●「従軍慰安婦」をどう教えるか●
『地域の歴史と「かにた婦人の村」の「慰安婦」』
(愛沢伸雄『授業 従軍慰安婦』 教育史料出版会 1998年)
【1】平和学習に地域教材を活用する
高校「現代社会」憲法平和主義学習において、今日的問題となっている「従軍慰安婦」を切り口に、授業実践を試みた。その際、平和主義の意義をしっかりと把握させるために、戦争の事実を心に刻み、平和や人権の問題として自己に迫ることができるもので、生徒たちの気持ちにフィットした地域教材のあり方をさぐった。
ところで、地域の人々の生活や文化に、戦争の傷跡が深く関わっているにもかかわらず、日常気づかないことが多い。戦争のもつ悲惨さが、人々に強く平和や人権の大切さを感じさせてきたのに、それを忘れてしまったような動きも起きる。戦争の傷跡を国家レベルの視点からだけではなく、歴史の波に揺り動かされながらも、さまざまな思いで生きていた地域の人々の視点から問い直し教材化することも、いま生徒たちには必要ではないか。
ここで取り上げた地域教材は、千葉県館山市の「かにた婦人の村」内にある「噫従軍慰安婦」とだけ刻まれ、天を突き刺すように立っている石碑である。この石碑が建立された経緯や、石碑をめぐってさまざまな人々との交流を探ることで、今日の「従軍慰安婦」問題が沸き上がった背景や、世界やアジアの人々が願う平和や人権問題との関わり、さらには私たちの日本国憲法平和主義のあるべき姿を認識させたい。それが戦争の過ちを二度と繰り返さないことを誓った平和主義の理念を実感し、主体的で民主的な主権者意識を心に刻むと確信している。
【2】教材研究
① 「噫従軍慰安婦」石碑の建立
1993年3月3日、日本人としてただ一人、その体験を明らかにした元「従軍慰安婦」が千葉県館山市で亡くなった。この女性は1965年、深津文雄牧師が社会復帰の難しい元売春婦たちのためにつくった、世界でもめずらしい日本では初めての、婦人保護施設「かにた婦人の村」(以下「かにた」と略す)の一員であった。「従軍慰安婦」であったことを心に秘め、長く苦しんでいた城田すず子(仮名)さんは、戦後40年にして一通の手紙で深津牧師にうちあけた。
「深津先生・・・終戦後40年・・・日本のどこからも、ただの一言も声があがらない。・・・軍隊がいったところ、どこにも慰安所が・・・死ぬ苦しみ。なんど兵隊の首をしめようと思ったか。半狂乱でした。・・・それを私は見たのです。この眼で、女の地獄を・・・。40年たっても健康回復できずにいる私ですが、まだ幸せです。1年ほど前から、祈っていると、かつての同僚がマザマザと浮かぶのです。私は耐えきれません。どうか慰霊塔を建ててください。それが言えるのは私だけです。生きていても、そんな恥ずかしいこと誰もいわないでしょう」
毎晩、戦時中のいやな夢を見るので、夜の来るのが恐ろしいと言うすず子さんに、深津牧師は一本の柱ですむものなら、「従軍慰安婦」に謝罪の気持ちを込めようと思った。
戦後40年にあたる1985年8月15日、「かにた」にある丘の頂に「鎮魂之碑」と墨書した一本の桧の柱が立った。柱の基礎には、「従軍慰安婦」たちのために「贖罪」と刻んだ大谷石を埋めた。この小さな出来事は新聞やラジオ番組でも報道され、すず子さんの告白は「従軍慰安婦」証言として取り上げられた。翌年、深津牧師は消すことのできないこの歴史的事実を石碑に「噫従軍慰安婦」と刻字することであらわした。
日本人ただ一人の元「従軍慰安婦」としての証言者すず子さんとこの石碑は、私たちに歴史認識と人権意識を問う存在となった。
② 深津牧師と城田すず子さんの出会い
城田すず子さんは1921年、東京深川のパン屋の5人姉弟の長女として生まれ、なに不自由ない少女時代であったが、14才のとき母親を亡くし、その後父親が親戚の借金の保証人になったことでパン屋は破産し、一家離散した。父親は競馬にこりだし、食うや食わずの生活のなかで、17才のときに借金のかたに神楽坂の芸者屋に売られていった。以後、借金のかたに次々に売り飛ばされていき、結局太平洋の島々で軍人相手の遊廓や海軍の慰安所に関わり、自らも「従軍慰安婦」を体験した。その時に朝鮮の女性たちが「従軍慰安婦」として、どんなに悲惨な状況に置かれていたかをつぶさに見てきた。
戦後東京にもどったすず子さんは食べることができず、結局夜の生活に舞い戻った。覚醒剤を打ちながら、占領軍兵士相手のすさんだ生活を続けていた。ある時、夜学をでて看護婦をめざして勉強していた妹が、姉が売春婦をしていると知り、その前途を悲観し自殺したと聞く。
「今のままではいけない。この世界から足を洗いたい」とすず子さんは駅頭で手にした雑誌の記事をたよりに更生施設を訪れ、その後相談に行ったのが、東京板橋にあった「ベデスダ奉仕女母の家」であった。性病という病魔におかされていた36才のすず子さんと、深津文雄牧師との出会いがあったのである。
1956年5月、売春防止法が成立したが、この法律は国家による売春を否定したものの、根本的な売春婦の更生や救済にはならず、戦後の貧困という現実のなかで、売買春問題は解決困難な課題になっていた。要保護女子と呼ばれる女性たちの中には、どうしても社会復帰の難しいものがいた。社会から見捨てられていた女性たちを救うべく手を差しのべたのが、戦前戦後キリスト者として、平和と人権のために闘っていた深津文雄牧師であった。
1965年4月、深津牧師のもとに集まったすず子さんをはじめ、身や心を病む女性たちの夢は、社会福祉法人ベデスダ(あわれみの意)奉仕女母の家「かにた婦人の村」として実現したのであった。この施設には、山間を流れる蟹田川から「かにた」と名付られた。
いままでの施設のように高い塀や鍵のかかった門はない。終生いることができ、人間の心を癒しながら、自主的自発的な更生をめざすことができる場所であった。自分で生産し自分で消費する生活のなかで、役に立たないと思われた人が役に立ち、生きている意味を与えられ、新しい人間観が生み出されていった。こうして、編み物、農耕園芸、調理、陶芸、製菓、畜産、洗濯、購買、看護などの仕事が生まれ、そのなかで身も心も傷ついていた女性たちが、本当の働く喜びと生きる意味をつかんでいったという。
そんな中で病弱であったすず子さんは、二度の危篤を乗り越え、深津牧師や奉仕女たちの献身的な触れ合いによって、心に生きる喜びを与えられた。そして、隠されていた心の襞をもさらけ出すようになり、20年後の「慰安婦」体験という衝撃的な告白につながっていったのである。
③ 「かにた」から世界・アジアへ発信
今日においても「かにた」の女性たちは、地域社会から十分に理解されているとはいえない。しかし地域のなかで地道に平和運動や社会福祉運動にかかわりながら、「かにた」の人々は地域とのつながりを積極的に築いてきたといっていい。地域の平和や文化の創造に取り組んでいるなかに、元「従軍慰安婦」の城田すず子さんもいたのである。
そして、韓国朝鮮の人々が石碑を訪れるようになった。梨花女子大学教授で韓国挺身隊問題対策協議会代表のユン・ジョンオクさんは、この石碑を定点に、日本全国やアジア各地の掘り起こし、1990年「挺身隊取材記」をハンギョレ新聞に発表した。それが後に韓国KBSテレビのドキュメンタリー「太平洋戦争の魂 従軍慰安婦」となっていった。
この番組は、すず子さんの衝撃的な証言に始まり、従軍慰安婦の歴史的事実にふれ、さらに日本各地の慰安所跡の様子を丹念に追いながら、最後に「噫 従軍慰安婦」の石碑のまえで、深津牧師が石碑建立の経緯と謝罪の言葉を述べる。牧師は「従軍慰安婦」であった人が是非名乗り出てくることを願い、番組を締めくくった。こうして深津牧師と城田すず子さん、そして「かにた」の人々から、アジアや世界の人々に平和と連帯のメッセージが発信されたのであった。
【3】授業実践
①授業計画と授業方法
《単元》日本国憲法「平和主義」24時間配当
特設授業「かにた婦人の村と従軍慰安婦問題」は、憲法「平和主義」学習の導入として位置づけ、9時間配当とした。
目の前にいる生徒たちは、女子高校1年生である。意見発表ではどうしても受け身で、社会的な問題には関心が薄い。「自分には関係ない」とか、「いまの日本は平和でよかった」という甘い認識をもつ生徒たちに、「従軍慰安婦」問題という生々しい事実をぶつけてみる。性に関する問題を含みショッキングな内容なので、さまざまな個性的な意見がでるであろう。そこで授業方法は、生徒の実態を考え討論方式ではなく、それぞれのテーマにそって課題を書かせる方法をとりながら、一人ひとりの感想を深めるようにした。
各テーマにそって授業では、証言やラジオ番組のテープ、テレビ番組のVTRなど視聴覚教材を中心に、文献・新聞・雑誌・週刊誌から引用したプリント資料を多数準備した。とくに、視聴覚教材を通じて深津牧師やすず子さん、ペ・ポンギさんと触れることができるので、その資料ごとにイメージが修正できる。プリントを読んだときの「城田すず子」像、テープを聞いてイメージしたもの、そしてVTR画像で本人の顔と言葉を確認しながら、「従軍慰安婦」問題の重みを徐々に感じるはずである。城田すず子さんの苦しみからペ・ポンギさんのさらに重い苦しみを証言記録から読み取らせたい。
そしていま、アジアの人々から戦争責任や戦後補償が問われているとき、深津牧師や韓国のユン・ジョンオクさんなど平和や人権の大切さを行動で示しながら、連帯の輪を広げている人々の存在をしっかりと確認したい。
②授業内容と生徒の動き
●1時間目【私たちの身近にこんな大事なことがあった】
教室から「かにた」のある双子山がかすかに見える。指をさしながら「今日から数時間『かにた婦人の村』を舞台に平和のことを考えてみよう」と投げかけ、「かにた」の近くに住む生徒にどんな施設であるかと質問。「よくわからないが年をとった女の人がいる」「変な感じの人たちがぞろぞろ歩いている」などと答える。
「かにた」設立の経緯を深津牧師と城田すず子さんとのかかわりから説明する。すず子さんが自分の過去を語り始めるのには、長い時間がかかったことを確認しながら、深津牧師にあてた手紙を読む。すず子さんの人生の一時期、「従軍慰安婦」であったことを新聞資料でみる。最後に、石碑建立の経緯を深津牧師のテープ証言で聞く。
「従軍慰安婦問題」に関する最新情報を簡単につたえ、この問題が突然登場したように感じられるが、実は地道で息の長い活動や運動があったことを知らせる。
●2時間目 【「城田すず子」さんの心の叫びを聞こう】
深津牧師とあるジャーナリストとディレクターとのかかわりを伝える。
テープ視聴TBSラジオ「石の叫び」は、すず子さんが登場しているので、教室の雰囲気が張りつめ、聴き終わるとため息が聞こえる。
もう一度、すず子さんの人生を確認する。
《生徒の感想》「昔は国や天皇が絶対だったし何も抵抗できなかったことを考えると、私の頭はくやしくて、ぐちゃぐちゃになりそうだった。自分が『もし』って考えたら、頭の中がパンクしちゃうそう」「私だったら絶対に言えないし耐えられない。戦争は誰も彼もが傷ついていく。そして傷ついていくのはいつも民衆なのではないか」
●3時間目 【なぜ従軍慰安婦が誕生したのか】
今までの政府の対応や姿勢について簡単に説明し、今回見つかった慰安所設置、慰安婦募集に軍がかかわっていたことを示す新聞資料を確認する。
岩波ブックレット「朝鮮人従軍慰安婦」を使用し、まず戦前の天皇制体制の下での軍隊(皇軍)のあり方から、従軍慰安婦の誕生の背景を理解させる。前時のTBSラジオ「石の叫び」を思い出させながら、プリントの内容を説明する。そして「皇軍将兵への贈り物」がなぜ朝鮮の娘たちでなければならなかったかを確認する。
プリントにしめした宮沢訪韓で「なぜデモがおこるのか」考えさせる。新聞記事のなかの韓国挺身隊問題対策協議会という団体に注目させる。
●4時間目【『かにた婦人の村』から世界へ訴える】
前時で話した韓国挺身隊問題対策協議会代表のユン・ジョンオクさんと「かにた」とのかかわりについて知らせる。ユンさんは1980年から北海道、沖縄、タイ、ラバウルの朝鮮人慰安婦の足跡を訪ね、その取材記が90年1月新聞連載になったことから、この問題の口火がきられた。88年8月の来日では「かにた村」の従軍慰安婦石碑を訪ねている。
VTR視聴(40分)韓国KBSテレビ「太平洋の魂『従軍慰安婦』」で初めて、すず子さんの素顔に接する。今まで学習したことが映像でまとまっているので、食い入るようにみている。ここではとくに、沖縄の元「慰安婦」の朝鮮女性が画面では、顔が消されていることに注目させる。深津牧師と「噫従軍慰安婦」碑が画面に登場する。
《生徒の感想》「日本とって戦争が過去のことでも、韓国の人々にとっては今でも続いている」「今も後遺症で苦しんでいるというのに、それを知らず平和に今まで暮らしてきた自分達がにくらしく思えてきた」
●5時間目【いま、韓国ではどんな動きがあるか】
今の韓国の人々は「従軍慰安婦」をどう見ているのか。
VTR視聴(35分)12月6日テレビ朝日ザ・スークプ特集「従軍慰安婦問題」 内容は、韓国の元「慰安婦」3名が日本政府に対して訴訟を起こしたことと、この問題について韓国の人々が今どう思っているのかや、朝鮮人「慰安婦」を主人公にしたテレビドラマをどう見ているかについての街頭インタビユーである。元「慰安婦」として若い青春時代を奪われた女性の涙ながらの証言は、生徒たちに緊張感を与える。
韓国KBSテレビで顔を消されていた人物が、プリントにあるペ・ポンギさんであると知らせる。
《生徒の感想》「『私をあのころに戻してください』と泣きながらいった女性。・・・どう書いていいかわからないくらい難しく書き表せないほどの苦しみ、眼をそむけたくなるようなことだけど、これが事実である。過去のことではなく『今』の問題なのだ」「日本で従軍慰安婦のことをインタビューした時・・・高校生だと思うけど『それ中国語ですか』と答えたとき『ばっかじゃないか』と思ったが、もしかすると、私たちがインタビューされても同じことをいっていたかも知れないと思うとなんか恐ろしくなった」
●6時間目【なぜペ・ポンギさんは祖国に帰らなかったか】
「韓国KBSテレビのインタビューでは、ぺ・ポンギさんは取材拒否の態度をとり、顔を消させていたのに、テレビ朝日のザ・スクープでは顔が映っていたがどうしてか」と質問する。
川田文子さんの「遺志は引き継がれた」(雑誌「世界」)を読み、ポンギさんの人生はどのようなものであったか、またなぜポンギさんは祖国に帰らなかったのかを理解させる。とくに、沖縄復帰のなかで不法在留者となり、強制送還の対象だったことやサトウキビ畑の小屋での人を避けた生活のなかでの閉ざされた心が、その後どのように変わっていったかを知らせたい。(再びVTR視聴テレビ朝日ザ・スクープ特集「従軍慰安婦問題」)プリントに書かれた内容が、画面に登場するので生徒は真剣である。磨き込まれた調理用具のなかにペ・ポンギさんの思いを探らせたい。
ポンギさんの「わしもそのうち死んでいくだろうけど、いつかきっちり謝ってほしいさねえ」という言葉を生徒の心にしっかり刻ませたい。多くの生徒はポンギさんを通じて、自己・日本・日本人のあり方を問いなおし、さらに今の日本の現状を批判する。
《生徒の感想》「私たちは本当に何も知らないんだと思った」「『だまされて連れてこられて、知らん国にすてられてるさね』という言葉。その過去の出来事を一言で述べているような気がする。償いは何もうけずに死んだ。だがこの問題はまだまだいき続ける。ポンギさんの心の中の訴えも、ほかの女性に手でまだまだいき続ける」「私はポンギさんの遺志を自分より下の世代の人たちに伝えたいと思う。従軍慰安婦たちの存在が私たちと今の日本を変えていくものだ」
●8時間目【従軍慰安婦問題をどう考えるか】
「20万人とも!『朝鮮人従軍慰安婦』の慟哭を聞け」(週刊現代)読みやすいので生徒はしっかりと読んでいる。テレビ朝日「ザ・スクープ」の日本政府に訴訟をおこした原告の一人金学順(67歳)さんの証言を聞く。今なお後遺症に悩まされている元「慰安婦」たちことを知らせる。
韓国の人々の日本政府への要求について確認する。とくに公開書簡の「こうした過ちを再び繰り返さないために、歴史教育の中でこの事実を語り続けること」という要求についてどう思うか考えさせる。
ユン・ジョンオクさんの「従軍慰安婦問題は過去のことではない」の一節を読む。「過去を認めない国は過ちを繰り返す恐れがある。そんな政府を持つかぎり、責任は日本人全部にあることになります。」という言葉をどのように受けとめるべきか。
●9時間目 【従軍慰安婦問題をどう償っていくか】
今日の授業で、この問題のとりあえずのまとめとする。
「この問題をどう償っていくべきか」を二つの新聞投書を参考に自分の意見を書く。
《生徒の感想》「過去は今へ、今は未来へと歴史は受け継がれていくべきだ。この問題も例外ではない。戦時中日本がおこなってきたことは私たち今の世代の人々にも責任がある」「この問題をやってから、少しずづ考えが変わってきた。『償う』という言葉だけではなく、ほかに『何か私にできたらいい』」