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私の出会った勝浦の漁師たち

平本 紀久雄


はじめに‥ 勝高水産科の生みの親・大野磯吉先生

本日はお招きいただき、ありがとうございます。本校は創立当初は夷隅水産高校という呼び名だったと思います。夷隅高校水産科に、北大水産の大先輩で大野磯吉という主事の先生がおりました。大野先生は本校水産科を立ち上げた中心的な人物で、私と同年配の本校卒業生にとって、「大野の爺(じい)」と云ったら知らない人はいない名物教師だったそうです。県の水産試験場で40年近くイワシの研究をやって来た私にとって、大野磯吉という名は懐かしい名前でした。なぜなら、大野先生は教師になる前、研究者だったからです。彼は若いころ、北海道余市の道立水産試験場でサケマスの生活史の研究をされた方で、サクラマスの生活史について有名な論文を書かれました。

最近読んだサルの研究、登山家として有名な今西錦司さん(文化勲章受章者)の『イワナとヤマメ』(平凡社ライブラリー)という本にも大野磯吉(1933年)「北海道産サクラマスの生活史」が参考論文として堂々と載っています。

「大野の爺はきびしかったが、温かみがあり生徒が真から畏敬していた」と、いろいろな卒業生から逸話を聴かされ、「まるでスイスの有名な教育者、ペスタロッチみたい」と驚嘆させられた次第です。大野先生の遺稿が息子さんの手で『私の人生手記』となって出版されたとき教え子たちが競って購入したようで、私はある知人をとおして読ませていただき、読み返すたびに感動しております。大野先生のような真っ直ぐな人格者が本校の基礎をつくられたことを、誇りに思っていただきたいと思います。


銚子市外川に伊東丸(屋号、五郎左衛門)というまき網業者がおります。船主は私と同い年で、以前から親しくしている仲ですが、跡取り息子がプロ・サーファーを目指していて、引き止めるのにだいぶ苦労していました。そこで、船に若者を乗せるように勧めました。私の進言が実って? 2,3人若手を雇いました。その中に、たしか勝高出身者も一人いたと思います。船主の話によると、若手の中に近畿大学中退の人がいて、何事にも研究熱心で数年で船舶の資格を取り、現在運搬船の船長なっていますし、勝高の先輩は機関長になっているそうです。

伊東丸は現在、千葉県下トップクラスの稼ぎを挙げています。元まき網船頭だった知人が、「波乗りの上手い奴は、魚を獲るのも上手いのかな」と、感心していました。上手なサーファーは、熟練した漁師に負けないくらい海を熟知していることでしょうね。「好きこそものの上手なれ」のことわざどおりですね。

気を良くした伊東丸さんは、「意欲ある人なら、これからも喜んで雇うよ」と云ってくれます。


沿岸小型、世界に羽ばたく 天松丸(てんしょうまる)、国際会議で日本漁業の現状を訴える

10年も前の話になりますが、千葉県沿岸小型漁協所属の勝浦の漁師2人をフィリピン・セブ島で開かれた国際漁民大会(ICSP)に送り込んだことがあります。その一人が勝高出身の川津の天松丸こと、鈴木正男さんです。彼は国際会議で堂々とカツオ資源をめぐる日本国内の漁業間の南北問題(大型まき網と小型釣り漁船の争い)について発表しました。

彼の話によると、「はじめ日本から来たと云ったら、白い目で見られたが、発表が終わったら、あちこちから握手を求められた」そうです。このことについては、お手元に配布した新聞記事に書いてありますから、ご覧になってください。彼の顔写真が当時発行された「タイム」誌アジア版の表紙を飾りました。

沿岸小型漁協というのは、50年以上続く全国に誇る同業者組合ですが、一例をあげると、35年も前から勝浦沖のキンメダイ資源の漁業管理を自分たちでルールをつくって実践しているのです。それも、違反したら罰則まで設けてやっているのですよ。

なぜ、勝浦の漁師たちは、全国に先駆けて資源管理ができたのでしょうか? それは偉大な先輩たちがこの地にいたからにほかなりません。そのルーツをお話ししましょう。


石橋宗吉と松友(しょうゆう)会の仲間たち

3年前に勝浦市松部の「一本釣りの宗吉」こと、石橋宗吉さん(妙八丸)が102歳で亡くなりました。私は葬儀当日島根県で講演を頼まれていましたので、前夜の通夜にのみ出席しました。葬儀当日は土砂降りの雨の中、参加者皆が木遣りを唄って送ったそうです。まさに大往生ですね。宗吉さんは2冊の伝記本があるほど漁師仲間では有名な方で、彼は器が大きいというか包容力のある方で、いわゆる「神輿に乗れる人」でしたので、周囲に大勢の協力者やファンがおりました。

先の敗戦の翌年(昭和21年、1946年)、当時44歳だった宗吉さんは、敗戦で目的を失っていた村の若者たちを集め、漁業会事務所で釣り漁法の手ほどきを始めました。これが発展して「松友会」という学習会になっていったのです。松友会には漁村青年ばかりでなく、戦災で東京から勝浦に疎開してきた人々も集まるようになりました。漁法の研究ばかりでなく、仲間内で芝居をしたり本を共同購入して、読書会を開いたりしたのです。

6年後の昭和27年(1952年)の記録によると、松友会には産業部と文化部があり、釣りの研究を主に行った産業部長は石橋宗吉でした。文化部には運動部と図書部があり、部長は中国大陸から引き揚げてきた木村金太郎が部長でした。また、運動部の中心は、後に中学教師、新聞記者を経て、彼らの後押しで県会議員になった米本孝でした。

産業部では新しい漁具・漁法の研究や技術普及を行い、その成果は漁業者向けの教科書『新漁法・鯖の跳ね釣』(石橋・木村共著、1950年)と『新しい漁法の研究 沿岸一本釣漁業』(木村・石橋共著、1952年)となったのです。彼らの活動はたちまち周囲に知られるようになり、千葉県内に留まらず全国に及んでいきました。なかでも、後に日本全国で一本釣り漁法の普及活動の主役となったのが、にわか漁師だった木村金太郎でした。

文化部の活動も活発で、内容も様々でした。その一つは娯楽と演芸で、村の祭りや潮祭りなどの休日には寺や昭和漁業会社や漁業会事務所などを会場にして、のど自慢大会や演芸会を頻繁にやったようです。芝居の演目も、菊池寛の「父帰る」や「日蓮上人」、駐在所の菊池巡査が脚本を手がけ、自分たちの仕事をテーマにした創作劇「春鯖」など、同時勝浦町の名物行事だったようです。また、松友会の歌を作詞し、NHKの「若い農民の歌」に応募したりしました。

運動部では野球部「シャークス」をつくり、夷隅郡トップクラスの実力を誇り、ユニフォーム代はテングサ採りや映画会の収入でねん出したと云います。陸上競技部は松部の郁文小学校の校庭を借りて夜間練習し、走高跳では当時、千葉県記録を出し、800mリレー・ムカデ競争・仮装行列では勝浦町で1位の成績を上げ、国鉄機関部と並ぶ勝浦町運動会の有名団体であったようです。

図書部では共同購入で共同購入400冊をそろえ、ほかに新聞や娯楽雑誌を持ち、月1回読書会を開いて学び合いました。さらに地元政治家を招いて時局講演会を開いたり、交互に会員が専門分野の話をしたりしました。

このほか、子ども向けに日曜日お寺で坊さんや会員が童話や漁業の話を聞かせたり、地元の郁文小学校の依頼で予算を組んで児童の表彰(文化賞)を行ったりしました。

当時、会員数は120名、会費月5円で、大半は松部の青年たちであったそうで、この活動は10年近く続きました。

彼らの活動は、ちょうど信州佐久の医師、若月俊一さんたちが農村医療の普及と啓蒙を手がけた手法とまったく同じで、戦後民主主義運動の先頭を走っていたのではないかと思います。佐久総合病院は現在、農村医療の世界的モデルとして発展しています(南木佳士著『信州に上医あり』岩波新書、1994年)。


勝浦漁師、一本釣り指導に全国へ

松友会活動が始まって間もなく、千葉県庁から依頼があり、県内各地の漁協へ一本釣り指導の講習会に出向くようになりました。初めは石橋さんが中心で、助手として木村金太郎が随行しました。石橋宗吉創案のハイカラ釣りに、皆びっくりしたそうです。また操業の際、船を風に立てるスパンカーという三角形の艫帆がありますね。あれも宗吉さんの発明です。

昭和23年(1948)になると水産庁の要請で、5〜7月の閑漁期には県外にも出掛けるようになりました。講師は宗吉さんばかりでなく、皆が手分けして出掛けるようになりました。木村・石橋の二人が書いた2冊の教則本が種本になったのです。

彼らが出向いた場所は、北海道、(日本海側)、青森・秋田・山形・岩手・宮城・福島・茨城・新潟・富山・石川・福井・京都・兵庫・和歌山・島根・山口・高知・徳島・長崎・熊本(天草)・鹿児島の22道府県に及んでいます。講習は講義と実習を兼ね、1か所2日、1回10〜15日の旅程で全国を駆け回りました。サバの習性、釣り具のつくり方、跳ね釣り、ハイカラ釣り漁法、さらに時間があればブリ・タイ・ヒラメなど、なんでもござれで質問に応じたと云います。

全国行脚は昭和34年(1959)まで毎年定期的に行われ、その後も不定期に昭和43年(1968)まで続きました。なかでも、漁師を辞め、もっぱら講師専業になった木村金太郎は、北海道や熊本県では知事や漁連から感謝状をもらい、「水産庁釣漁業専門家」のお墨付きまで頂いています。

この間、不幸な事件が2件起こりました。一つは昭和29年(1954)9月26日に起きた洞爺丸事件で松友会の若手リーダーだった鈴木芳太郎さんが遭難しました。彼は2年前から木村さんと共に北海道立水産試験場に委嘱されて北海道へ一本釣り漁法の指導に出掛けていたのです。

また、山口県へサバ釣り漁業の指導が縁で、下関のサバ釣り漁船「漁生丸」の漁労長になった山本義雄さんは、昭和29年秋に済州島沖で李承晩ライン侵犯のかどで韓国警備艇に拿捕され、その後3年あまり釜山で抑留生活を強いられたのです。昭和33年(1958)2月に帰国後、彼は病を押して抑留生活の不法な扱いを告発した手記、『略奪の海 韓国抑留生活三年半の漁夫の記録』(東京ライフ社、1958年刊)を書いています。

このように、勝浦の漁師たちは20年余りも日本全国を股にかけて、一本釣り漁業指導の旅を続けていたのです。また、雄弁家の宗吉さんや木村さんは、たびたびNHKラジオの農漁村番組に出演しました。


にわか漁師、木村金太郎の活躍

木村さんの漁民運動への関わりは、彼が勝浦に移住してから1年以内に始まっています。その手始めが昭和22年(1947)の漁民組合結成を促す趣旨・規約の作成です。水産業協同組合法(昭和23年12月)が施行される1年前のことです。彼は地元漁協幹部が街の有力者で占められ、零細漁民の願いとかけ離れていると知るや、石橋宗吉らと図って、沿岸漁業組合(現行の千葉県沿岸小型船漁協の前身)や共同経営をめざした漁業生産組合を組織しています。

昭和30年代(1956〜65)、木村はもっぱら漁業指導で全国を駆け回っていましたので、地元では目立った活動はしていませんが、昭和40年代(1966〜68)に入ると、松部の勝浦西部漁協を舞台にふたたび活動を開始します。その手始めが車エビの海中養殖事業です。石橋や木村が旗振りをした松友会の活動を真っ先に認め、沿岸漁業のモデルとして全国に紹介したのが、民間から初代水産庁調査研究部長になった藤永元作博士でした。藤永博士は車エビの完全養殖の開発者で、後に山口県で車エビ養殖会社を興しました。

その縁で、博士が経営していた山口県秋穂の「藤永くるまえび研究所」から稚エビ150万尾を無償で貰い受け、網生簀を組んで数日間餌付けを施した後、勝浦地先の尾名浦・砂子浦・船付浜地先へ放流し、翌年捕獲しようという試みを行いました。しかし台風の接近などで、木村さんたちの努力は夢と消えてしまいました。太平洋の荒波に面した勝浦は海面養殖の適地ではありませんでした。

しかし、それでもめげるような木村さんではありませんでした。昭和41年(1966)末には石橋さんと共に千葉県中型船団を組織し、自ら員外理事となって日本海・東北・北海道のイカ釣り漁の進出を試みたのです。昭和44年(1969)4月、県外イカ釣り出漁を軌道に載せた直後、ヘビースモーカーだった木村さんは不治の病(胃がん)に倒れ、同年9月30日にこの世を去ったのです。息を引き取る3日前、入院先の勝浦市内の病院で千葉県知事から、多年にわたる漁業生産の向上と後継者育成に尽力した功績で表彰を受けたのです。一介の任意漁業団体理事に過ぎなかった木村さんの葬儀に友納武人千葉県知事自らが出席されたそうです。


.おわりに‥ 自分の進路に誇りを持って

最近NHKのラジオ深夜便「こころの時代」で聴いた話ですが、埼玉県立浦和高校では1年生全員に自分史を書くことを義務付けているそうです。自分史など、どんな優秀な生徒でも15歳の少年に書けることではありません。苦し紛れに自分の幼い時の写真などを頼りに親に当時の自分のことを聞いたりしながら、皆苦労して30枚もの原稿を書き上げるのだそうです。その結果、「自分一人では生きられない。家族をはじめ、必ず周囲と繋がりをもって生きている」ことを実感として一人一人が知るというメリットがあるようで、生徒が目に見えて成長していくそうです。文字にしなくても良いですから、皆さんもこれまでの自分を振り返ってみては如何でしょうか。

9年前、知人のジャーナリストの加藤雅毅(故人)さんが筑摩書房から当時95歳になる勝浦の一本釣り漁師・石橋宗吉さんの一代記、『一本釣り渡世』という本を出版しました。加藤さんは、以前千倉町白間津の大海女・田仲のよさんに『海女たちの四季』、『海女小屋日記』を書かせました。初め、「なんで自分の恥さらしをしなきゃならないのか」と嫌がるのよさんの家に通い詰め、「惚れた強み」で自分史を書かせてしまったのです。

私自身、石橋さんの取材に2,3回付き合っているうちに、宗吉さんの口から度々話題に上るインテリ漁師・木村金太郎という人物に興味を持ち、空き家の仏壇の下に埋もれていた資料を探し当てたのです。それが、今日のお話の中心でした。

生前、加藤さんとよくこんな会話を交わしました。「もしも、宗吉さんやのよさんが高等教育を受け別の道を歩いていたら、何をやっていただろう」。「少なくとも代議士くらいになっていたね。でも、やっぱり漁師や海女が一番似合うね」が、結論でした。

お二人はとても魅力的な人でしたが、ほかにも素敵な漁師はいっぱいいます。今日お話しされた若い森川さんもそうですし、森川さんの師匠・川津の天松丸さん(鈴木正男さん)、画家が漁師になったのではないかと思われる鴨川の喜久丸さん(熊谷実さん、NHKラジオ深夜便に毎月出演中)などなど。

人の価値は学校の成績だけでは測れません。どうか、自分の選んだ学校に、そして職業に誇りを持って進んでいただきたいと思います。


* 本報告は、2005年9月8日(木)に千葉県立勝浦若潮高校1年生向け「社会人講座」で話したものです。


朝日新聞1994.5.13 礼文島・香深漁協で釣り指南する木村金太郎氏(昭27)
15年5月18日 2,172

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