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落下傘、秘密部隊、毒ガス… 戦争を象徴「鬼の館砲」

(産経ニュース2012.12.24)


海軍第129防空隊の庄司兼次郎さん(85)=館山市在住=は昭和20年、フィリピンで米軍と死闘を繰り広げた。

「向こうは、戦車を先頭にやってくる。こちらには1台もない。艦載機から機銃掃射で繰り返しやられる。小銃で1発撃つ間に向こうは自動小銃で数十発撃ってくる。本当に話にならない」

地上戦では戦車の存在と制空権が決定的な差となる。

20年5月に庄司さんは二等機関兵曹(終戦時に一等機関兵曹)となる。「電機班長」とも言うべき立場だ。専門的な技術で士官を補佐する下士官であり、戦時でも早い昇進だった。ただ、全体として人員は不足していた。


■海軍でも地上戦

入隊前は「海軍だから地上で戦うことはない」と考えていたが、海軍で陸上戦闘と対空戦を専門とする教育機関「館山海軍砲術学校」で訓練を受けていた。「知る人ぞ知る」(海自関係者)という館砲は、先の戦争の一つの側面を象徴する存在ともいえる。

海軍に航空戦力を持たせることが戦場に革命をもたらした。海を隔てた島々に航空機の機動力と一体で進出、ときにはそれを守る。新たな任務に応えるのが館砲の目的だった。

ただ、開校は真珠湾攻撃の半年前の16年6月。1万人以上がひしめき、3カ月から1年くらいの訓練を経て、その何倍もの人員が前線に送り出された。一大拠点ではあるが、練度という点で十分だったかどうか。



■密命のもとで特訓

敷地だった館山市佐野の市立房南中学のそばに荒れ果てたプールがある。

開戦直後の17年1月、油田を確保するため海軍はオランダ領東インド(現インドネシア)のセレベス島の空港を攻略、初めて実戦に投入された落下傘部隊が功をあげた。数カ月前、海軍大臣の密命で訓練が始まり、飛び込み台からプールを着地点に見立てた。航空機から実際に降下した時には死者も出たという。

敷地をはさむ東西の丘に訓練用砲台が1つずつ。防空壕(ごう)がいくつも。兵舎や武器庫などが40近く並んだ。校門前の平砂浦には練兵場が広がる。こんな空間に学生、予備学生、普通科練習生、高等科練習生などが集められ、寝食を共にした。少し離れた場所には周辺で訓練する防空隊や陸戦隊が住む「奧兵舎」10数棟があった。

館砲で教員を務めた元海軍少尉による、こんな趣旨の覚書きがある。

《潜水艦で米西海岸に潜入して軍事施設を破壊するため、米国兵に似せた軍装、長髪として300人の部隊が近くの海岸で夜ごと訓練に励んだ。その異常さで秘密部隊が公然の秘密となってしまった。潜水艦が利用できず結局は不発に終わった》


■温かな心遣い

館砲付となった庄司さんも19年6月にフィリピンに向かうまでの3カ月間、訓練に励みながら士官の食事の世話をする係もしている。庄司さんは「館砲には毒ガスを研究する建物もあった」と証言する。

館砲は終戦直前の20年7月に閉鎖された。館山市が平成15年にまとめた調査に神奈川県に住む男性がこう答えている。

「猛訓練は容赦なかった。しかし、訓練より音をあげたのは空腹だった。外出が許可されると、近くに点在する下宿で白米と鮮魚が食卓に並んだ。温かな心遣いがなかったら思い出は鬼の一字になっていた」

田畑に農家が点在する一帯に、今も館砲のボイラー施設跡が残る。そのレンガのくすんだ色が往時をしのばせる。(羽成哲郎)


1.館山海軍砲術学校の見取り図=海上自衛隊館山航空基地

2.大戦中に館山市にあった主な軍事施設

3.館山海軍砲術学校の記念碑=千葉県館山市

4.館山海軍砲術学校のボイラー施設跡=千葉県館山市

5.館山海軍砲術学校のボイラー室跡=千葉県館山市

6.館山海軍砲術学校のボイラー室跡=千葉県館山市

7.現在は遊歩道ができている平砂浦の一帯。かつては練兵場だった=千葉県館山市

8.館山海軍砲術学校の落下傘降下用訓練プールの跡=千葉県館山市

9.館山市立房南中のわきの道。かつては館山海軍砲術学校の敷地内の道路だった=千葉県館山市

10.かつて館山海軍砲術学校があった近くの丘の上から大島がよく見えた。数えると大島も含めて5つの島の影があった=千葉県館山市

11.館山海軍砲術学校の降下用訓練プールの跡=千葉県館山市

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