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内村鑑三に九十九里浜名物は背黒イワシと海保竹松と呼ばれた男
海保竹松の足跡を訪ねて
平本紀久雄
1 はじめに
九十九里浜のほぼ中央、作田川の北側、本須賀海岸にこの地で生まれたアララギ派の代表的歌人、伊藤左千夫の代表作「天地(あめつち)の四方(よも)の寄合(よりあい)を垣とせる九十九里の浜に玉拾ひ居り」の歌碑が立っています。左千夫の生家は現在も保存され、隣接地には山武市歴史民俗資料館となっています(山武市殿台)。本須賀海岸付近は明治期には鳴浜村と呼ばれていました。鳴浜村は、その後成東町に吸収され、現在は隣接する山武町、蓮沼村、松尾町と合併して、山武市となっています。
本須賀で生まれ育ち、明治・大正・昭和にこの地で活躍した海保竹松という一人のキリスト者の足跡を追ってみましょう。
2 JA山武農協鳴浜支所を訪ねて
2013年5月30日、海保竹松の頌徳碑がJA山武農協鳴浜支所にあると聞き、訪ねてみました。支所の玄関横に高さ3m以上もある、大きな石碑が建っています。石碑は翁の没後、半年後の昭和28年(1953)10月に建てられたもので、つぎのように記されています。
翁は明治九年七月十一日鳴浜村本須賀海保知三郎の二男として生れ、兄宣三の夭折のため家督を継ぐ。幼にして英明善断、始め佐倉藩の儒者田中従吾軒に就き漢学を修め、後笈を負いて上京し二松学舎の三島中州の門に入り儒学を究む。序で翁は基督教の大家内村鑑三に師事し、その基督教の博愛精神を体得して基督者となり、救世済民を以て自己の使命と為せり。而して出でては村政に参画し推されて村長を勤むること前後二回七箇年の長きに亘り、又東総信用販売利用組合の創設のため活動する等寧日なく、又入りては日曜学校を開校し郷党の指導啓発に力む。明治四十年同志と相謀り当時金融機関の不備により農民の苦しみつつある状態を嘆き、之が救済を念願して信用組合を創設す。爾来十有余年販売購買利用組合に発展し組合員も一躍三百余名に達し、大正十五年四月には当時比類なき程の大規模なる農業倉庫を新設し農民の福利増進に便宜を計る。更に翁は農民の困苦その極に達したる実情を目撃して苦心惨憺たる組合事業の強化に力めたり。爾来十有幾星霜、翁の事業は後輩により継続され、或は澱粉工場の新設となり、或は大倉庫と広大なる事務所の設置となり、現在の全国稀なる大組合として認めらるるに至る。是れ皆翁の先見に出ずるものにして、以て翁の高邁にしてその使命に忠実なるる証すべし。翁は実に組合長を勤むること二十有七年の長きに亘り人生の大半をこの事業の為に貢献したるのみならず名利に淡々専ら万衆の幸福を図る。今や翁の徳を頌する声は澎湃として起り郷党の模範たり。宣なる哉。石に刻して永久に伝えんとするに至れることを余は多年翁の辱知たる、たまたま農業協同組合の依嘱辞し難く聊か茲に蕪文を草して翁の頌徳に資する所以なり。
昭和二十八年十月
明治大学総長法学博士 鵜澤総明篆額並撰
鳴浜村農業協同組合常務理事 村井芳郎書
なお、碑文の仮名送りは「カタカナ」ですが、「ひらがな」に変えました。
撰文は山武市出身の明治大学総長・法学博士鵜澤総明氏の手になるもので、その内容から、「海保竹松が青年時代に内村鑑三に導かれ私淑し、キリストの僕として生涯を全うし、社会的には地元鳴浜村村長として、また地元農業のために土地改良を手始めに、全国に先駆けて信用組合や産業組合をつくり、全国稀なる大きな農業協同組合に発展させた人物」であることが記されています。
3 内村鑑三肖像画の再発見
同農協を訪問した際、鳴浜支所長代理の今井康明さんから海保竹松の子孫(曾孫?)にあたる元医師の海保敬夫氏に連絡をとってもらい、電話で言葉を交わしましたが、「以前内村マニアの方が、同家から持ち出した手紙類を返してくれないなど迷惑を受けたので、一切取材に応じないことにしている」と、断られてしまいました。
その折に支所長が「肖像画があります」と云うので、てっきり海保竹松の肖像画かと思い、「ぜひ見せてください」と頼みました。書庫(納戸)の壁に掛かっていたのは今井館講堂で見た瓜二つの内村鑑三の肖像画でした。油画の右下隅に白絵具で、昭和21年3月、石河光哉(いしこみつや)筆という細字の署名が書かれていました。
この内村鑑三肖像画の額は、海保が永年組合長を勤めた東総信用販売購買組合の階上大広間に掲げられていたと記されています(石原兵永氏著:「鳴浜伝道史の一端」、聖書の言、1953年12月号)。おそらく海保竹松のたっての願いで、石河画伯が描いたに違いないと思います。原図は1912(大正元)年10月、内村鑑三52歳の札幌伝道の折、三島常磐が撮影した写真に基づいていると思います(内村鑑三記念文庫デジタルアーカイブより)。
それにしても、いつからこのように人目のつかない場所に追いやられてしまったのか、残念でなりません。
このことを北大同期の大山綱夫氏に知らせたところ、内村鑑三の肖像画は今井館(東京・目黒区)・アマスト大学(内村が学んだアメリカの大学)・春風学寮(東京・世田谷区経堂)にあるとのこと。鳴浜の農協にある内村の肖像画を公の場に展示できる日を待望してやみません。
石河光哉(1894-1979)画伯は内村門下の洋画家で、内村から正規の学校教育を受けるよう勧められ、東京美術学校油絵科に学び特待生となり、卒業制作「隣の人」は帝展初入選。1921年卒業後、フランスへ留学、「西洋宗教名画集」を出版しています。また、内村鑑三のデスマスクを作成しました。
4 海保竹松の信仰と業績
海保竹松の生涯を信仰と農業指導とに分けて、まとめてみましょう。
資料はおもに、石原兵永氏の「鳴浜伝道史の一端 海保竹松氏を中心に」(同氏主筆『聖書の言』、1953年)および高木謙次氏の「内村鑑三と海保竹松」(高木謙次選集第1巻、2005年)から引用しました。また、農業関係については、「山武市郷土史料集」や「九十九里町誌」を参考にしました。
(1)信仰者としての海保竹松のあゆみ
海保竹松は明治9年(1876)7月11日、千葉県山武郡鳴浜村本須賀(現在の山武市本須賀)の地引網の網元であり、大地主の海保知三郎の二男として生まれ幼時から学問を好み、緑海村松ヶ谷の元佐倉藩の儒者・田中従吾軒の塾に入って漢学を修め、のちに上京して二松学舎に入り、三島中洲の薫陶を受けました。大学在学中に兄(宣三)が病気で夭折したため、学業半ばで帰郷し家督を継ぐことになったのです。
海保がはじめてキリスト教に接したのは20歳の頃で、鳴浜から10km離れた松尾の九十九里教会でした。この教会は明治維新の頃、静岡県掛川から藩主と共にこの地に移ってきた里見家らが中心となってできたもので、日基系の外人教師や植村正久らが来て伝道した教会でした。里見氏は慶応義塾に学び、外国思想にも接し、犬養毅も同窓でした。九十九里教会の存在を知った竹松は当時キリスト教に反対であり、自分が学んだ儒教の立場から聖書について議論するために教会に押しかけていったのです。
そこでどのような議論がなされたかは不明ですが、キリスト教に興味を持つようになったに違いありません。母の反対を押し切って密かに教会の祈祷会に出席したと云われています。海保が内村鑑三を知るのは、それから1,2年後のことです。
明治30年(1897)4月30日、千葉県東金町の青年有志主催で名士講演会が八鶴湖畔の八鶴館で開かれました。講師は田口卯吉(経済雑誌社長)や内村鑑三(萬朝報主筆、当時37歳)でした。内村の講演「社会の改良策としての宗教の必要性」を聴いた海保竹松は大いに感銘を受け、帰路多田屋書店(東金町)で内村の著書『警世雑著』を買い、その中の「流竄録(りゅうざんろく)」を読んでさらに感銘を受け、終生内村に傾倒していくのです。その年彼は橋本節子(海上郡椎柴村出身)と結婚します。
『東京独立雑誌』や『聖書之研究』(明治33年刊行)の内村の著作を通して、海保はますます内村に傾倒し、明治35年(1902)の「夏期講習会」(角筈)をはじめその他の集会に積極的に出席して信仰の勉強に励み、明治38年に山武(鳴浜)教友会を設立(会員数12,3名)。明治40年(1907)8月に5日間にわたり鳴浜の海保宅で第2回夏期懇話会を開きました。内村は「基督教の研究」、「種まきの譬」、「マルコ伝4章21〜25節」の3回講演(内村全集15巻)、参加者数40数名。その中に、斎藤宗次郎(岩手花巻)や井口喜源治(信州穂高)らが参加、井口喜源治は詳細な懇話会の記録をのこしています(鈴木範久編『内村鑑三談話』 155-206ページ、岩波書店、1984)。
山武教友会の規約は、①本会は山武教友会と称し、基督教を信ずるもの、または信ぜんとするものの会であります。②本会に伝道者1名、幹事3名おきます。③本会に入会しようとする者は、幹事に申し出て下さい。④本会会員は必要に応じて若干の会費を収め、毎日曜、聖書の研究会に出席することができます、以上。この山武教友会の指導者として最初に伝道したのは宍戸元平でした。4年後に引き継いだのが千葉中学校英語教師を辞めた畔上賢造で、大正8年(1919)氏が内村鑑三の助手となって上京するまでの7年間、第1、第3日曜日には休みなく続けられました。
内村が1907年夏、鳴浜で開かれた夏期懇談会を前に海保のために贈った色紙には、
少なく愛せよ永く愛せよ。余は君の師に非ず、君の友人なり。君と等しく主キリストの血によりて救はれし者なり。キリストに依る友交にあらざれば永久ならず。君此ことを心に記めて忘るゝ勿れ
と記されているように、これを機に一層親交を結び、内村とその家族は毎年のように海保家で夏を過ごし、しばしば講演会を開きました。
内村に対する海保のキリストにある愛は熱烈で、信仰的交わりは師の死に至るまで続きました(当時、海保53歳)。その後20余年後の自身の死(昭和28年6月30日、享年77歳)に至るまで、キリストの福音のよき証しとして実をむすびました。
海保は伝道に熱心でしたが、自ら聖書を講じて福音を植え付けるというよりは、内村はじめ、賀川豊彦、小原国芳、本間俊平ら、多くの伝道者を招いて福音を聴くとともに、郷土に精神文化を導入する機会をつくることに努めました。氏が全生涯を通じて支払った経済的負担や実際の労力や精神的労苦は大変なものであったと思われます。
海保の周りには、椎名理一(蓮沼村)、子安大助(正気村)、花沢正二(山辺村)、富助一(東金町)ら共鳴する多くの教友が協力しました。このほかに青年会や婦人会有志が参加し、片貝では日曜学校を開くにいたったのです。
なお、昭和8年(1933)56歳のとき、縁戚の工学博士・田中龍夫の汎神論を擁護し、山武教友会を退会しています。
(2)農業指導者としての海保竹松
海保竹松は農村改革の先覚者のひとりで、早くから産業組合、教育事業、耕地整理、農業改革に参画し、また村長として村政にも携わったのです。
明治41年(1908)10月には33歳で、鳴浜村村長に就任(8代目、明治44年10月まで3年間)、明治43年(1910)には鳴浜村本須賀・作田耕地組合長となり、60町歩の湿地耕地改良事業を完成させました。さらに翌年(1911)にはデンマーク農業に学び、鳴浜信用販売購買組合を設立し組合長。大正元年(1912)には南郷鳴浜耕地整理組合長となり、30町歩の湿地潅水事業を完成させ、この地の農業生産は著しく向上しました。大正4年(1915)11月(39歳)には再度鳴浜村村長(10代目。大正8年まで前後7年間)を勤めました。
大正12年(1923)(47歳)には鳴浜信用組合を発展解消して、1口50円、組合員450名で鳴浜信用販売購買組合を設立し、翌年4月には利用部を併設し、東総信用販売購買利用組合としました。さらに大正14年(1925)6月には同組合は事務所を含む本屋100坪、庇(ひさし)68坪の鉄筋コンクリートの農業倉庫を新築、販売・購買・利用をさらに充実させたのです。
大正15年4月15日(50歳)、第一倉庫落成一周年に招かれて講演した内村鑑三は、日記に「禁酒の勧めと宗教による精神修養の道を説いたが、集まった農民たちから不評を買い、村落に自分の価値が少ないことを思い知らされた」と記しています。
昭和9年(1934)(57歳)、2階乾繭倉庫(100坪)、1階米倉庫(100坪)を兼ねた鉄筋コンクリートの第二倉庫を新築しています。現在、JA山武郡市成東支所の正面玄関壁面には、昭和38年1月建立の「倉庫由来」の碑が掲げられています。
倉 庫 由 来
当地方は水田地帯で米作を主とし、これに養繭を取り入れ明治・大正・昭和と経過して来た。従って農家経済も之等からの収入によって賄われ米を有利に販売する為に、当地よりも高値に仕切っていた栗山川畔まで手挽車に二三俵積んで一日かけて行った。当地町長として町政に没頭し模範町を建設した今関寛氏は米の有利な販売について思考していた。たまたま産業組合の先覚者であった交友海保竹松氏に謀った所、氏は言下に、「産業組合を組織して農業倉庫を設け、共同販売を行うべきだ」と答えられたと言う。そこで今関氏は成東町外九か町村有志と熟議して東総信用販売購買利用組合を計画し、大正十三年四月三十日設立認可申請をなし、倉庫建設に尽力し、第一倉庫は大正十三年六月に最初の鉄筋コンクリート倉庫の建築が成り、次いで昭和七年六月蚕業の盛大であった時、乾繭倉庫として第二号竣工。昭和十年四月米価暴落の時、籾貯蔵倉庫として第三倉庫を建設して現在の偉容を整えた。ここに大正十四年三月十一日臨時総会当時の役員を誌して建設の労を深謝する。
組合長理事 土屋 晴 日向 監事 今井由貴 南郷
仝 安井章作 成東 仝 川島祥嘉 鳴浜
仝 稗田正巳 公平 仝 浦上甚一郎 公平
仝 櫻田 将 豊成 仝 町山覚三郎 大富
仝 平山 恒 南郷 仝 加瀬家信 成東
仝 海保竹松 鳴浜
仝 醍醐 登 大富
仝 高知尾實 睦岡
仝 斎藤敬吉 緑海
仝 土屋勇吉 松尾
仝 佐瀬信久 成東
仝 今関 寛 成東
昭和三十八年一月
作文 椎名正太郎 書 土屋政太郎 刻 杉山石材店
寄進 椎名正太郎
(仮名は、カタカナを読みやすくするために、ひらがなに変えました)
海保竹松は昭和10年(1935)、59歳のとき、27年間勤めた東総信用販売購買組合長を後進に譲りました。この間前期15年間は無給、後半有給になっても普通職員の3分の1しか受けなかったと云われています。なお、後任には長男の隆治氏が組合長に選ばれました。また、同年10月には甘藷加工のために澱粉工場が完成。同工場は戦時中一時中断したものの、戦後の昭和36年(1961)まで継続して多量の澱粉生産を続けました。
5 おわりに
海保竹松は昭和24年(1949)春、73歳のとき脳溢血で倒れ、その後4年半の闘病生活をへて、昭和28年(1953)6月30日に77歳で天に召されました。
当時、東大総長の矢内原忠雄は、海保翁没後一周年に同地を訪れ、鳴浜小学校で記念講演を行い、病魔に襲われた直後(昭和24年)に翁が詠んだ次の3首の歌を引用し、「天に宝を積む者」と題して、次のように話しました(「鳴浜村の一日」矢内原忠雄全集、第26巻、岩波書店。1965年)。
意思弱く愚かな我は一生(ひとよ)経し今も醜き日々にてあるかな
過ぎ来つる一生しのべば何一つ恩恵ならざる無かりしを思ふ
キリストの愛よりはなすものなしと我も小さき衷(うち)にて叫ぶ
「組合長として、村長としての長年公の仕事に携わり、かつ信仰と伝道に熱心なクリスチャンとして惜しみなく時間と労と財を投じ、正義感の強い人として認められた海保翁は、神の前には「意思よわく、愚かな」罪人として自分を自覚し、この世に生をうけてから七十年、信仰に入ってから五十年を経た今でも、なお醜き日々をくり返すという、実に人の心を打つ告白である。地主として、公人として、家庭の父として、そして今半身不随の病床に投げ込まれて、わが過ぎてきた長い一生を回顧すれば、その間に受けた戦い、悩み苦しみ、悲しみの数々が思い出されるが、それらを貫いて流れる唯一の積極的生命は、かかる罪人をあがなうために死に給うたキリストの救いである。我はキリストの救いを得た以上、地上の何物を失うても、これを塵あくたのように思う。わが一生で受けたすべての事が、何一つとして神の恩恵でないものはなかった。喜びにつけ、悲しみにつけ、成功につけ、失敗につけ、すべての事が、相働きて信仰の益をなして来たのである。今わが心に満つるものは、神の恩恵に対する感謝である。…以上が、海保翁の病中吟3首の意味であろう。翁の頌徳碑は倒れる時が来るかも知れない。組合長として村長として翁の功績は忘れられる日が来るかも知れない。翁の土地と財産は失われる日が来るかも知れない。しかし翁がキリストの救いを信ずることによって天に積んだ財産は永遠に失われることはない。キリストを信ずる信仰に由って、翁の生涯は勝利をもって終わったのであり、翁は天国にありて栄光の冠を与えられたのである。…海保家において、鳴浜村において、日本国において、また世界において、翁のかたく信じたキリストの福音の光が照り出で、人々の間に平和と愛が築かれ、正義と協同の精神が実を結ぶように。これがわが海保翁を記念する者のいのりである。」と結んでいます。
海保竹松、なんと雄々しい生涯であろうか。
このレポートは2013年5月の現地取材を基本にまとめたものです。 2017年11月
追記)
2018年8月22日、5年ぶりに再度JA山武郡市農協本所を訪ねました。前回訪問した際、早晩第一農業倉庫を取り壊す予定であると聞いていたからです。
今回現地を訪ねると、大正14年に建てられた第一農業倉庫ばかりでなく、昭和7年に建てられた第二農業倉庫も跡形もなく、すべて駐車場になっていました。さらに、JR成東駅前にあった農協成東支所も建て替えられていて、同所玄関に飾られていた大理石製の「倉庫由来」も取り壊されてなくなっていました。また、同日再度鳴浜支所を訪ね、内村鑑三の肖像画に会ってきました。
矢内原忠雄の講演の言葉ではありませんが、形あるものはいずれ消え去り、永遠に残るのは天に積んだ宝のみ、すなわち信仰のみであることを真に実感させられる思いでした。
なお、上記の内村鑑三の肖像画は、JA山武鳴浜支所の閉所に伴い、2019年9月に今井館教友会に寄贈されました。