「運命」を分けたサイパン 1年半で疎開した洲空
海軍にいた庄司兼次郎さん(85)=館山市在住=が昭和19年6月にフィリピンへ出発するまでには、運命の分かれ道があった。サイパン行きを命じられた2月、上官のいじめに耐えかねた同僚から交代を頼まれた。
「もう殺されちゃうよ」
異例だが認められた。サイパンは18年に定められた「絶対国防圏」で中部太平洋の拠点。米軍の進攻はずっと先とみられていた。だが、19年7月に守備隊は玉砕、交代した同僚もその1人となった。
庄司さんの行き先はフィリピン南部のダバオになった。6月10日に横浜で護国丸(約1万500トン)に発電機を積み込んで出港した。開戦から2年半、何度も南方を往復した護国丸は「満身創痍(そうい)。補修しているけど穴だらけ」だった。
当時は現在の中国東北部にいた関東軍の部隊を南方へ移送していた。国内組と北九州で船団を組み、米潜水艦を警戒しながらダバオに到着したのは1カ月後。
護国丸は11月に米潜水艦の魚雷を受けて沈没、300人以上が犠牲になった。
■情報不足と甘い判断
ミンダナオ島のダバオには農業などに従事する邦人が約2万人、陸軍は師団規模で駐留、海軍は航空隊や特別根拠地隊が構えた。
「全然何ともなかった」 若い庄司さんはそう感じた。サイパン陥落を経てもなお、部隊に緊張感は欠けていたのかもしれない。
19年9月。倉庫に並べた物資は「最初の爆撃でみんなやられちゃった。食料、医療品はすべてなくなり、それ以後の食事はトウモロコシが主体」となった。
ダバオはマッカーサー率いる米陸軍がニューギニアから北上していく途上にある。しかし、それまでに圧倒的な戦力差をつけた米軍はミンダナオ島を後回しにして上陸地を中部のレイテ島としてマニラを目指した。
■敵は米軍だけにあらず
本土と南方の資源地帯との海上交通はこの攻勢で遮断され、米軍の戦略目標は達成された。しかし、「アイ・シャル・リターン」(私は帰ってくる)と言い残して開戦初期に米国の植民地だったフィリピンから逃げたマッカーサーにとって、全土の解放は政治的問題だった。
戦争の大局とは別の事情で地上戦が続けられた。ダバオで本格的な戦いが始まったのはマニラが落ちた後の20年4月ごろだった。
フィリピンでの日本人の戦没者は50万人以上。うちダバオ周辺では数万人という。他の南方の島々と同様に、山岳部に追い込まれた孤立無援の戦い。敵は米軍だけではなかった。
「あと3日くらいしかもたないと分かるんですね。死臭が出てくるんですよ、生きているうちに」
庄司さんの周りでは栄養失調が最も多く、マラリアもあった。戦没者のうち戦闘によるのは「4割くらい」という。
■整備兵を養成した洲空
こうした惨状を招いた要因の一つは航空戦力の差だった。その状況を如実に示すような軍事施設が館山市にあった。
17年6月にはハワイからサイパンへの途中にあるミッドウェーで正規空母4隻を失った。その1年後の18年6月になって洲ノ埼海軍航空隊が開隊した。館山海軍航空隊に隣接し、航空機に搭載する兵器の整備要員を教育する場だった。
速成の訓練で兵員たちは前線基地に送り出された。だが、そのころには残った空母も基地も失われ、航空機と搭乗員と燃料は満足になかった。サイパンを飛び立ったB29が19年後半から本土を空襲すると、20年初めに「洲空(すのくう)」は近くの山あいに疎開した。隊員が続けたのは本土決戦の準備だった。
■戦争後半の主な動き
【昭和19年】
6月 マリアナ沖海戦で機動部隊壊滅
7月 サイパン陥落
東條英機内閣退陣
10月 台湾沖航空戦大敗
米軍レイテ島上陸
レイテ沖海戦で艦隊壊滅
【20年】
1月 米軍、ルソン島上陸
3月 米軍、マニラ制圧
東京大空襲
硫黄島玉砕
4月 鈴木貫太郎内閣発足
戦艦大和沈没
6月 沖縄地上戦終了
8月15日 終戦
1.昭和19年6月にフィリピンに行く直前の庄司兼次郎さん
2.洲埼灯台は房総半島の最も東京湾方向へ突き出た先端にある。洲ノ埼海軍航空隊があったところからは車で20分くらい。晴れていると伊豆半島が見える=千葉県館山市