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内村鑑三の進路を変えた房州

布良の神田吉右衛門翁

平本 紀久雄


はじめに

2012年9月に東京・学士会館で行われた札幌農学振興会東京支部と北大獣医学部同窓会関東支部主催の講演会で、北大同期の大山綱夫氏(北大文学部史学科卒、現在今井館教友会理事長・北星学園理事長)が「内村鑑三と自然」という講演を行うというので上京し、大山さんと50数年ぶりに再会を果たしました。その折、「内村鑑三が水産伝習所を辞めて、キリスト教伝道者・思想家に転身した動機を与えたのは房州布良の神田吉右衛門という人物であると内村自身が書いているが、神田なる人物についてなにか資料がないか」と、問われました。

早速資料探しを始めたところ、館山市布良の富崎小学校(現在、閉校中)入口に大きな顕彰碑「神田君碑」が建っています。碑文には明治44年8月と記されていますが、実際は1913(大正2)年6月に建立されたものです。この碑が建立された際に、神田氏の業績を表した数枚の絵葉書がつくられ、そのうちの1、2枚のコピーが現存します。

また、大正末期に安房郡教育会発行の『千葉縣安房郡誌』に神田氏の略歴が記されていることが判明しました。

上記のことを布良在住の元船大工の豊崎栄吉さんを尋ねたところ、「数年前に神田氏の親類先から館山市立博物館に古文書や写真などが寄贈された」ことを教えられ、同博物館が所蔵している布良地区関係の古文書を閲覧させてもらいました。それらの資料は書庫に積み置かれたまま未整理のままでしたので、博物館の許可を得て神田氏関係の文書を見つけ次第、片端からカメラで写し取って解読を試みました。そこで神田氏に関する貴重な資料を何点か見つけましたので、その概要を報告します。

本調査のきっかけを与えて頂いた今井館教友会理事長の大山綱夫氏、資料や情報を提供された豊崎栄吉氏、大場俊雄氏ならびに館山市立博物館の方々に謝意を表します。


水産技師・内村鑑三が伝道者・キリスト教思想家に転身した動機

内村鑑三は、明治・大正・昭和初期に日本を代表するキリスト教思想家・伝道者、北大が誇る大先達であり、わが国近代史に必ず出てくる人物です。著者は、「鎌倉仏教を代表する日蓮・法然・親鸞に勝るとも劣らない宗教家」と思っています(内村も彼等を尊敬していました)。

内村は一高教育勅語不敬事件・足尾銅山鉱毒事件・非戦論などをとおして日本の近現代史に名を残し、いまも多くの人々に影響を与えています。そして、戦後の日本の民主教育形成にもっとも貢献したのが、南原繁や矢内原忠雄といった内村の薫陶を受けた愛弟子たちでした。

札幌農学校(二期生)を首席で卒業した若き内村鑑三は大変な秀才でしたが、また大変悩める人でした。卒業後、内村は北海道開拓使や農商務省に勤めて水産調査を担当し、北海道・千歳でサケマス孵化場を開設し、人工ふ化の道をひらいた一期生の伊藤一隆と並ぶわが国水産研究の魁でした。内村がずっと水産学に関わっていたら、恐らく日本を代表する水産研究者になっただろうと、よく云われます。

以前、著者の恩師、時田郇(じゅん)先生(故人)に、「なぜ、内村や伊藤一隆は水産を捨てたのですか」と尋ねたことがあります。先生の答えは、「漁業界や役所の腐敗にたえられなかったからだよ」でした。

ところが、冒頭で紹介した大山綱夫さんから、「内村が水産伝習所の教師を辞め、教育者・伝道者に転身した直接の動機は房州の神田吉右衛門という人物の一言だと、自身が繰り返し述べている。内村の心を動かした神田とはどんな人物か調べてもらえないか」と依頼されたのです。

1888(明治21)年9月、アメリカ留学から帰国した内村鑑三は開校したばかりの新潟の北越学館に教頭として招かれましたが、すぐに米国宣教師と衝突して辞めてしまいます。翌年3月、伊藤一隆ともども、発足間もない水産伝習所(当時、大日本水産会所属。現在の東京海洋大学の前身)の魚類学・生物学教師として招かれました。所長は、のちに館山で漁業会社や水産製造所を興した関澤明清でした(関澤は明治30年1月に館山で亡くなり、館山市北下台に大きな顕彰碑が建てられています。関澤明清碑建立の地元発起人代表は、外ならぬ神田吉右衛門です)。

1890(明治23)年8月、29歳の青年教師内村鑑三は、生徒を引き連れて房州白浜で伝習所一期生の魚類解剖実習の指導を行いました。実習の合間に数キロ離れた富崎村布良・相浜にマグロ延縄(はえなわ)や地引網などの漁業実習に行き、そこで当時村収入役の神田吉右衛門(当時56歳)という漁業家に出会ったのです。このことは、同年9月10日付で有力なマグロ延縄漁業船主の小谷喜録あてに出された水産伝習所長関澤明清の礼状ならびに神田吉右衛門日記(以下、神田日記と略す)の発見で明らかになりました。

なお、小谷家は1904(明治37)年に明治期を代表する洋画家・青木繁が若き日に滞在して描いた「海の幸」(現在、福岡県久留米市の石橋美術館蔵)の舞台となった家で、現在館山市指定有形文化財として保存・公開されています。

内村鑑三が布良で神田吉右衛門に会った経緯について、内村自身は次のように語っています。

「…忘れもせぬ予が本職として従事せし実業をなげうったのは明治二十三年の夏、ちょうど今頃でたまたま漁業調査の為房州に出張した時のことであった。当所に神田吉右衛門と呼ぶ老人があって毎夕二人で種々の雑談を試みた。然るに或夜の事神田老人切に嘆息して幾許鮑魚の繁殖を図っても、幾許漁船を改良し新奇の網道具を工夫しても彼等漁夫共を助けてやることは出来ぬと熱心に話し出した。予は甚く為之に脳漿を刺激された。この事について深く考え込んで居た最中にこんな談話をきかされては堪らない。予は忽ち或決心を強めたのである。それと同時に今迄の職業に何だか張合がなくなってきて空気を打つ様な気持がした。如何にも漁夫の生涯程不憫極まるものはない。今年は大漁だから定めし裕福にならうと思って居ると鮭魚が網に入れば、直ぐそのまま料理屋へ駈け込んで一夜に百も二百も費やすといふ始末、儲けた金銭で借金を払はう心掛けもなければ貯蓄しやうと云ふ考も無い。名案、新法、大骨折、大利益、是等は凡て皆彼等の放蕩を増長せしむるばかり。東西至る処の海辺、鯡捕り、鮑捕りいずれも絶望の状態であった。ここにおいて予は斯かる者どもに金銭を与ふるのは却って国家を貧弱に陥る源ではないかとの疑問を起こした。それから越後や佐渡島も巡回って見たが何処も同じ秋の夕暮、いつも同感慨同結論に達した。予は最早実業を遣るべき勇気を失ってしまったのである」と述べています。(「余が聖書研究に従事するに至りし由来」 1901年、『内村鑑三全集』 第9巻)。

また、札幌の農科大学講堂での講演で、こうも話しています。

「房州布良村に神田吉右衛門という、実地に関しては日本に有名なる漁師がいました。彼が云うには、『内村さん、改良も良いけれど、何よりも先に漁師を改良しなければ駄目ですよ』と、ずばり云いました。これを聞いた私はなるほど左様だと思いました。これが私が水産科をお暇乞いした理由であります。農業におけるもこれと同じ理であります。法律や改良法は具わっても、農民の心を動かさなければ駄目であります」と(「農業と基督教」 1912年、『内村鑑三全集』第20巻)。

神田日記によると、明治23年(1909)8月16日、「内村鑑三氏外伝習所生徒拾名、本日より滞留の趣、申し来る」と記されており、3日間同地でマグロ延縄漁の実習を行っており、同月18日内村に村漁場図及び漁業網を貸し出しています。

8月23日隣接する平砂浦(へいさうら)に米国漁船が座礁する事件が起こり、内村鑑三は通訳として狩り出されたのです。同日の日記に、「米人故通弁言不通。依て伝習所教員内村鑑三氏へ頼めり。同氏平砂浦坂井へと出張。米国船尋問あり。国元を本年一月出航す。鯨漁オートセイ等の漁船と申す事。乗組人十八人、外一名乗せ来たれりと云う。一人横浜へ出行の由なり」と記されています。

内村は翌24日と翌々日も呼び出され、米国漁船遭難救助のために通訳として働きました。さらに8月26日には隣接する相浜地区で地引網の実習を行い、小鯛を大漁して内村や生徒たちは満足して午後3時に白浜に帰ったと記されています。そして同26日夕、内村は生徒たちよりも一足早く帰京するために、再び布良を訪れ、暇乞いにやって来ます。日記に、「水産伝習所教員内村鑑三氏は・・帰京の向きにて暇乞いに・・あり」と記されています。おそらく辞表の決意を決めた上でのことでしょう。

このように、内村鑑三と神田吉右衛門の交流は半月足らずと云う短期間であったにも拘わらず、途中米国漁船の遭難と云うハプニングがあったにもせよ7日間も行動を共にしており、この間に頻繁に意見交換を行っていたことが読み取れます。

内村は8月27日に帰京、直ちに水産伝習所に辞表を提出し、翌月(1890年9月2日)付けで第一高等中学校の嘱託教員になるのですが、半年後の1891(明治24)年1月、発布されたばかりの教育勅語にお辞儀をしなかったという理由で歴史的に有名な不敬事件を起こし、日本国中から国賊と罵られ、職を追われたのです。

後日談になりますが、失意の中にあった内村鑑三は、翌1892(明治25)7月に千葉県上総・竹岡村村長鈴木六郎右衛門・一(はじめ)親子に招かれ、約1か月間滞在して農漁業に関する講演や聖書講義をする中で、主の十字架による贖罪信仰をゆるぎないものとしていったのです(『求安録』、「楽園の回復」1893年、『内村鑑三全集』第2巻参照)。

一月後、村長はじめ村の有力者が入信し、内村の送別会の席で「天羽基督教会」の設立が決定され、8月28日に最初の主日礼拝が行われました。内村の説教は、「わたしは福音を恥としない。福音は…信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」(ローマの信徒への手紙1:16)で、文字どおり内村の送別説教になったのです。内村鑑三立案の天羽基督教会「信条および規約」はW.S.クラークが札幌農学校で起案し、内村ら生徒が署名した「イエスを信ずる者の契約」と同様なものであったと云われています。


館山市富崎(布良・相浜)と云う土地

房州富崎村(布良・相浜)は房総半島南端の太平洋に面した狭隘な土地の純漁村で、漁業栄えた明治期の人口は約4500人でした。温暖な無霜地帯ですが、冬春季に西寄りの強風が数日吹き続く土地で、たびたび大火があり、1876(明治9)年、布良は全村大火に見舞われました。

明治以降、布良・相浜の主要産業は漁業のみで、そのうち布良区はマグロ延縄漁業とアワビ漁業が中心でした。明治中期、布良のマグロ延縄漁業は日本一と云われ、また鮑漁では明治初期から神田吉右衛門の提唱で私有を廃して村営とし、潜水器を導入した器械潜水採鮑業に転換させました。その推進役が神田吉右衛門でした。一方、相浜地区には延縄漁業は存在しましたが、地引網や八手(はちだ)網などの網漁業が主流でした。

明治中期、布良には70数隻の鮪延縄漁船が存在しましたが、海難事故が頻発し、いっぺんに10人以上の漁夫が死亡するような危険極まりない漁業であり、鮪延縄漁船は俗称「布良(めら)の後家船(ごけぶね)」とも呼ばれていました。その後、神田吉右衛門が亡くなって15年後の大正半ばにまったく衰退してしまいました。

現在布良には、当時の延縄船頭たちの心意気を唄った民謡「安房節」が残っているのみです。

また、器械潜水による採鮑業は80年以上も続き、村の経済を潤しましたが、第2次大戦後次第にアワビ資源が減少し、昭和40年代初め(1965〜70年)頃に終息しました。

現在(2013年)の富崎地区の人口は布良・相浜合わせて約1000人で、明治全盛期の4分の1以下に減ってしまい、漁船数は小型釣り漁船21隻(うち専業17隻)に過ぎません。


神田吉右衛門翁の数々の業績

神田吉右衛門(幼名、三治郎)は1843(天保5)年に布良の素封家「志満家(しまや)」、満井武兵衛の次男に生まれました。若き日に館山の儒学者で幕末に館山城主となった稲葉候に仕えた新井文山に学びました。25歳のとき神田家の婿養子となり、神田吉右衛門と名乗りました。彼は早くから村のリーダーとして頭角を現しています。以下に、彼の業績の概略を記してみましょう(付表参照)。

器械潜水器採鮑業の村営化 1873(明治6)年には磯根アワビの売買の私有を廃して村の共有とし、収益から義捐金を募って前年発足した尋常小学校の学資援助を行いました。

1882(明治15)年、新たにイギリス製の潜水器械を購入した採鮑業を私有から布良区経営として、年間1,000円(現在額に換算すると5,000万円を上まわる)の収益を産みだし、その収益から道路・漁港・水道・校舎建設・奨学金その他の公共事業に支出し、残りを村有財産としました。このことは、当時としては画期的な出来事です。

1890(明治23)年の第3回内国勧業博覧会および1895(明治28)年の第4回同博覧会に明鮑(干鮑)を出品し、それぞれ3等有功賞を受賞しています。

同時期、外房大原地区でも器械潜水器による採鮑業が開発されていましたが、いずれも少数の地元有力者が独占し、地元漁協が経営するに至ったのは第2次大戦後のことです。

大火被災救助とコレラ伝染防除 1876(明治9)年11月、大火により全村焼失した際には、自身も被災したにも拘わらず、奔走して官庁より資金を借り受け、全村民を飢えや寒さから救いました。また、1879(明治12)年8月、村にコレラが蔓延した際には、身を挺して療養看護や予防に奔走し、患者を病院に隔離して疫病の伝染を防ぎました。

漁業組合長、村長として 1885(明治18)年に漁業組合が開設されると安房水産組合第6番組(館山市相浜〜白浜町乙浜)頭取となり、直ちに「鮪漁同業者遭難救助積立規約」をつくり、相互扶助の道を開きました。同年「藍綬褒章」が下賜されました。のちにより広域の「安房南海漁業組合」副頭取・頭取となり、1895(明治28)年には帝国生命保険会社(社長は同郷の福原有信、「資生堂」創立者)と協約して、短期保険加入の道をひらきました。

1889(明治22)年、布良地区と相浜地区が合併して富崎村になると、収入役・助役になり、さらに1893(明治26)年には村長に推され、1899(明治32)まで8年間務めました。この間、給与を受け取らず、役場事務の合理化を図ったと云われています。

このような人物でしたから、1890(明治23)年8月、水産伝習所生徒の漁業実習に引率して布良を訪れた生物教師・内村鑑三と出会い、前述のように内村の進路変更に決定的な影響を与えたのでしょう。

1896(明治29)年にはマグロ延縄漁の遭難事故を軽減するために、「船頭認定制度」を設け、さらに同年9月には富崎村長として村長以下、区長・勧業委員・区議・延縄船主・同船頭ら併せて80〜100人規模の「水産談話会」を原則年1回ひらき、遭難防止対策・新漁法の工夫・水夫雇い入れ契約報告の徹底・公的船頭資格制度・給与額の確認・賭博禁止と罰則(発覚したら1年間船頭資格停止)などが話し合われ、会議で村長が積極的に発言しています。この談話会は翌1897(明治30)年、1900(明治33)年にもひらかれ、その議事録は現在も保存されています。

神田を中心とした努力によって、「布良のマグロ漁は全国の覇者」として名を馳せました。1897(明治30)年には、布良の船大工・豊崎政吉が考案した「改良鮪延縄漁船のひな型模型」は神戸で開催された第2回内国水産博覧会に出品され(神田吉右衛門日記、明治30年10月27日)、宮内庁御用品となり、翌1898年にはノルウェー・ベルゲンでひらかれた「万国漁業博覧会」に出品されました。その後この漁船模型は札幌の帝国大学の水産陳列館に保存された」と富崎村漁業沿革史(1924)に記されていますので、筆者は上野元一ら(1969)がまとめた北大水産学部水産資料館所蔵の五反型釣漁船(俗称、やんのー)がこの模型ではないかと想像をたくましくしています。

この頃、布良には全国から講師依頼があり、また多くの漁業実習生が布良に学びに来たと云われています。

なお、船大工・豊崎政吉をモデルにした児童文学書『鬼が瀬物語』(くもん出版、2004〜2008年)4部作が、岡崎ひでたか(小林豊・画)によって書かれています。

2013年、東京・築地魚市場の初競りで青森県大間に水揚げされた1尾220kgのクロマグロが1億5540万円となり話題になりましたが、この地方のマグロはえ縄漁業のルーツは房州布良にあったと云われています。

1902(明治35年)1月11日、病を得た神田吉右衛門は69歳で亡くなりましたが、同月13日に地元布良の龍樹院で執り行われた葬儀には、村内外の有力者のみならず、学童から大人まで数百名の弔問客が集まったと記録されています。


おわりに

館山市布良・相浜(旧富崎村)は外房白浜に隣接する純漁村であり、進取の気性に富んだ土地柄で、人工心肺装置開発者の青木利三郎(紫綬褒賞受賞者)をはじめ、各界で活躍する多くの人物を輩出しています。

その遠因は明治期の卓越した指導者・神田吉右衛門らの働きにほかなりません。神田は漁業家・行政官・村長に留まらず、なによりも熱心な教育者であり、学校整備や奨学金など教育のために多大な施策を講じて村の向上を図りました。

日本を代表するキリスト教思想家・内村鑑三とのかかわりを通して、房州の生んだ偉人・神田吉右衛門翁の業績を発掘できたことを心から嬉しく思います。


(順不同)

1) 山口はま(1990) 館山生まれの儒学者 新井文山 自費出版

2) 大日本水産会(1889) 水産伝習所教師委嘱及解嘱 大日本水産会報告、第85号

3) 大日本水産会(1890) 水産伝習所生徒夏期実地演習 大日本水産会報告、第101号

4) 安房郡富崎村役場(1896) 富崎村布良区水産談話会初回議事録 (館山市立博物館蔵)

5) 安房郡富崎村役場(1897) 富崎村布良区水産談話会第二回議事録(館山市立博物館蔵)

6) 布良区((1900) 水産談話会第三回議事録(館山市立博物館蔵)

7) 神田吉右衛門氏の葬儀資料(館山市立博物館蔵)

8) 神田吉右衛門(1862〜1902) 神田吉右衛門日記(館山市立博物館蔵)

9) 神田辰太郎(1911〜1931) 神田辰太郎日誌(館山市立博物館蔵)

10) 千葉県安房郡富崎村尋常高等小学校(1924) 富崎村漁業沿革史 (1953年、富崎村教育委員会 ガリ版刷復刻)

11) 満井為彦(1926) 鮪鱶延縄漁業調査報告書 富崎村役場 (1953年、富崎村教育委員会。ガリ版刷復刻)

12) 上野元一・久新健一郎・中村秀男・稲葉恭人(1969) 北海道大学水産学部水産資料館所蔵和船模型目録(北海道水産共進会1908年出品漁船模型) 北大水産学部水産資料、第10号

13) 内村鑑三(1980) 求安録 内村鑑三全集、第2巻、岩波書店

14) 内村鑑三(1981) 予が聖書研究に従事するに至りし由来 内村鑑三全集、第9巻、岩波書店

15) 内村鑑三(1982) 内村先生講演集「農業と基督教」 内村鑑三全集、第 20巻、岩波書店

16) 田村幸吉(1995) 布良村鮪縄船考 館山印刷センター

17) 日本基督教団竹岡伝道所(2012) 竹岡伝道所120年の歩み

18) 館山市立博物館(2018) 近代化す

る館山・明治時代の殖産興業展示図


(2018年3月22日再改訂)

18年3月22日 1,546

特定非営利活動法人(NPO) 安房文化遺産フォーラム

旧称:南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム(2008年5月に現在の名称に変更)

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