●安房で「戦後50年・平和を考える集い」に取り組む●
愛沢伸雄≪千葉県歴史教育者協議会会誌27号(1996年)≫
【1.はじめに-地域のなかで市民とともに平和運動を-】
1994年12月、安房歴教協と高校教員を中心として160余名の安房郡市民によって、「戦後50年・平和を考える集い」実行委員会が結成された。
この会の活動では、まず安房地域の戦跡フィールドワークを2回実施し、調査研究会として、「戦後50年を考える」講座(館山コミュニティーセンター)を4回開催してきた。これらの企画では、延べ400余名の参加があり、いろいろな証言や資料を得た。その間、館山市教育委員会(館山中央公民館・市立博物館)が後援となった。そして8月にはメインの平和企画展として3日間、「戦後50年・平和を考える集い」を開催し、お盆という忙しい時期にかかわらず1000余名の参加を得ることができ、地域に住む市民による手作りの平和創造の集いとなった。
さらに、11月には「非核平和」宣言を決議した三芳村から「戦後50年」企画の協力依頼があった。村主催の「安房の戦跡をさぐる」展では、10日間で3000名以上の参加があった。
これらの取り組みのなかで、地域の戦跡を掘りおこし、戦時下の地域を調査研究することが、平和創造の運動にとって、どんな意味があるかを学んだ。このレポートでは、取り組みの経過を紹介しながら、地域の歴史を掘り起こすことが平和運動や歴教協運動とどう関わっているかを報告したい。
【2.平和の集いの呼びかけ】
「第二の沖縄」の可能性があった房総半島、そのなかでもとくに安房を掘り起こしながら、ささやかではあるが地域から平和創造のために父母や市民、そして教師たちが取り組んだことが、「戦後50年・平和を考える集い」実行委員会結成となった。この会を結成するにあたって、次のように呼びかけた。
1994年11月
来年は、第二次世界大戦終結・日本の敗戦からちょうど50年目にあたります。この大きな節目に戦争のもつ悲惨さをあらためて確認しながら、次代の子供たちに平和の意味を語り継いでいく、よい機会ではないかと思います。
ところで安房地域は戦前戦中『東京湾要塞地帯』として、軍事上大変重要な位置にありました。とくに戦争末期には、本土決戦体制のもとで米軍上陸地点として想定された場所でもあります。これまで、地域の戦跡の様子は安房反核フェステバルや学徒出陣50周年『館砲・洲ノ空』展などで発表されてきましたが、その経緯を参考に、もっと多くの方々の参加による企画展『戦後50年・平和を考える集い』(仮称)を開催できないかと考えた次第です。
この企画展では、アジア太平洋戦争のなかで安房地域がはたした役割や戦争下の人々の生活を浮き彫りにすることで、地域から戦争の傷跡を探ることを主眼にと思っています。戦後50年が経過し、地域のなかで戦前・戦中を体験された方々の証言を聞き取っていくことは、今とくに重要と思われます。多くの方々の協力を得るためにも、私は団体や個人で実行委員会が結成されることを望んでいます。また館山市は『平和都市宣言』をしていますし、市当局や教育委員会、あるいは各種文化団体やマスコミにも広く呼びかけ、戦後50年にふさわしい平和の集いができるよう働きかけていきたいと思います。
是非ともこの趣旨にご賛同いただき、実行委員会結成にご協力いただけることを切に希望しております。
まず具体的取り組みとして、8月に市の施設で平和企画展を実施することをメインに、それにむけて月1回程度の調査報告会や証言・講演会などをおこなう。そのために実行委員会の中心に事務局をおき、企画や研究に取り組む体制を提案した。
また第1回企画として1995年1月22日(日)にフィールドワーク「南房総に戦争の傷跡を探る」実施を予告し、この参加者を新聞などでひろく募りながら、実行委員会の結成を安房の人々に知ってもらうことにした。実際に地域にある戦跡にふれることができれば、会加入の呼びかけや調査研究での協力がスムースに取り組めると考えた。
さらに、今まで安房で企画展を取り組んだ経緯から、安房地区郷土研究部会々長の安房高加藤俊夫教諭に呼びかけの趣旨と企画内容を相談し、実行委員会結成のまとめ役をお願いした。そして呼びかけ人になった方々が60名を越えた12月なかば、「呼びかけ人の集い」を開催し、会結成の趣旨と今後の取り組みについて話し合い、忌憚のない意見を出し合った。
【3.戦争の事実をみつめる】
「戦争に関していろいろな認識があると思う。この50年間を考えると戦争のことを語るのは仲間のなかだけで、世代の断絶も感じながら、口をつぐんでいた。やはり戦争の体験者として戦争の事実を客観的に正しく知ってほしい。そのために、できるだけ資料提供などの協力をしたい」との発言。あるいは「地元でも知らないことがある。まず地域を掘り起こして、歴史的事実を積み上げていくこと」や「正確な地域の歴史を調べる。当時の体験者が高齢になり、戦友会などの集まりが消えつつあることを考えると、今とくに戦時中の記録を残していくこと」の意義が語られた。
企画・研究については、「学校と戦争」「学校と軍隊」などのテーマや専門分野の取り組みを進めながら、戦後50年の節目としての8月にふさわしい展示会をめざすこと。また戦時中の証言をまとめたり、体験の聞き取る調査活動を進めながら、学習会や講演などの中間報告会の実施すること。さらに子供たちに語り継ぐ内容や方法を追求しながら、「いろいろな方々の戦後50年を取り上げていくなかで、この機会を利用し、話し合う場や交流の場を設定していく」ことが提起された。
【4.人々に見える運動を】
呼びかけ人の多くは、高校教員が占めていたが、市民レベルの集いにするためにもいろいろな分野の方々に役員を要請した。その結果、副会長には天羽道子氏(「かにた婦人の村」施設長)ら3名を、顧問には諌川正臣氏(安房詩人会々長)長峰直敏氏(「館砲」平和祈念の塔世話人)鈴木亮氏ら5名をお願いした。また会の財政として会員から1口500円の賛助金を募ることにし、会誌・通信費・学習会資料代などにすることにした。
そして1995年に入り、会としての具体的な行動をおこした。まず1月11日に館山市役所の記者クラブで加盟各社に実行委員会の発足とその趣旨を発表した。その際、新聞各社に情報提供などの協力も依頼した。
さらにその足で「平和都市宣言」をした館山市長と面会し、戦後50年にかかわる平和事業として、会の後援を次のように申し入れた。
「・・・私たちは戦後50年を振り返って、平和の意味を考えようとするこの集いが、館山市の『平和都市宣言』の意義にそうものと確信しています。なにとぞ、この集いの趣旨をご理解いただき、できましたら館山市民の平和事業の一環として、後援等のご協力を」
【5.地域を見直す「フィールドワーク」】
新聞に大きく取り上げられたので、定員50名を大幅に上回る参加希望者が殺到し、うれしい悲鳴をあげた。それが以後の取り組みに反映すると考え、今まで経験のないバス2台という規模にした。1月22日、第1回「戦後50年を考えるフィールドワーク」参加者の感想を紹介する。
初めて、このような行事に参加し、いろいろ考えさせられることばかりでした。房州に生まれ育ち、地元の高校に勤務していましたが、地学を教えていたので地元の地学のフィールドワーク・サーベイはよくやっていました。ですから、地元の山野は、目をつぶってもわかるような錯覚をもっていました。
ところが今回案内され、初めて見た戦争の傷跡を知って、がく然とした思いでした。『館空』赤山地下要塞跡・館山砲術学校の落下傘訓練用プール・三芳村滝田の特攻兵器『桜花』発射台跡です。もう遺跡化したこれらのものが、地元の多くの人々の知らない、目だたないところで、今なおはっきりとした形で残っているとは。日本人の大半が、戦後生まれである現在、よしんば戦争を知っている人々も、日々の生活から戦争への憶いは、遠ざかっていきつつあります。
かくいう私も、1941年の第二次大戦開戦の年に、館山にあった旧制安房中学校に入学し、1945年3月、終戦の年に繰り上げ卒業しました。まさに、青春時代の前期は、戦時下そのものでした。青春時代とは、誰でも記憶の確かな思い出の多い頃だと思います。その頃その時代を過ごした私でさえも、毎日の生活しているうちに、決して忘れてはならない辛い、悲しい想いさえ薄らいでいきます。
戦後生まれであるフィールドワークのリーダーの愛沢さんなどが、精力的に資料を集め、そして再び戦争をしてはならないという願いと実行力に敬服します。平和こそが地球上に住む人間そして生物のしあわせです。幸いにして『平和を考える集い』の人たちの中に多くの教師がいます。積極的に平和のため、ヒューマニズムのための教育を実践してください。」
(元県立高等学校長)
【6.「戦後50年を考える」講座とは】
実行委員会結成に際して、地域から戦争の事実を掘り起こす調査、研究活動を積み上げながら、8月の企画展に臨んでいくことを確認した。そこで2月下旬、今後取り組んでいく方向を決定するため事務局会議を開催し、具体化な研究テーマを検討した。研究テーマの基本的方向と全体の枠組みについては、安房南高石崎和夫教諭が原案を作成した。テーマは「戦時体制下の房総半島と学校」とし、ひとつめに、15年戦争の経過(日本・世界と千葉・安房郡)の略年表を作成する。
二つめには、安房郡市内の各学校史を参考にし、国民学校の成立と「少国民」育成の教育や中等学校の生活と教育の様子、とりわけ文教政策の変遷・軍事教練・勤労動員(高等女学校・中学校・実業学校)を取り上げる。三つめに、安房地域における本土決戦体制と学校をみる。とくに東京湾要塞地帯における本土決戦体制や軍事施設、学校、住民などの様子、さらに空襲を取り上げることとした。
《「戦後50年を考える」講座の概要》
第1回 2月25日(土)
テーマ1.《戦時下の房総半島と学校》
資料が語る戦時中の「安房高女」と安房各校における勤労動員
石崎 和夫 (安房南高)
テーマ2. 《東京湾要塞地帯における本土決戦体制》
「本土決戦体制」とは何か 愛沢 伸雄 (安房南高)
証言者 白浜艦砲射撃の体験 黒須 禮子氏 (鴨川市)
伊藤 一郎氏 (館山市)
第2回 3月25日(土)
テーマ 《戦時下の房総半島と学校》
レポート 校史にみる戦時下の「安房中」
・・・戦争は学校生活をどう変えたか・・・
荻原 岳信 (安房高)
証言 短かった従軍の記 鈴木 俊雄氏 (館山市)
レポート 戦時下の安房の高等女学生の勤労動員の実態(その2)
石崎 和夫 (安房南高)
調査報告 1945年9月の米軍機墜落事件-「千葉日報」記事より-
加藤 俊夫 (安房高)
「ドゥーリトル初空襲」B25残骸未公開写真について
愛沢 伸雄 (安房南高)
第3回 5月27日(土)
テーマ1. 《戦時下の房総半島と学校》
レポート 戦時下の「安房農」・・渡満学徒勤労奉仕隊とは・・・
田村 恒也 (安房農高)
証言 渡満学徒勤労奉仕隊に参加して
岩崎 良平氏 (鋸南町)
テーマ2. 《東京湾要塞地帯における本土決戦体制》
レポート 「要塞」建設・ドゥーリトル初空襲から白浜艦砲射撃へ
愛沢 伸雄 (安房南高)
証言 未公開写真「上海におけるドゥーリトルB25の残骸」
菊間 清氏 (鋸南町)
テーマ1.に関連して-戦時下の高等女学生の勤労動員をみる-
証言 「日本建鉄」への勤労動員 青木 うめ氏 (館山市)
小原 秀子氏 (鴨川市)
第4回 6月24日(土)
テーマ.1 《戦時下の房総半島と学校》
レポート 安房における国民学校とは 切石 節司 (安房南)
証言 戦中の小・中学校に学んで 諌川 正臣氏(安房詩人会代表幹事)
証言 北条国民学校にみる館山の子どもたち
松苗 禮子 (館山聾)
テーマ.2 《東京湾要塞地帯における本土決戦体制》
レポート 「洲ノ空」「館空」とは 加藤 俊夫 (安房高)
証言 私にとっての「洲ノ空」 春名 重義氏 (館山市)
報告 館山における空襲・戦災の記録・・・米軍資料にみる(中間報告)
愛沢 伸雄 (安房南)
【7.地域史の検討「戦争の傷跡を見つめ直す-白浜艦砲射撃にみる」】
地域の歴史を見直すには、新しい史実を掘り起こすだけではなく、その史実が真実かどうかの調査研究も含まれてくる。従来、館山市史や安房高校史によると、安房郡白浜町が艦砲射撃をうけ、住民や安房中生に被害があったと記録されている。当時の日本軍当局は、この出来事を住民には「潜水艦からの艦砲射撃」と発表している。
1945年7月18日深夜、安房郡白浜に対する艦砲射撃が島崎地区への着弾が多かったことから、国際法上禁止されている野島崎灯台を狙ったともいわれた。しかし住民の多くにとって、灯台北方1キロの城山にレーダー基地があることは公然の秘密であった。当時の証言に「野島崎灯台一帯の海が明るく、灯台の左側の黒い船から花火のような灯の塊がパッパ、パッパと飛んでくる。1、2秒してズズーンという地鳴りを伴った砲音」とある。安房地域一帯に、深夜鳴り響いた砲音の大きさからいっても潜水艦の砲撃とは思えないにもかかわらず、軍当局(朝日新聞7月20日付では「少数の小艦艇による散発的な艦砲射撃」)が、当時発表した内容まま,市史や校史に記載され今日に至っている。
国会図書館資料室には、米国戦略爆撃調査団「対日戦すなわち太平洋戦争に関する最終報告書」がある。この第37巻「海軍分析部門」「野島崎地区」報告に、1945年7月18日23時52分から5分間にわたって、白浜城山レーダー基地にむけての艦砲射撃した概要とその効果(被害状況)が記載されている。
報告書によると第3艦隊司令官から派遣命令をうけた、巡洋艦4隻と駆逐艦9隻からなる35・4任務群が、16キロ海上から夜間レーダー照準によって白浜レーダー基地に対して、6インチHC砲弾240発を打ち込んだ。だが、レーダー基地には命中せず、付近の島崎村に37発が着弾し、6名死亡17名が負傷したという。軍当局が村民たちには、「潜水艦からの砲撃」と説明したとの証言が書かれている。
ところで、6月21日米軍の沖縄全島確保宣言後、ハルゼー大将が率いる105隻の米海軍太平洋艦隊第3艦隊の第38機動部隊は、7月1日日本本土侵攻の事前作戦にでた。その任務は日本軍に残存する艦艇や航空兵力を壊滅するとともに、戦争継続に関わる軍事施設・基地を破壊することで、本土侵攻作戦をスムースすることにあった。10日には艦載機が関東にある航空機基地を目標に空襲をおこない、米機動部隊が本格的な攻撃を開始したのである。航続距離でB29が手つかずであった北日本にも、14、15両日に艦載機で大規模な空襲をしただけでなく、14日朝には戦艦による本土に対する初の艦砲射撃を釜石の製鉄所に、15日には室蘭の製鉄所におこない、そして17日夜にも鹿島灘から日立、水戸に約1時間にわたって大規模な艦砲射撃を実施したのであった。
この16日からは、連合国首脳によるポツダム会談が開催され、対日作戦が話し合われることになっていた。第3艦隊の本土侵攻事前作戦のなかで、白浜レーダー基地への艦砲射撃があった。本土侵攻作戦上、この任務はどんなことを意味しているのか。まず東京湾口南方16キロ海上地点に接近し、日本海軍の出方をうかがい、水上水中特攻作戦を警戒している。
また陸軍は八丈島や伊豆の下田、外房沿岸の白浜や千倉、あるいは勝浦などには、電波警戒機乙や高度測定受信機を設置し、とくにB29侵入に対する警戒網を方面軍で一元化していた。海上に対する警戒網もあったと思われるが、35・4任務群には電波の発信地を探知する任務もあったろう。海軍では布良大山にレーダー基地を建設し、館山各地の高角砲陣地に射撃用電波探信儀などを配備したとの証言もある。この時期、米軍は高性能なレーダー技術をもち、16キロ離れた海上の20ノットで走行する艦艇から、白浜レーダー基地に対しての正確な夜間レーダー射撃が可能であった。
電波逆探知など米軍の高度な電波戦術は、大本営も当然知っていた。にもかかわらず「艦砲射撃が人心に及ぼす動揺効果に期待する敵」(朝日新聞7月19日付)などと新聞は報じている。ポツダム会談期間中も、B29による無差別爆撃は熾烈を極め、早期無条件降伏のカギである第3艦隊による制海権や制空権を確保する任務が、とくに第38機動部隊を中心に遂行された。だが、本州東岸沿いに夜間航行制圧と沿岸艦砲射撃掃討に対しても、日本軍は攻撃らしい攻撃をしてはいない。
のちハルゼーは回想のなかで「司令部の二、三の者が日本はつぎに起こる攻略作戦に備えるために兵力を温存しているのだ、と考えた他、大部分の者は、日本にはもう飛行機がなくなってしまったのだろうと判断していた。当時、私は日本は10月には降伏するものと考えていた」と述べている。
なぜ軍当局は住民に「潜水艦よりの砲撃」と虚偽の説明をしたのか。米軍の本土上陸が近いことが知られると、住民たちが浮き足立つのではと軍当局は見ていたのではないか。7月に入り、安房でも艦載機による空襲や機銃掃射が激しくなり、本土決戦も近いという喧伝のなかで地域での軍隊の動きが活発になっていた。しかしどうも、住民に「一億総玉砕」意識が浸透していなかったのではないかと思われる。やはり大本営が報道で世論操作していたように、この地域の軍当局も住民たちの雰囲気などを察知して、ことが大げさにならないように「潜水艦」と発表したのではないかと思われるのである。
この調査研究が新聞で報道されたことで、一婦人より手紙をいただいた。「やっと白浜の艦砲射撃が、公に取りざたされる時代がきたと感無量の想いです。私が丁度安房高女に入学したばかりの時でしたが、今も映像あざやかに覚えており、いつの日にか、これが白日のもとに明らかにされ、遺族の方々が慰められるようにと願っておりました。・・・御苦労の多いこととは存じますが、若いエネルギーでどうぞきちんと白浜史に位置づけて下さることを期待しております。今、花と青い風光に恵まれた白浜も、薄氷をふみつつ生きた者たちの歴史の上にあることを知って頂きたいと思うのです」
【8.「戦後50年・平和を考える集い」実行委員会の活動】
1994年11月下旬 「実行委員会」結成の呼びかけ(愛沢)
12月17日 呼びかけ人(賛同者)の集い(安房南高)
・実行委員会の基本方針の検討
・実行委員会役員・事務局選出
1995年1月11日 市役所記者会見・館山市長訪問
1月13日 実行委員会ニュース・第1号発行
1月17日 事務局会議(研究調査・整理の基本的方向)
1月22日 第1回フィールドワーク(90名)
「南房総に戦争の傷跡を探る」
1月26日 ニュース・第2号発行
2月10日 ニュース・第3号発行
2月18日 ニュース・第4号発行
2月19日 第2回フィールドワーク(70名)
2月25日 第1回「戦後50年を考える」講座(70名)
3月22日 ニュース・第5号発行
3月25日 第2回講座(50名)・ニュース第6号
3月26日 検見川高校社会科フィールドワーク(10名)
4月29日 東京・民間サークル フィールドワーク(38名)
5月16日 ニュース第7号
5月20日 日本機関紙協会共同取材フィールドワーク(35名)
5月27日 第3回講座(60名)
5月28日 千葉文化フォーラムフィールドワーク(16名)
5月30日 ニュース第8号
6月2日 事務局会議
6月5日 館山中央公民館々長と8月の企画展についての懇談
6月7日 館山市広報誌「ルック・たてやま」
「戦後50年」特集の戦跡取材依頼(愛沢)
6月9日 館山市長との座談会「広報誌」掲載
(実行委員会より鶴岡・加藤・羽山・加藤・愛沢参加)
6月12日 ニュース第9号・房日新聞「戦後50年」特集連載依頼
6月24日 実行委員会総会・第4回講座(60名)
6月26日 ニュース第10号
7月4日 館山教育委員会より学校での「集い」案内ビラ配布許可
7月19日 事務局会議(「平和展」会場下見)
7月下旬 展示準備
8月上旬 展示・会場準備
8月12〜14日 「戦後50年・平和を考える集い」
8月15〜17日 後片づけ
8月18日 事務局会議(支払等)
8月20日 実行委員会反省会
9月下旬 礼状発送
10月4日 事務局会議(今後の取り組み)
11月16〜27日 三芳村主催・安房の戦跡を探る展(展示資料提供)
【9.成功した8月「戦後50年・平和を考える集い」】
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・‥・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
実行委員会挨拶
お忙しい折、ご来場を賜り誠にありがとうございます。
この集いは、講演・証言・座談会・催しなどの「平和の集い」「語り継ぐ集い」と、4つのコーナーに分けた「平和展」になっております。とくに「平和展」では、アジア太平洋戦争のなかで安房の人々がどんな状況にあり、そこでどんな生活をしていたかなど、地域の中で調査研究したことを発表します。どうぞごゆっくりご覧ください。
なお、ひとりでも多くの安房郡市民の皆様方や、子どもたちのご来場を切に願っております。お帰りになりましたら、是非ご家族や近くの方々にお話しいただければ幸いです。今後とも皆様方の心あらたまるご支援をお願い申し上げます。
「戦後50年・平和を考える集い」実行委員会
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
反省会に集まった実行委員であった市民は、「呼びかけを新聞で知り、戦争のことを子供たちに伝えるという主旨であったので連絡をとった。戦後50年という機会に、自分のたどった経緯を話せたことは大変良かった」「この集まりを新聞で知って連絡をとった。このことがこんな大きなものになるとは思わなかった。先生方といっしょにやれたことが大変うれしかった」「仲間の集まりをきっかけとして実行委員会を知り、誘われたので参加したが、証言するなかでいろいろと勉強することができ大変うれしい」などと述べている。
そしてこの会の取り組みが「先生方だけでなく、市民の皆さんが参加しているところが大変いいと思います。また規模がこのように大きく、いろいろな取り組みがあったので大成功ではなかったか」との発言に大変励まされた。
ささやかな平和運動であったが、地域の人々と力をあわせたことで、保守的な地域のなかに一石を投じたと思う。また地域が学校や教室と結ばれたことで、調査研究が今までにはなく進展した。地域の人々とともに学びながら進めたことが、「手作り」の平和創造の運動の成功につながっていったのではないかと思う。
【10.地域のなかで子どもとともに授業づくりを】
「子どもがわかる授業と地域の掘りおこし」(大野一夫報告・地理歴史教育80年1月号)において、1972年1月におこなわれた第5回千葉県歴史教育研究集会(館山市)での意義を、「集会を準備する支部が地域や教師の中に入って、地域ぐるみの研究集会をつくり、私たち教師や地域の要求などをつかんできた。地域の人たちとともに歴史教育をつくる」ことに確信をもった集会だったと述べ、「安房という地域を見直す、何のたたかいもないとか、保守的でダメだと頭から決めてかかってはいけない。どんな地域にも、かくれた民衆のドロくさいたたかいがある。民衆の歩んできた歴史、生活」が地域の人々によって生き生きと語られた、地域ぐるみの集会だったと報告している。地域の人々と結びついて歴史教育活動を実践する意味はどこにあるのか。
1970年代前半、「地域の掘りおこし」が、住民運動などと結びつきながら意識的に追求されたという。歴教協支部活動にフィールドワークが位置づけられ、地域の掘りおこしと授業との接点になっていた。安房集会では、地域と教師とが結びつくことで、千葉歴教協の課題が地域や支部から見えてきただけでなく、地域をみる目がきたえられたと述べられている。また、地域の掘りおこしとわかる授業との関係が検討され、地域に根ざした社会科授業が追求され、まず教師は地域をみる視点によって、歴史をみる視点がより一層きたえられ、子どもが生き生きする授業のきっかけになったという。
さらにどんな教材でどんな授業方法であれば、楽しくわかる授業になるかを「子どもが、事実を肌でとらえること、子ども自身が活動するなかで、子どもが身体全体で学ぶのではないか」と考えている。そこには、今日千葉歴教協が検討を重ね実践を交流している、「子どもが主役になる」授業の視点が語られている。
地域の人々の生活や文化を視点にいれながら、歴史的断面としての要求やたたかいを、歴史教育の視点からとらえ、地域の掘りおこしをすすめる。また地域の歴史と深く結びついている暮らしや平和、教育の問題を教材化して、授業で取り上げ、地域に生きる子どもたちに語ることが、教師の重要な役割といえる。
そのためにも、教師は地域に飛び出て、地域の人々とともに地域を学びながら、地域のさまざまな課題に取り組むことが、「子どもが主役になる」授業づくりにつながると思う。「戦後50年」という節目に私は、地域に飛び込み地域の人々とさまざまな交流をもった。そこで学んだ地域の歴史や人々の証言を教室で語るとき、地域に住む子どもたちにはそれなりの共感をもったようだ。家に帰って家族に話した生徒や、自分の地域の歴史と日本の歴史の関連をはじめて意識したという生徒たちがいたことに、あらためて歴史意識形成において地域に根ざした歴史教育のもつ重みを強く感じたところである。