地域教材と平和学習①
花作りを守った人びと〜花・海藻・ウミホタルと戦争
愛沢伸雄
『学校が兵舎になったとき〜千葉からみた戦争1931〜45』
千葉県歴史教育者協議会編 青木書店 1996年)
太平洋をのぞむ房総半島南端、黒潮の香りと豊かな自然のなかで、南房総の人々は風土を生かし、地域に根ざした生活を営んでいた。なかでも、冬でも暖かい地域の特性を利用し、狭い耕地面積を最大限活用する花卉栽培の伝統を育んできた。また、農業だけでなく、さまざまな生活の知恵を働かしながら、磯根でアワビ・サザエ・海藻を取る漁業が続けられてきた。
1. 安房の花作りから花禁止令
花が商品として日本中に広がったのは、兵庫県の淡路島と千葉県の南房総からといわれている。そして今日のような花の出荷ルートは、昭和に入ってから作られた。南房総で、もっとも早くから花作りに取り組んだのは、安房郡和田町の間宮七郎平であった。食うや食わずの生活を強いられていた南房総の農業を憂えた七郎平は、親の反対を押し切って上京し、薬剤師をめざした。勉学のためもあって朝鮮にも渡っている。ここで薬になるケシの栽培を学び、帰国してから自宅の裏にケシや菊などを植えたのが、1920(大正9)年であった。周囲の反対にあっても花栽培をやめなかった。3年後には、花栽培の仲間を増やし、とうとう31名で生花組合を設立した。以来、花栽培農家は増加し、33年には安房地方での花卉栽培面積が221ヘクタールになり、栽培農家も2850戸になった。36年には、和田町花園地区だけでも、栽培面積は22ヘクタールになり、京浜・東北・北海道へと生花三万俵を出荷するほどになった。
ところで安房の花栽培農家は、41(昭和16)年の開戦以後、戦線の拡大のなかで、戦意高揚のため盛大な葬儀がおこなわれ、花の需要が増加した。寒菊・金せん花・ストックなどが作付けされ、栽培面積は450ヘクタール、40万表を出荷するまでになった。しかし、徐々に戦況が悪化し、食糧物資は乏しくなった。こうして農政の一番の目標が食糧増産となり、農家に農産物の作付割当てが強制されることになる。なかでも千葉県と長野県では、花卉が禁止作物に指定され、花栽培農家は壊滅的な打撃をうけることになる。
これは38(昭和13)年の国家総動員法の第一条「戦時に際し、国防目的達成の為国の全力を最も有効に発揮せしむる様、人的及び物的資源を統制する」を受けて、41年には、地方長官が必要なときに、農作物の種類その他の事項を指定して作付けを命ずることができるという「臨時農地管理令」によって、花作りが制約された。さらに、翌年には「地区内に於いて生産されるべき農作物の種類、数量または作付面積・・・に関して生産計画をたて、地方長官に届けよ」という「農業生産統制令」が出され、花作りは禁止されるにいたった。
結局、農民たちに花作りの禁止を命じることで、食糧管理統制令実施が徹底され、軍需物資の確保と食糧増産が国家政策の中心にあることを意識させるねらいであった。そのなかでも花卉は不用の作物に指定され、作付けは禁止されるにいたった。ところで他府県では、種苗程度のものは残させたが、千葉県と長野県では政策の徹底化を図り、花の苗や種を焼却するだけでなく、作っている花は全部抜き取りを強制された。畑の隅に種苗用にと少しでも残せば、国家を裏切る行為として「非国民」呼ばわりされた。
2. 花禁止令に抵抗した人々
「食べる物がない時代に花をつくっているとは何事か。畑には麦を植えろ」という食糧増産のかけ声のなかで、取り締まりは、青年団が田畑や納屋を見回って歩くなど、農民が農民を監視する体制をつくり、花畑はすべて薩摩芋と麦畑に変えていったのである。花のことを口にするだけで、村八分にされかねない雰囲気のなか、監視の目をかいくぐっては、鍋や土蔵のなかに種苗を隠したものがいた。また、年に一度、土に戻す必要のある球根は、誰も足を踏み入れない山中に隠し植え、貴重な種苗を守ったものもいた。こうした花が今も毎年、山奥に咲くという。花禁止令に抵抗して、秘かに隠していた農民は、本土決戦が声高に叫ばれ、軍当局から麦や米を強制供出を求められても、敗戦が近いことを感じとっていたかもしれない。また、地域ぐるみで種苗隠しを分担しながら、花作りを守ろうとした農民たちの動きもあった。太平洋沿岸の花栽培地域は、米軍上陸の予想地点になっていたので、決戦部隊の陣地建設などや勤労動員による偽陣地建設で、食糧増産にむけて相互監視体制が行き届いていた。そのなかでの花禁止令への抵抗行動は、農民にとって大変勇気のいることであった。しかし花を愛する農民たちは、花の種を捨てるにしても、種が保存されるような捨て方をして、戦時下の強制政策にささやかな闘いをしていたのであった。ここに今日につながる、南房総の花作りの礎があったことを忘れてはならないだろう。
3. 海藻カジメ・アラメと昭和電工
カジメとアラメは外海性岩礁帯に生育する大型の多年草海藻である。明治初期までは、主に肥料として使われていたが、明治20年代に入って海藻灰ヨード工業がおこると、その工業原料として大量に用いられた。生産量は年々増加し、日露戦争中に急増したことで、1908(明治41)年に森為吉らは房総の粗製ヨード製造業者を合同して、総房水産(株)を設立した。第一次世界大戦中には、敵国ドイツから医薬品輸入がストップしたことで、ヨードや塩化カリなどの国内生産が求められ、カジメ生産は最高になった。
26年、為吉の息子矗昶は日本沃度(株)を設立し、ヨードの製造やヨードを主とする医薬品の製造をおこなったり、カジメ・アラメの海藻灰から生産した塩化カリを原料として硝石をつくり、陸軍造兵廠へ納入した。27年には、樺太沃度合資会社を、翌年には済州島を中心に朝鮮沃度(株)を開設したが、世界恐慌の波及でヨード業界は不況になった。
しかし31年の満州事変は、千載一遇のチャンスになった。ヨードや火薬の需要が高まり、軍需物資カジメ・アラメが大量に求められた。この年、水力発電所建設に乗り出していた森は、電力を利用して国産技術による肥料である硫安の生産に成功し、昭和肥料(株)を設立した。また34年、日本沃度でも独自の技術を使い日本最初のアルミニュウムの工業化に成功したので、社名を日本電気工業(株)とした。こうして、38年国家総動員法の制定をきっかけに、翌39年に昭和肥料と日本電気工業とが合併し、総合化学工業会社として昭和電工(株)が創立したのであった。
4. 決戦下の化学兵器に海藻増産
1941年8月、千葉県漁業組合連合会は各漁業組合長にあてに「カジメ採集ニ関スル件」を通知し「決死的御協力ニ依リ其責任数量確保ニ萬全ヲ期シ国家ノ使命・・・緊迫セル時局下ニ於ケル国策遂行ニ協力」とカジメ採集の供出責任数量を各漁協に割り当てた。また県経済部長からの文書にも「カジメの供出が高度国防国家建設に寄与する処大なるを貴組合員に周知せしめ当分の間カジメの採取、集荷に専念」することを指示した。8月16日、軍当局により乾燥したカジメ・アラメは、「昭和電工株式会社ニ荷渡ス事」と命令された。陸海軍指定工場であった昭和電工には、千葉県内にヨード・ヨードカリ・塩化カリを製造する館山工場と、ヨード・塩化カリ・カリ肥料・食塩を製造する興津工場をもっていた。両工場とも、乾燥カジメ・アラメを焼いて海藻灰(ケルプ)からヨードを製造していたので、供出を命じられた漁民たちには、工場側からいわれた通りのカジメ・アラメの乾燥や処理が求められた。
43年の新聞には「カリを多量に含む海藻が軍需資源として極めて重要であるに顧み、商工省では陸海軍、農林、企画院の各省および全漁連、カリ塩対策協議会と協力し、全国の漁民を総動員して海藻採取の大運動を」とか、44年7月25日には「ゼアリミン火薬、光学兵器レンズ等になる加里原料、アラメ・カジメ・ホンダワラ等の海藻は、決戦下の化学兵器だ・・・他の海藻採取を中止して一斉にこの『兵器海藻』採取に全力を」と報道された。
こうして軍需品として不可欠であった医薬品のヨードから、火薬原料としての軍事的最重要物資の塩化カリまで、房総半島のカジメ・アラメが深く関わり、昭和電工などを中心とする海藻灰ヨード工業の拡大につながっていった。ところで、外房海岸の磯根漁業は古くから、アワビやサザエを採取してきた。しかし戦時下においては海藻生産が中心になり、漁業会からはカジメ切りの期間はアワビ採りが一切禁止され、アワビを採った場合には厳しく処置された。軍需物資としてのカジメ・アラメの増産に毎日追われていたのであった。
5. 「ウミホタル」の軍事利用
安房高校史や安房水産高校史をみると、勤労動員作業記録に「海蛍」採集と記載されている。いったい「ウミホタル」は何に使われたのだろうか。戦時中、千葉県水産試験場技師製造課長で安房水産学校教諭の尾谷茂氏の証言によると、陸軍第八研究所よりの嘱託命令で「ウミホタル」採捕供出を命ぜられ、生徒を動員したという。
日本名「ウミホタル」は「あんけら」「ひき」(戦中防諜上の呼名)とも呼び、夜行性で昼間は砂中に眠る。大きさは三ミリメートル程度で楕円形、表皮はケラチン質で灰白色、満月期に触覚で活発に動き、青色蛍光色を発する。甲殻質のなかの体細胞中に発光性物質をもっており、常時発光しながら遊泳する。発光体はルシフェリンという化合物質が、ルシフェラーゼという酸化酵素の働きで反応を起こすが、反応には水分が必要とされた。
四四年九月、資源科学研究所の加藤光次郎は、「大東亜戦争の勃発以来、新聞紙に見る南方戦線、大陸戦線からの報道によると、蛍や発光する茸の光が皇軍将兵の夜間行動に少なからぬ便宜を与えることがあるようである。ところが蛍や発光茸は時と所によって自由には得られぬことが多い。生物の発光を必要に応じて用いることができたら如何に便利であろう。生物の放つ光はほとんど熱を伴わない、いわゆる冷光で、しかも近くは照らすが遠方からは発見されにくく、マッチや煙草の火さえ注意せねばならぬ空襲下の灯火管制のもとに、防空活動に従事し、防空壕に待避する時など、懐中電灯に代わってこの生物光の利用が考えられる。このような目的にそう発光する動植物・・・海蛍はこの意味で最も役にたつ発光動物の一つである」と論文にまとめている。
6. 決戦兵器「ウミホタル」照明弾
軍部が大学などの研究者に依頼したのは、まず夜間攻撃時の敵見方標識(暗夜識別)と懐中電灯替わりの携帯用照明である。乾燥した「ウミホタル」を粉末化し、それに水や唾液を付けて発光させた場合、適度な明るさや持続時間があるかどうかにあった。4、5グラムを100cc位の水に入れた場合、30〜60分間発光を持続することはできた。しかしもっと発光の持続時間を長くすることが求められた。また、乾燥後の取扱いが難しく、貯蔵の方法では吸湿しないように乾燥剤を入れたが、容器密封が不十分で不合格品も多かった。夜間攻撃時の敵見方標識用紙では、乾燥粉末ウミホタルを化学糊に混ぜて、塗布後に乾燥させ、用紙を5センチ四方に切断し、胸部に貼ったといわれる。発光時間が40時間という「ウミホタル」発光標識用紙が、どの程度利用されたかは不明である。
さらに軍部は「ウミホタル」照明弾の開発を命じた。夜間海上の敵艦船に「特攻」攻撃する時、撃墜されることなく体当たりするため、敵艦の周囲の海面だけ明るく浮かばせ船の輪郭がわかれば命中率があがると考えたのである。45(昭和20)年7月頃、その実用化に成功したといわれる。