月3日 7,182

空き店舗利用し、まちかどミニ博物館

館山の商店街6か所にオープン

ウォーキング参加者に無料でおにぎりを提供

安房水産高生

07年2月7日 5,359

浮書絵彫りに感謝と友好の願い込め、きょうNPOメンバーら訪韓

韓国に4作品を寄贈、館山の吉田さん制作

*房日サイトはこちら


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07年9月8日 7,774

映画「赤い鯨と白い蛇」を観て

上映委員会 橋本芳久

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民話と神話が交錯したような芸題の映画が、館山で撮影されていると知ったのは二〇〇五年であった。正直なところ、初めはその異様な題名にあまり期待をしていなかったのだが、観るたびに新しい気づきと感動がこみ上げてくる。

内房線特急ビューの車内に始まり、南欧風の館山駅西口から鏡ヶ浦、洲崎灯台など、つぎつぎと見慣れた風景がスクリーンいっぱいに広がる。館山の海、浜、山、樹々にそよぐ風、葉のささやき。散歩の道すがら、いつも目にする波左間の六地蔵。すべてが身近で、親しみ深い場面の連続。

そんな館山を舞台にして、年代も環境も違う五人の女性たちが過ごす三日間。それぞれ苦悩を乗り越えて明日に希望をつないで生きてゆく姿には、共通した教訓的なものを感じる。それを導いているのは香川京子扮する保江婆の生き様であろう。

「自分の心に素直な生き方を」「私を忘れないで欲しい」という言葉と大切な品物を保江に託し、敗戦の二日前、特殊潜航艇の青年少尉は命を落とした。彼との約束を守るため、認知症で薄れゆく記憶を懸命にたどりながら、館山の掩体壕や地下壕などの戦争遺跡を歩きまわり、遺品を探しあてる保江。そして、鏡ヶ浦の水平線に沈みゆく夕日に赤く染まった潜水艦と、白い軍服に身を包んだ青年の回想シーンが重なる。これは、亡くなった青年将校への、いや戦争で犠牲を強いられたすべての者への鎮魂の場面として深く心に残る。

香川京子の迫真の演技は、渋さの中に輝きを増して光っていた。戦後まもなく、沖縄の苦しみを描いた『ひめゆりの塔』で主人公を演じた少女が、歳を経て再びいまに生き帰った姿を見た思いである。絶妙な樹木希林、爽やかな浅田美代子などの演技も素晴らしく、真剣さが伝わってきて好感が持てる。

圧巻なのは、ラストに近いシーンである。今まで静かに描かれていたスクリーンが、一挙に激しい動に転じ、八幡神社の神輿祭りの場面となる。宮地真緒演ずる保江の孫娘が、生まれたばかりの赤子をしっかりと抱きしめ、若者達が力いっぱい担ぐ神輿を見つめている。赤子の胸には保江が恋人から貰った七つボタンの一つが光っていた。妊娠し、ボーイフレンドから「俺と結婚したいのなら子供を堕ろせ、産みたいのなら別れろ」と言われていた娘が、結婚できたのかどうかは描かれていない。しかし、明日を担う若者のたくましさ、未来への無限の希望を印象付けるような転換が素晴らしい。

かつて館山の地は軍都であり、人も自然も自由な呼吸すらできない時代があった。戦争が終わり、苦しみから解放された館山の地は、生き生きと輝くばかりの美しさと可能性をよみがえらせた。随所を飾っている館山の美しい自然を背景にして、いのちや平和の尊さ、その可能性と希望が描き出されている。それは自然ばかりではない。安房高女・安房南高校の卒業生であるせんぼん監督の母校の威風堂々とした木造校舎をはじめ、この地に生きてきた人びとの営みがもつエネルギーであるといえよう。

苦悩をかかえて現代を生きる人びとの心を癒し、生きる力を育んでくれる珠玉の作品である。館山市民、いや千葉県民の一人として、せんぼん監督はじめ関係者の皆様に、素晴らしい作品を有難う、と心から言いたい。十月十四日に開かれる南総文化ホールの上映会には、せんぼん監督も駆けつけて講演してくださるとのこと、本当に楽しみである。

一人でも多くの方がこの映画を見ることができるように、上映委員会ではチケットを預かって販売に協力してくださる方を募集しています。事務局(090-6479-3498)までご連絡をください。

07年8月7日 5,600

特定非営利活動法人(NPO) 安房文化遺産フォーラム

旧称:南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム(2008年5月に現在の名称に変更)

〒294-0045 千葉県館山市北条1721-1

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