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身近な地域教材から学ぶ平和・人権学習とウガンダ支援

≪人権ストーリーコンテスト作品(2005年):一般部門「身近なことから考える人権」≫


【石のさけび〜「噫従軍慰安婦」の碑】

千葉県館山市の婦人保護施設「かにた婦人の村」(以下「かにた村」)の丘の上には、「噫従軍慰安婦」と刻まれ、天を突き刺すようにして建つ石碑がある。

「軍隊のいるところには慰安所がありました…。私たち慰安婦は、からだを洗うひまもなく相手をさせられ、死ぬ苦しみ。なんど兵隊の首を切ろうと思ったかしれません。死ねばジャングルの穴に捨てられ、…私はこの目で見たのです、女の地獄を。戦後40年たって、兵隊や民間の人は祀られるけど、私たちのことは誰も声をあげません。祈っていると、かつての同僚の姿が目に浮かびます。どうか鎮魂の碑を建ててください。それが言えるのは私だけです。こんな恥ずかしいことは誰も言わないでしょうから…」

日本人としてただ一人、このような体験を語った城田すず子(仮名)と、社会から見捨てられた女性たちの救済に命を賭けて生きた深津文雄牧師によって建立されたこの碑は、世の中に大きな波紋を呼び起こした。

「かにた村」の丘から眺望できる海上自衛隊館山航空基地は、戦時中、館山海軍航空隊として全国屈指の実戦訓練部隊であった。東京湾要塞地帯として重要な役割を担っていた館山には、今なお多くの戦争遺跡が残っている。昨年立ち上げたNPO法人南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム(現NPO安房文化遺産フォーラム)では、全国から館山を訪れる団体の平和・人権学習支援として、戦争遺跡やこの碑のガイドをおこなっている。


【「城田すず子」という女性】

すず子は、1921(大正10)年、東京深川の裕福なパン屋で長女として生まれた。母を亡くした後、家業は破産し一家離散となり、借金のかたに17歳で神楽坂の芸者屋へ子守奉公に行った。そこで最初に水揚げされた社長から性病を移され、転売された後、戦争とともに従軍慰安婦となっていった。南方の島々では、ジャングルにカーテン1枚を隔ててしつらえた慰安所には朝鮮人を含む女性たちが集められていた。すず子は台湾、サイパン島、トラック島、パラオ島を経て、空襲に逃げまどいながら九死に一生を得た。

終戦とともに米兵相手の娼婦になる。自暴自棄なその日暮らしのなかで、自殺や心中を繰り返しながらも死の淵から蘇り、からだを張って戦後を生きてきた。30歳を超えた頃、夜学を出て看護婦の勉強をしていた妹が自殺したことに衝撃を受け、夜の世界から足を洗いたいと願う気持ちがはじめて芽生えた。

すず子が矯風会婦人福祉施設「慈愛寮」の門をたたいたのは、1955(昭和30)年秋、売春防止法が成立する前年であった。教会の礼拝にも通いはじめ、祈りのなかで「一人前の人間になろう」と心に誓う。この頃体調を崩したすず子は子宮摘出となる。入院の朝、念願だった洗礼を受けた。しかし生きる道が見つからずふたたび転落しかけた1957(昭和32)年初秋、すず子は絶望のなか、東京都板橋区の「ベデスダ奉仕女母の家」を訪ね、ここで深津文雄牧師と出会うことになる。ベデスダは「あわれみ」を意味し、「かにた村」の前身である。


【牧師・深津文雄の「底点志向」】

1909(明治42)年、深津文雄は福井県の日本基督教会敦賀教会の初代牧師の次男として生まれた。2歳で兄を、3歳で母を亡くした後、父の植民地伝道について台湾、満州とわたり、11歳で父をチフスで亡くした。貧しさのなかで誰にも感謝されずに死んでいく父の思いを忘れまいと強く思った。しかし、牧師の子どもであったことで「ヤソ!シンジン!(耶蘇、信心)」と石を投げられ、牧師になることを嫌っていた。

1927(昭和2)年、旧制一高の受験に失敗した深津は神の声を聞き、即座に父の母校である明治学院神学部へ向かった。すでに入試が終わっていたものの懇願し、受験が許され合格した。1930(昭和5)年、軍国主義の嵐のなかで明治学院神学部は分離され日本神学校となり、翌年に満州事変が始まった。幼いときから台湾や満州で植民地住民の惨めさを見てきた深津は、日本の帝国主義的な侵略行動をはっきり否定した。両国間に割って入り、平和をつくる反戦義勇軍ができれば、命を賭けてやってみたいと真剣に考えていた。

卒業後、聖書研究を続けるなかで「今の社会がこのように誘惑にみち、強いものが勝ちの社会であるかぎり、かならず独りで生きていけない犠牲者がでる。その人のためには、どうしても広い別天地が要る。それさえあれば、このような悲惨は繰り返さないですむ」と考えた。さらに1937(昭和12)年に来日したヘレン・ケラーに出会い、「古い時代には、強い人は弱い人を踏み越えて前進しましたが、新しい時代には、強い人が弱い人の手をとって一緒に進まねばなりません」という言葉に大きな影響を受け、生涯の決意を固くした。

対米英戦争の勃発とアジア太平洋戦争のなか、平和のための有効な方法を見出すことができないまま悩んでいたが、深津の教会には身寄りがなく迫害された朝鮮の人々がよく集まっていた。学生のいない寄宿舎を生活の場に提供したり、お互いの乏しい食糧を分かち合う共同生活をした。

深津を支えたのは、ドイツの牧師テオドール・フリートナーのイエス的実践であった。「もっと小さいものにしなければ、私にしたことにならない」という神の言葉に添って、独身・服従・無所有を誓ったディアコニッセ(奉仕女)を従え、社会の底辺の、また下の底点に目をむけたフリートナーの実践を、深津は「底点志向」と表現した。「底辺よりもさらに下の底点にいる売春婦に転落せざるを得なかった女性たち」の更生と救済の事業に、日本初のディアコニッセとなった天羽道子とともに立ち向かっていくことになる。


【生きる喜びを生み出す「コロニー」の誕生】

日本では長い間、公娼制度のもとで売春がおこなわれていた。明治以来の廃娼運動はあったが、売春婦の救済には手を焼いていた。1956(昭和31)年、売春防止法が成立した。この法律は国家による売春を否定したものだが、根本的な売春婦の更生や救済とはいえなかった。要保護女子とよばれる女性たちのなかには、どうしても社会復帰の難しい者がいる。戦後日本の貧困という現実のなかで、不道徳というだけでは、売買春問題の解決は困難であった。だからこそ、困難な事業に立ち向かっていくディアコニッセ運動の独自な課題になると考え、「コロニー」建設に向けて歩み始めた。

そして1957(昭和32)年初秋、城田すず子が訪ねてきた。深津は行政の厚い壁をたたきながら、「コロニー」開設の援助を訴え続けていた。翌年、大泉学園町に小さいながらも婦人保護施設「いずみ寮」が完成した。一番喜んだすず子だったが、3ヵ月後に風呂場で脊椎骨折をし、以来6年半にわたる入院生活となる。「生きる値打ちがないように思われる人間でも、息をしているかぎり、その生を楽しむ権利がある。…弱者の楽園をつくりださねばならない」と語る深津の言葉に、すず子は深く賛同し「私みたいな境遇の者のために、みんなが力を合わせてパンを生産し、それによって自活する工場とコロニーがほしい」と夢を語った。

それから4年間、深津は賛同者を求め、国会や厚生省への陳情に明け暮れた。その間、12歳の末娘が膠原病となり、長期入院の病床で「雪のない暖かいところがいい」とコロニーの開設を願っていたが、実現を待たずに夭逝した。深津牧師は国有地払い下げの運動を続けた。1962(昭和37)年、やっと手にしたのは館山市の旧海軍砲台跡というひどい土地であった。しかも資金問題をはじめ、難題が山積していた。総事業費1億円のうち、国の補助金はわずか1,130万円にすぎなかった。深津は命をすり減らすほど走り廻った。矯風会の久布白女史が募金活動の先頭に立ち支援してくれ、ドイツのベデスダに属する7,000人の奉仕女たちが奔走し3,000万円近く資金を集めてくれるなど、世界の人々がコロニー建設に向けて手を差しのべてくれた。

こうして1965(昭和40)年4月、亡き末娘の遺言どおり温暖の地・館山に、社会福祉法人ベデスダ奉仕女母の家「かにた婦人の村」が開かれた。「かにた」とは近くの山間を流れる小川の名前である。

ここには、今までの施設のような高い塀や鍵のかかった門、監視のきく構造、あるいは厳重な罰則はない。一時的な短期保護施設とは異なり、社会から見放された女性たちが終生ここにいることになる。心を癒し人間性を回復するためにも、本人の自主性自発性を待った。編み物、農耕園芸、調理、陶芸、製菓、畜産、洗濯、購買、看護などの仕事が生まれ、そのなかで女性たちは本当の働くことの喜びをつかんでいった。自分で生産したものを自分で消費するなかで、自分が欲しいものは真心をこめて作るようになった。この村では、役に立たないと思われた人が役に立ち、生きている意味を与えられ、新しい人間観が生み出されていったのである。

深津牧師のいう「底点志向」とは、いつまでも底点として存在することではなかった。ひとたび底点に到達したら、それを速やかに底点でないものに変化させることであり、さらに社会全体の変化に波及させることが求められた。「かにた村」の理念と実践は、つねに地域や日本、そして世界にひらかれていた。婦人保護事業では、実績でも日本での先駆的役割を果たし、また地域の福祉運動や平和運動にも積極的に参加している。


【「噫従軍慰安婦」の碑は訴えつづける】

そんななかで、すず子は二度の危篤を乗り越え、手厚い介護を受けていた。車椅子の彼女には作業らしいことはできなかったが、編み物、陶芸、製菓に精をだし、本もよく読み、色々な人々にも手紙を書いた。牧師や奉仕女たちの献身的な指導は、すず子に心の平安と生きる喜びを与えた。ともに生きるなかで心の奥の襞をもさらけ出すようになり、20年後、衝撃的な告白をすることになる。

「二度と従軍慰安婦という女性を生み出してはいけない」という願いと日本人を代表する謝罪をこめて、建てられた碑には「噫従軍慰安婦」とだけ刻まれた。「噫(ああ)」というのは「苦しみのあまり、声にならない」という意味をもつ。

次第に、朝鮮・韓国の人々がこの碑を訪れるようになった。韓国で従軍慰安婦問題に取り組んでいた梨花女子大学のユン・ジョンオク教授は、この石碑を定点として日本やアジア各地の掘り起こしを進めていた。その結果を発表した『ハンギョレ新聞』の記事は韓国内に反響を呼び起こし、韓国KBSテレビのドキュメンタリー番組『太平洋戦争の魂〜従軍慰安婦』制作につながった。

番組は、すず子の衝撃的な証言から始まり、従軍慰安婦の歴史的事実にふれ、日本各地の慰安所跡を丹念に追った。最後に「噫従軍慰安婦」の碑の前で、深津牧師が石碑建立の経緯と謝罪の言葉を述べ、従軍慰安婦であった人が名乗り出ることを強く願い、番組をしめくくった。元従軍慰安婦としての勇気ある証言は「かにた村」からアジア世界へ発信され、日本国内や世界の良心的な人々の共感を呼び起こし、大きな運動になっていった。

「もし生まれ変われるなら、普通のお嬢さん、普通のお嫁さん、普通のおばあちゃんになって、孫に囲まれて生きてみたい」と笑顔で語ったすず子は、1993(平成5)年、71歳の人生を閉じた。内臓はぼろぼろに病んでいたが、安らかな死に顔であったという。2000(平成12)年に逝去した深津牧師とともに、村の会堂の地下にある納骨堂に眠っている。


【地域教材から高校生は何を学ぶか】

千葉県立安房南高校という女子校の世界史教諭であった私は、身近な地域から見えるこの世界史的出来事を、現代社会の授業教材としてとりあげた。従軍慰安婦問題は生々しい事実である。性に関する問題を含んでいるので、自己と他者の関係を鋭く問うものに向かう。あまりにもショッキングの内容なので、生徒たちの見解には多様で個性的な意見がでるであろう。判で押したようなありきたりの「かわいそう」「悲惨だ」という他人事の感想ではなく、「心がこう動かされたのでこのように表現した」とか「こんな自分を発見した」などと、一人ひとりが自己の気づきを表現することをねらいとした。

とくに地域に住む城田すず子の証言記録では、アジア太平洋諸国への侵略行為と女性たちの悲痛な叫びを聞き、生徒たちは強く心を動かされる。「城田さんは大変だったが、今はそんなことがなくて、平和でよかった」という、単純に今日を平和だとみる生徒の認識、過去と現在とを切り離した考え方が、この特別授業をとおしてどう変容するのだろうか。各時間の経過とともに生徒から述べられた感想や洞察は、次のようであった。


(1時間目) 私たちの身近にこんな大事なことがあった

○全く知らなかった。戦争の影でこんなことがあったことに驚いた。

○考えてみれば見るほど、信じられないと思うばかりだ。想像なんかできない。その苦しみは経験した人しかわからない。

○戦争といえば男性が戦場で国のため戦ったというイメージをもっていたけれど、女性もいつどこで死ぬかわからない。男性のため国のためなんて、とても信じられない。誰がこんな事を考え、実行したのだろうか。

○この人たちと似たような人の本を読んだ事がある。こんなつらい事を経験した人々はたぶんに口には出せない。40数年たった今なぜこの問題が取り上げられたのか。やはり慰安婦の人たちの証言や運動がなければ、相手にされなかったかもしれない。


(2時間目) 「城田すず子」さんの心の叫びをきこう

○この人の苦しみを知らなかったら、たぶん軽蔑していただろう。

○戦争の恐ろしい実態を見たような気がした。十代の娘が「兵を慰める」ということで売春をさせられ、戦場で殺されたのに、なぜ兵になって人を殺した人が日本では尊敬され、ほめられているのだろうか。

○実際その経験をした人の話はぞくぞくする。消したくても、消せない過去を持ってしまった人々、訴えることもできず自分の心の中でうらみを持ち続けていたことであろう。

○これを聞いて、すごく生々しくていやになりました。でも城田さんのおかげで私たち戦争を知らないものたちでもこんなことがあったと知ることができた。

○こんなことを40年以上秘密にしておいてよかったのか。もっと早く話さなければならなかったように思える。原爆で罪のない人が何十万死んだのと同じくらい、すさまじいこと。

○昔は国や天皇が絶対だったし何も抵抗できなかったことを考えると、私の頭はくやしくて、ぐちゃぐちゃになりそうだった。「もし自分が」って考えたら、頭の中がパンクしちゃうそう。

○あらたに戦争の悲しみを知った。私だったら絶対に言えないし耐えられない。戦争は誰も彼もが傷ついていく。そして傷ついていくのはいつも民衆なのではないか。

○勇気を出して自分の過去を話したことによって、社会問題へとつながっていった。


(4時間目) 「かにた婦人の村」から世界へ訴える

○言葉でしかわからなかったことをこの放送で深く勉強した。戦争で勝った負けただけではなく、慰安婦問題とかこういう誰でもが隠そうとしていることを次の世代に伝えることが「歴史」だ。だからテレビを通じてこの問題を知ることができて、大切なことを知った。このことを誰かが伝えなかったら、またいつか、これ以上の問題がおきるかも知れない。

○従軍慰安婦のことを家の人に聞いてみたが、一人も知らなかった。今この問題を忘れて日本人は幸せに暮らしている。張本人の日本人が知らん顔をしていいのか。

○初めて授業をうけたとき、館山に「かにた村」があることすら知らなかった。私は今回慰安婦の問題を初めて知りましたが、今の若い人たちはこの存在さえ知らない人が多い。

○日本人の残酷な姿を思い知らされ、とてもつらい気持ちになった。もし私が戦時中に韓国にいて慰安婦として日本兵の相手をさせられていたとしたらきっと恨み続けていたと思う。

○今も後遺症で苦しんでいるというのに、それを知らず平和に今まで暮らしてきた自分達がにくらしく思えてきた。


(5時間目) いま韓国ではどんな動きがあるか

○「私をあのころに戻してください」と泣きながらいった女性。こういった本人の口からでたことばほど頭に入りやすい。私には感想とはいっても、どう書いていいかわからないくらい難しく書き表せないほどの苦しみ、眼をそむけたくなるようなことだけど、これが事実である。過去のことではなく「今」の問題なのだ。

○私たちは一般にテレビを見てかわいそうだとか感情をいうだけで、ちっとも自分から何かしようという気をおこしていない。この問題では、自分から「何か私でもできることがあるかな」と思わなければいけない。

○日本で従軍慰安婦のことをインタビューした時ほとんどの人が、その言葉さえ知らなかった。しかも高校生だと思うけど「それ中国語ですか」と答えたとき、「ばかじゃないか」と思ったが、もしかすると私たちがインタビューされても同じことを言ったかも知れないと思うと、なんか恐ろしくなった。

○原爆や戦後の日本が中心で、朝鮮のことがあまりふれられていない。

○私たちがこの問題についていろいろ考えていくことによって、慰安婦たちへのせめての償いにもなるのではないか。

○日本の政府は必死に隠そうとしているが、韓国の政府や人々はこのつらすぎる過去をきちんと知っている。

○今でもそのことで苦しんでいる人がいるわけだから、ちゃんとに戦争のことを教えてもらいたい。


(6時間目) なぜポンギさんは祖国にかえらなかったか

○私たちは本当に何も知らないないんだと思った。

○「だまされて連れてこられて、知らん国に捨てられてるさね」という言葉。その過去の出来事を一言で述べているような気がする。償いは何も受けずに死んだ。だがこの問題はまだまだ生き続ける。ポンギさんの心の中の訴えも、ほかの女性に手でまだまだ生き続ける。

○戦争が終わっても帰れない、お金もないから売春婦として働いたポンギさんを何一つ日本の政府は助けることさえしなかったなんて最低だ。日本は戦争の責任をとらねばいけない。

○日本人で慰安婦になった女性も苦しい思いをしてきたが、朝鮮の女性はそれよりもっと苦しい思いをしてきたように思える。お国のためとか、天皇のためとかいってだまし、今になって知らん顔をするのはなんてひどいことか。

○私はポンギさんの遺志を自分より下の世代の人たちに伝えたいと思う。従軍慰安婦たちの存在が私たちと今の日本を変えていくものだ。


(9時間目) 従軍慰安婦問題をどう償っていくか

○慰安婦の苦しみは何億つまれても償えるものではない。お金だけで解決しようというのは一番よくない。しかし今に生きる私たちが補償しなければ何ひとつ始まらない。「従軍慰安婦?何それ?」などと日本の国民一人でも言うことのないように、歴史の1ページとして残すべきだ。とにかく私は日本人として、また同じ女として慰安婦たちに償いたい。

○教科書で習ってきた戦争と裏に隠された本当の戦争とはあまりにもイメージが違いすぎる。本当のことを教えてくれなければ謝ることにならない。私たちの先輩がおこした問題だけではなく、やはり日本がおこした問題なのだ。

○過去は今へ、今は未来へと歴史は受け継がれていくべきだ。この問題も例外ではない。戦時中日本がおこなってきたことは、私たち今の世代の人々にも責任がある。

○この問題をやってから、少しずつ考えが変わってきた。「償う」という言葉だけではなく、ほかに何か私にできたらいい。

○ドイツのようにずうっと償わなければならない。日本人は同じ人種でないとひどい扱いをする。アジアとか来ている出稼ぎの労働者に対して低賃金や強制的に扱っている。こういう面でも日本人は償わなければならない。今でもそうなので、慰安婦のことは時効にできない問題だ。

○今の日本はお金を増やすことに夢中になっている。ほとんどの人たちは考えもなくして、お金で何でも解決できると思っている。人の心はお金ではなおせない。

○過去のこととして忘れ去ろうとする事は、日本全体が他国から白い眼で見られる。

○補償となれば今の若い世代が巻き込まれる。どうして関係ない人たちがこのような問題をかかえなければいけないんだ。

○日本が悪いかもしれないが、お金だけで解決するとなると日本は一生お金を払い続けなければならなくなる。そんなことになると今度は日本がダメになってしまう。


まとめとして、この従軍慰安婦問題を通じて「この平和学習からあなたはどのようなことを学んだか」を課題テーマにした。そこでは生徒たちの言葉で、さまざまな平和に対する意見が出された。そのなかの代表的なものをあげる。

○一番強く感じたのは「戦争がなくても平和とはいえない」ということだ。

○日本の本当の姿を知った。過去をみればどの国よりもきたなく思えてきたが、この過去から逃げず、今からでも見直してほしい。

○平和は戦争をしないだけじゃなくて、自分の思っている事を自由に言えたり人種差別で悲しい思いのする人たちもいない、心がやすらいで生活できる事だ。

○平和とは国民一人一人がささえているもので、その国民が自覚しなければいつでも崩されていくものだ。権力者のおごりやたかぶりで戦争が起こるのだ。

○昔よりは平和になったといわれるが、今だってソ連崩壊や湾岸戦争、環境問題など将来何が起こるか不安だ。これも発展のことばかり考えているからではないか。


9時間をかけた従軍慰安婦問題の授業を振り返ると、この授業実践から跳ね返ってきた生徒のレポートに心を揺り動かされた。彼らが心を躍らせたり、怒ったり、悲しみながら学びながら、主体的に授業とかかわるなかでこそ社会科のめざす理念や学力とつながるのではないかと考えざるを得ない。それにしても生徒たちが社会科ぎらいとか、社会的なことに無関心であると決めつけるまえに、教師側の授業内容や問題提起のあり方が無関心にさせていたと問うことがいまこそ必要ではないかと思った。


【生徒会によるウガンダ支援活動】

「従軍慰安婦問題」で自己の生き方を問い始めた生徒たちは、「自分には何ができるだろうか」と考えた。折しも「かにた村」では、1989(平成元)年からウガンダの支援をおこなっていた。「かにた村」では自らの運営も苦労の多いなか、世界の困窮地域へ手を差し伸べているのである。ウガンダでは、内戦とともにエイズという病魔が国を襲い、100万人をこえる孤児を生んでいた。国の未来を背負う子どもたちに夢を与えようと、非政府組織(NGO)「ウガンダ意識向上財団(CUFI)」で活動するセンパラさんという青年は、「子どもたちは…靴や学用品、机や椅子も持っていません。以前あなたが衣料や靴などを送ってくれたとき、私はとても嬉しかった。…再びそれをお願いしたいのです」と深津牧師に支援を懇願していた。

このことを知った安房南高生徒会ボランティア委員会では、1994(平成6)年から「ウガンダの子どもたちを救おう」「ウガンダの子どもたちに夢と希望を」を合い言葉に支援活動を始めることにし、文化祭では支援バザーと、ウガンダでのエイズ状況やユニセフ活動の資料展示をおこなった。バザーの売上げや募金は予想以上の盛況で、後日みかん箱サイズのダンボール28個を館山郵便局より発送することができた。2ヵ月後、日本のNGO組織「アジア学院」の研修で来日中であったセンパラさんは、帰国前に本校を訪れた。

「…私がウガンダと呼ばれる国から来たことはご存知と思いますが、現在人口が1,800万人です。68年間イギリスの植民地支配をうけ、ついに1962年10月9日に独立を勝ちとりました。多くの内戦と民族闘争、それにあらゆる困難に直面してきた国です。この状況下での最も多くの犠牲者は子供たちでした。彼らはこれらのうち続く戦争で両親を殺され、絶望的な状況にさらされました。1986年にスタートしたウガンダ意識向上財団(CUFI)は、これらの恵まれない無力な孤児たちへ、援助の手を差し伸べるよう設立されたものです。…200名にもなる子供らの世話をするには、かなりの資金を必要としています。組織を代表して、これまで私たちに差しのべて下さった物的、精神的援助にどうかお礼を述べさせて下さい。この孤児たちの状況を向上させる努力に、今後もさらにご協力下さいますようお願いいたします。言葉が足りませんが、もう一度ここであなた方のお気遣いにお礼申し上げます。どうもありがとうございました」

センパラさんの心のこもった挨拶は、一同に深い感銘を与えた。この出会いは、これからの草の根の国際交流の面で大きな意味があった。生徒会企画により手作りの歓迎会を行った。生徒の輪の中で明るく振る舞うセンパラさんのエネルギッシュで屈託のないその眼の輝きに、希望をもってウガンダの国作りに関わっている青年の力強い意志を感じたのは、私だけではない。「学校で学びたい」と願う多くの孤児たちに、ウガンダの未来をかける彼の理念に触れ、支援活動がもつ意味を、生徒たち自身が少なからず感じとったようだ。

さらに、その後いただいたセンパラさんの手紙では「…貴校と私のCUFI組織との間に、国際的友好と理解を押し進めるよう努力しながら、将来にはとてもすばらしい協力関係ができるものと期待しております。ウガンダの孤児たちの現状を改善していく意識を高揚するために、我々がともにできることはたくさんあると信じます。…子供たちはあなたがたのことを聞き、また贈り物を手にしたならとても喜ぶでしょう。発展への道は多くの困難をともなう、長い道のりではありますが、私たちはうまくやりとげたいと思います。どうか私たちのことを忘れないでください」というセンパラさんの言葉に、ウガンダの未来を見つめ、どんな困難があっても希望を失わず明るく取り組んでいく決意を感じた。

その後も、卒業生の体育服や運動靴も支援物資に加えられ、校内では「ラブ・アンド・ピース」募金がはじまった。こうして、1996年に第1回目の資金支援としてCUFIに1,000ドルを贈って以来、毎年1,000〜1,500ドルを安房南高校生徒会から贈り続けている。センパラさんからは、「安房南高校生徒会のすべての援助と努力に感謝しております。最もお金が必要としているときにいただきました。縫製作業所とコミュニティカレッジ建設資金にします。子どもたちの教育を支えることができ、大変うれしく思っております」という感謝の手紙とともに、子どもたちの絵がたくさん届いた。この絵と手紙は、生徒会とCUFIの交流を語り継ぐ貴重な資料として、毎年文化祭のウガンダ支援バザーで展示されている。高校生によるこの活動は、生徒会顧問も代わり、地域教材を活用した平和・人権教育が実践されなくなった現在でも、今なお脈々と引き継がれている。


【地球の裏側に、AWA-MINAMI洋裁学校】

2000(平成12)年、由緒ある安房南高校の家政科は、少子化に伴って新規募集を停止した。たいへん遺憾なことであったが、廃科によって使わなくなった足踏みミシンはウガンダに送られ、女性たちの職業自立支援につながった。さらにセンパラさんからは、「貴校の支援に感謝を表わすために、末永く形に残るものを作りたい。…さまざまな事情で学校に行けなくなった若者のため…ひとり立ちができるように、職業技術の訓練として…AWA-MINAMI(安房南)という名の学校を作っている」との報告があり、完成のために資金援助をお願いしたい旨の要請があった。

多くの方々のご協力で第7回ウガンダ支援バザーは大成功し、その収益金から学校建設費用として1,500ドルをすぐに送金した。21世紀を迎えた新年、私たちのささやかな支援資金で建設された「AWA-MINAMI洋裁学校」の完成写真が届いた。

活動は学校だけではなく地域に広がり、1999(平成11)年には数名の卒業生による支援ボランティアグループ「ひかりの」も結成された。しかし、創立100年を迎える安房南高校は、2008(平成20)年、統廃合により姿を消すことが決まっている。高校生が社会を身近な問題として関心をもったことから生まれた草の根の国際協力の火種を消すことのないよう、「ひかりの」を核として地域全体で一丸となり、地球の裏側の「安房南」を支援し続けていくことを願っている。

09年3月21日 13,073

特定非営利活動法人(NPO) 安房文化遺産フォーラム

旧称:南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム(2008年5月に現在の名称に変更)

〒294-0045 千葉県館山市北条1721-1

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