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●東京湾要塞地帯の軍事施設・地域研究●


【(1)東京湾要塞の歴史】

「要塞」とは敵の侵入を防ぐため、要害の地に築いた砦のことで、攻撃を防御する砲台などが戦術的に配備された。明治初期、軍事上重要な海峡や港湾のなかでも、とくに東京湾に侵入する敵艦艇の航行を阻止し、首都と横須賀軍港の防衛のため、東京湾口の要塞化が構想された。1880(明治13)年に起工され、1932(昭和7)年に完成したのが、第一等要塞となった東京湾要塞である。


1941年の開戦以降、軍部は東京湾内や要塞周辺地域の動向に敏感となり、湾岸にいる住民の監視体制を強化し、スパイ防止のため写真や地図の検閲、さらには学校教育まで監視していった。「要塞司令部条例」によると、永久防御工事を施し守備している地域は要塞とされ、その周辺の指定された地域は要塞地帯とされた。1899年公布の「要塞地帯法」では、指定された区域での水陸の形状を測量、撮影、模写することや地表の高低の土木工事、建築物の増改築には、要塞司令部の許可が求められた。とくに要塞建造物から250間(約455m)以内を第一区とするなど、要塞地帯を三区域に分けて住民を厳重な警備下においたのである。

また、軍事機密保持と要塞建造物の保安のために「軍機保護法」という厳しい処罰法規が定められたが、日中戦争の勃発によって、情報収集や機密漏洩罪に対する刑罰がさらに強化された。それとともに、政府は各地にスパイ活動を防止する民間団体の組織化を進め、千葉県内ではまず館山において、安房要地青年協会を結成し、続いて君津郡17ヵ町村の青年団にも組織していった。

このように要塞地帯では、学校にあっても要塞司令部の検閲が強化され、たとえば安房中学校では、校友会誌に掲載した一編の詩でさえ、内容が「防諜上好ましからず」という理由で墨によって抹消されていた。戦時中には、東京湾側の列車の窓のブラインドを下ろさせ、風景を眺めることも禁止したのであった。憲兵隊や特別高等警察が徹底した機密漏洩防止やスパイ活動防止の網の目を張るとともに、住民が住民を厳しく監視するスパイ防止体制を敷いていった。


さて東京湾要塞建設の歴史をみると、東京湾要塞は、まず富津岬と観音崎との間に3つの海堡を置き、三浦半島側では横須賀軍港地区をはじめ、走水・観音崎、久里浜、三崎の各地区に、房総半島では富津をはじめ、金谷や大房岬、館山洲崎の各地区に、東京湾口全域を射程に入れた多数の砲台が配備された分散型の要塞であった。日清戦争の勃発で全国で要塞建設が進み、とくに日露戦争では、ウラジオストック艦隊が津軽海峡を通過して東京湾外に現れたので、首都防衛の最前線としての東京湾要塞が重要視された。この間、建設に鉄筋コンクリート技術が導入されたり、輸入に頼っていた要塞の火砲が国産化された。しかし第一次世界大戦では、火砲の性能の向上や潜水艦・航空機の出現で、軍部は要塞の改編と威力の向上に迫られた。


海軍では、「帝国国防方針」にそって、アメリカを仮想敵国とした「国防上ノ第一艦隊」を構想し、1911(明治44)年以来、艦令8年未満の戦艦8隻と巡洋艦8隻とを主力艦とする、いわゆる「八八艦隊」計画に基づき建艦していた。しかし1922年、ワシントン会議の海軍軍縮条約調印によって、主力艦の保有量が制限され、未完成の艦艇建造は中止に追い込まれた。

この経緯のなかで、陸軍は海軍と交渉し、解体の主力艦の大口径砲塔を陸上砲塔に改修し要塞砲にすることで、沿岸防備を強化し海軍力の劣勢を補おうとした。この建設は極めて困難な事業で、1928年から4年の歳月が費やされたといわれる。

房総地区では、洲崎第一砲台に巡洋艦生駒の主砲45口径30センチカノン砲2門入砲塔1基を、大房岬砲台に巡洋艦鞍馬か伊吹の副砲45口径20センチカノン砲2門入砲塔2基を配備した。1932(昭和7)年、強力な要塞砲をもった永久構築の要塞が完成した。国際的な軍縮のなかでの要塞軍備の近代化は、陸海軍連携による日本列島の不沈空母化の第一歩にしていった。


【(2)館山砲術学校の歴史】

館山砲術学校(通称「館砲」)は横須賀にある海軍砲術学校の分校として1940(昭和15)年より設立の準備が急がれていた。そして1941年6月1日に海軍の陸上砲術の実地訓練を目的として、館山市佐野の地に設置されたのが「館山海軍砲術学校」であった。


従来、海軍が陸上戦闘を行う場合は、その都度各科兵種の戦闘員を以て臨機に特別陸戦隊を編成したものであったが、今後はこの「館砲」で陸軍戦闘の専門家を養成しょうということであった。米海兵隊の指揮官に、大学、高専卒の予備士官が多く充てられているように、日本海軍も新たに予備学生を採用して下士官を育成しょうとしたのである。「館砲」での訓練生は大学・高専卒のほか、普通科練習生・高等科練習生・講習員・特殊部隊(山岡部隊等)とさまざまであった。普通科練習生とは、海兵団で新兵教育を受けた後、人格的にも一定の評価を受ける学力試験にパスした二等水兵、一等水兵等である。高等科練習生とは、海軍で一定の経験を経た二、三等兵曹等であった。常時、1万5千人はいたといわれている訓練生は、日夜にわかたぬ厳しい訓練を受け、北はアリューシャンの島々に、南はジャワ、ニューギニア島の戦地に出発していった。


敗戦直前に軍の書類はいっさい焼却され、ここで訓練を受けた将兵の正確な証拠は皆無といってよいだろう。幸いにも戦地から帰還でした人々のなかには同期の会を結成して、なき戦友の慰霊祭を毎年とり行っているグループもある。ときおり発刊される「戦史」、「思い出の記」等などのわずかな資料にすぎないが、兵科予備学生の記録を中心として「館砲」を紹介しよう。

海軍の予備学生制度は、1934年(昭和9)の飛行科予備学生制度(年間2030人ほど)に始まる。兵科予備学生制度は1941(昭和16)年秋から始まり、42(昭17)年1月に入隊した1期予備学生の任官者は532人(一般兵科は400人)、2期予備学生は644人(兵科は484人)、3期予備学生の兵科の任官者は3513人であった。

1943(昭和18)年10月採用の予備学生は「大学の学部、予科、予科、高等学校高等科、専門学校卒業・見込み、28才未満の者」で採用後、1年間艦船部隊ないしは、学校で基礎訓練を行い、その後一般、飛行、整備に分かれて専修別訓練を行うということであった。採用決定後、「館砲」・横須賀第2海兵団(武山海兵団)、旅順方面特別根拠地隊海軍兵学校(江田島)・土浦航空隊に分かれて入隊した。

「館砲」入校の3期生は、陸戦・対空・化学兵器(3期以降)の3科に分かれて教育を受けた。3科の訓練内容をあげると、「陸戦科」は学校前に広がる海岸の演習場で分隊、小、中、大隊の攻撃、防御訓練を日夜繰り返し、水陸両用戦車隊も使って猛訓練に明け暮れた。戦局の初期には専ら敵前上陸、橋頭堡確保などを主眼とした戦闘訓練が実施されたが、戦局の推移とともに対戦車戦闘、夜間挺身奇襲戦闘、噴進確射訓練等へと重点が移った。「対空科」は学校の西側、東側の山頂に構築された高角砲の砲台で高射射撃指揮と砲員の操作訓練に励んだ。卒業前には学生は、館山航空隊から吹き流しを曳いた飛行機を飛ばしてもらい、吹き流しを標的にして対空攻撃の実弾訓練をした。「化学兵器科」は、当時日本で細菌戦の訓練をしていた唯一の軍隊とも言われ、毒ガス戦の訓練等をしていた。兵科の性質上、薬、歯学学生や理工科系学生が多く配された。

3期生は1943(昭和18)年10月8日の入校式から基礎訓練に入り、翌44(昭19)年1月31日から術科訓練にはいり、5月31日卒業式、少尉となってサイパン・フィリピン等にそれぞれ赴任しているが、戦死者の一番多いのが3期生だという。なお「学徒出陣」13万人のうち海軍には、1万7千人が入隊したといわれている。

そして4期生は「学徒出陣」の学徒である。高専卒以上は兵科4期予備学生、高専在学中の者は1期予備学生として1944(昭19)年2月に採用、同年7月から術科訓練、12月には卒業となった。

5期の学生・生徒(総数4千人)は1944(昭19)年9月武山、旅順方面隊に入隊。翌45(昭20)年3月から術科訓練、同年6月1日卒業、任官。本土決戦の水中・水上の特攻要員育成の拡充がはかられた。


アメリカ軍の反攻がはじまり、1943(昭和18)年2月には、ガダルカナル島から撤退せざるを得なくなり、以後戦争の主導権は連合国側に握られることになった。「内地」では「非常時」が強調され、4月学徒出動命令が出された。卒業・修業年限も短縮され、徴兵猶予の特例も停止され、同年10月21日には神宮競技場で出陣学徒壮行会が挙行された。

1944(昭和19)年7月7日、サイパン島が陥落して直接的な本土空襲がはじまり、もはや戦局の劣勢を被い隠すことが不可能となった。1945(昭和20)年1月からはフィリピンのルソン島攻防戦がはじまり、同年2月の硫黄島、4月の沖縄戦と日本は追いつめられていった。


1945年7月以降、館山海軍砲術学校は館山警備隊の任務も兼ねるようになり、学校周辺の砲台の構築、整備に力を入れ、対空防備の拡充に全力を傾けることになった。館山地区の防衛に兵力を割かれるようになった。訓練は陸戦と防空のみに重点をしぼって、短期間の訓練で第一線に次から次へ出ていった。1945(昭和20)年2月頃より陸戦科で付近の白土採掘跡を調査した。上陸した敵に対してのゲリラ戦用の壕として5カ所を借り受けた。


1945(昭和20)年4月、「館砲」の初代・3代の校長であった阿部孝壮中将は佐世保警備隊指令兼佐世保連合特別陸戦隊司令官に補されて「館砲」を去った。4月25日を以て「館砲」は横須賀海軍砲術学校の分校になった。7月31日、学校は閉鎖され、兵員、器材は茅ヶ崎に移された。廃校後は施設の保安要員として、木村兵曹長ほか若干名が残留して、陸軍工兵部隊に引き渡すことになった。


≪●証言:毒ガスや細菌戦の訓練とアメリカ上陸大統領暗殺作戦「山岡部隊」≫

「海軍で細菌戦の訓練をやっていたのは全国でただひとつ房総海岸の「館砲」だけだった。それも海軍部内から、よりによった150数名の人間が極秘に化学兵器班として訓練されていた。秘密厳守は徹底的で、同期生、面会の父兄にすら、仕事の断片さえも語ることが許されなかった。・・・・19年秋のある朝、「化兵」全員が暗いうちにたたき起こされ布良海岸に整列。全員防毒衣をつけた。上質のゴムとマスクの着衣、四肢のつけねまで手袋と長靴、そしてサラシ粉。息苦しく、1時間もたてば長靴に2、3合も水が溜まる。全身水びたしのような汗だった。しかし、少しでも緩めるならば命取りになる。・・・・海岸線の波打ち際に得体に知れない液体を撒いていった。米兵の上陸してくる前に撒けば、一週間は生きている。その液が口から入れば猛烈な下痢を起こす、と教官達が言った」


「昭和19年の初め頃、他の兵隊よりずっと体格がよく、しかも長髪で、いつも薄い緑色(第三種軍装)の戦闘服を着ている兵士の姿が目立つようになった。村の人たちから「山岡部隊」と呼ばれる「特攻S特」は大虎部隊とも呼ばれた。隊員約350名は厳格な条件のもとで選ばれた、知力・体力ともに優れた人材ばかりだった。風貌も体格も欧米人並みで、髪を伸ばし英語をあやつり、米国本土の地理や交通にも詳しく、特別な食事によって体質まで米人的だと言われた。

本来の目的はフィリピン・サイパン等敵にわたった地域に隠密に上陸し、散発的ゲリラとなってB29爆撃機を焼き払い、また指令部に進入して幹部・首脳を制圧し、一挙に戦勢を逆転させることにあったが、目的地域はいずれも敵の包囲、警戒等が厳重なため、逆上陸は不可能と判断、昭和19年12月頃になって米国本土への挺身上陸、奇襲攻撃の命令を受けたといわれる。そのため、状況判断、身辺警戒に針のような勘を働かせ、どんな苦難、欠乏にも耐えるよう訓練された。富浦町大房岬の海岸から直角にそそりたつ100メートル近い高さの岸壁を素手で登る訓練もした。実際、訓練中に墜落して死亡した者もあった。

1945(昭和20)年6月「山岡部隊」はサイパン・グアム・テニアンの敵拠点を急襲、奪回するために全員青森県の三沢基地へ移動。しかし三沢基地は間もなく大空襲を受けて、苦心してあつめた一式陸上攻撃機25機の大半は破壊されてしまった。作戦決行が8月17日、もしくは18日に延期された。8月15日に終戦となり「神風特攻隊御盾隊」は幻の隊となった。


【(3)洲ノ埼海軍航空隊の歴史】

洲ノ埼海軍航空隊(略して「洲ノ空」と呼ぶ)は、1943(昭和18)年6月横須賀海軍航空隊から独立して開隊され、同時に第18練習聯合航空隊に編入された、全国でただひとつの「兵器整備練習航空隊」である。(海軍では「学校」とは言わない。なお生徒は「練習生」と呼ばれる)

普通科・高等科とあり、兵器整備は射爆・無線・写真・光学(その後、さらに魚雷・電探・雷爆など)と分かれていた。翌44年2月1日、航空隊編成替えにより、第13練習聯合航空隊に編入替えになり、予備学生、飛行予科練習生出身者と練習兵出身者の各分隊の専門教育が行われていた。3月15日新たに横須賀分遣隊がおかれ、雷爆兵器整備教育が開始され、練習生が増員された。


「洲ノ空」は指導教官に実戦経験者をおき、練兵場を中心に、本部庁舎・兵舎と講堂を主な建物として練習機や教材飛行機の格納庫、木工鉄工作場、道場、士官宿舎、酒保、ボイラー、ほうすい所、倉庫、浴場、神社、相撲場等などさまざまな施設で構成され、一部はコンクリート塀等で囲まれていた。

新兵教育は2カ月間で、各個教練から陸戦まで平砂浦にて演習、また一日おきに水泳訓練、体育、手旗、軍歌演習があり、学科では国語、数学、訓育であった。食事は麦飯が食器に平に盛り、副食はらっきょうの漬物と人参の葉の味噌汁や海水のようなすまし汁、夜は魚などごった煮した汁で骨だけで魚肉はなかった。

兵器整備練習航空隊の普通科(専門教程は四班に区分)では次のような教育訓練を実施していた。


≪射爆兵器(大型小型)班≫

戦闘機攻撃用7・7mm機銃と20mm機銃の分解結合、13mm機銃の取扱い、カム 調整、装填射撃の方法、爆弾の構造、模擬爆弾による爆装投下、毒ガス兵器に関 する学科、実験解毒(催涙ガス、くしゃみガス、びらん性ガスイペリオ)、弾道 爆弾の落下速度に関する学科、航空写真機、照準器、航法兵器の簡単な取扱い、 無線モールス信号

≪無線兵器班≫

戦闘機偵察機の無線機搭載、送受信、分解修理、電波に関する学科、7・7mm旋回機銃の取扱い

≪写真兵器班≫

偵察機に写真機の搭載、撮影現像焼き付け、暗室関係映写機の取扱い、写真に関する学科、7・7mm旋回機銃の取扱い

≪光学兵器班≫

戦闘機攻撃機の照準器搭載、照準器航法兵器の取扱い、数学航法に関する学科、7・7mm旋回機銃の取扱い


全国の理系(工農学部)大学・高専からきた「兵器整備予備学生」は1942(昭和17)年9月第6期347名であるが、翌43年10月の第7期336名が「洲ノ空」ではじめて予備学生であり、第1期のスタートであった。専門教程は「射爆班」「魚雷班」「光学班」「無線班」「電探班」「写真班」に分かれて訓練を受け、1944(昭和19)年5月1日に卒業している。5月には第8期(「洲ノ空」第2期)139名、10月には第9期(「洲ノ空」第3期)600名が入校している。この年には前述以外に徴兵・志願兵などが多数入隊し、「洲ノ空」には1万名以上いたと推定される。

1945(昭和20)年に入り、戦局が逼迫し防空壕堀りが多くなり、本土決戦準備態勢へと移行していった。普通科の教育期間中、館山航空基地の誘導路整備作業(トロッコ押し)や戦闘機の掩退壕への格納作業があった。またこの頃館山海軍航空基地や「洲ノ空」への空襲が激しくなったこともあり、兵舎の取り壊しと全体の移転がはじまった。5月には司令部・副官部が館山市南条にうつり、各班は館山各地に疎開したと言われている。

現在館山市笠名に住む加藤喜美代さんは女学校を卒業した年に知人の紹介で、1943(昭和18)年12月自宅に近い「洲ノ空」で女性職員第一号として採用された。庁舎の副官部(庶務部)で電話手やタイプの仕事をしていた。タイプの活字である鉛がある倉庫が爆撃されて、鉛が飛び散っていったことが忘れられないという。この笠名地区は「館空」「洲ノ空」に隣接しているので空襲の被害が多かった。


≪●証言:戦後の笠名・大賀地区の「洲ノ空」跡地返還運動≫

戦後、終戦連絡委員会が館山にきたことで、日本で最初に米軍との交渉があり、米軍(カニング准将)によって「4日間」の直接軍政が敷かれたが、すぐに解除された。米軍のベースキャンプとして「館空」「洲ノ空」にカマボコ兵舎がつくられることになり、笠名地区が突然立ち退きを命ぜられた。この日の午後2時頃きて、夜の12時まで荷物をまとめて疎開せよとのことであった。このとき荷物を家に置いたままであったので、上陸した米軍などに家財を略奪されたとの証言がある。

ところで加藤喜美代さんの夫である加藤利さん(72才・元高校教員)は明治大学卒業後、東京の企業に就職するが、1944年9月30日に、第15期飛行専修予備学生に志願し、土浦航空隊基礎課程を修了し、さらに45年6月に少尉に任官し特修学生となっている。学生教程では「神竜特攻要員」として神立ち基地で操縦分隊滑空訓練し、その後福井県浜四郷に移り特攻訓練に明け暮れていた。しかし終戦になり一時北海道にいく計画も考えたが、8月下旬故郷の房州の地を踏んだ。

1949年喜美代さんと結婚し教員生活にはいり、地域の青年団としても活躍する。1942年笠名・大賀・宮城地区は「洲ノ空」開設に当たり海軍省による土地買収に応じ、笠名の70戸あまりは田畑を手放した。この「洲ノ空」建設によって、土地の形状はすっかり変わってしまった。戦後、住民には土地の返還を要望していたが、県や市は刑務所や企業などの誘致にこの土地の利用を考えていた。この動きを青年団を中心に反対し、とくに地域の農民たちは土地の返還要求を全面に掲げた。食糧難であったので「洲ノ空」跡にいた引き揚げ者や疎開している人々はその土地を開墾をしていた。

1955年本格的に土地返還運動をすすめ、加藤利さんは教員のかたわら、笠名地区の農家組合長や農業委員をしながら、この運動の先頭にたち土地返還を成功させた。この時返還のためには「洲ノ空」の開墾をするとの理由をつけ開拓農地とした。その際開拓農地としての基準である3反以上の払い下げをまずさせたうえ、さらに3反以下の土地所有者のためには加藤さんが払い下げ地をまとめて申請し、その後修正することで、当時海軍省に買い上げられた土地を登記簿どうりにすべて返還したのであった。

実にこの作業には測量に始まってから10年の歳月を要した。この間加藤さんを中心に農民たちは、一人ひとりの要求を聞きながら、笠名地区のあり方を考えた。また戦後「洲ノ空」跡に引き揚げ、その地を開墾していた人々の生活のために代替地を無償で提供してきたという。この笠名地区は1930年の館山海軍航空基地建設に当たっても土地提供をもとめられたうえ、滑走路埋立のため山の土砂が多量に使われている。軍による田畑の一方的な買い上げと戦後の混乱で、土地所有関係が変ったり、不明になったことを考えると、「館空」「洲ノ空」建設に伴う笠名の農民たちの心には、語られることは少ないが今なお戦争の傷跡は消えていない。

なお、笠名・大賀地区にかかる双子山地域は、その後も大蔵省関東管財局の管轄になっていたが、深津文雄牧師が要求していた「売春防止法」に伴う要保護女子のための「コロニー」建設用地として、双子山を含む丘陵地帯3万坪が払い下げられ、1965(昭和40)年には「かにた婦人の村」が創設されたのである。


【(4)地域研究:軍需物資「カジメ・アラメ」と朝鮮人海女】

カジメとアラメは外海性岩礁に育成する大型の多年草海藻で褐藻類である。明治初期までは主に肥料として使われていたが、明治20年代に入って海藻灰ヨード工業がおこると、その工業原料として大量に用いられた。生産量は年々増加し1904、5年の日露戦争中に急増したことで、1908(明治41)年森為吉らは房総の粗製ヨード製造業者を合同して「総房水産(株)」を設立した。1914(大正3)年第1次世界大戦中にカジメ生産量が最高になったのも、敵国ドイツよりの医薬品輸入がストップしたことで、ヨードや塩化カリなどの国内生産が求められからであった。


1926(大正15)年森は日本沃度(株)を設立しヨードの製造やヨードを主とする医薬品の製造をおこない、自社製の塩化カリを原料として硝石をつくり、陸軍造兵廠へ納入した。27年に樺太沃度合資会社、翌年朝鮮沃度(株)が済州島を中心に開設されるが、世界恐慌の波及でヨード業界は不況になる。そして1931年満州事変が始まり、軍需が増大しカジメ生産が上昇していく。

しかし1934(昭和9)年ころ、天然ガス鹹水ヨード工業がおこったので、カジメ生産量は減少していくことになる。ところで磯根漁業はカジメ・アラメの採集だけでなくアワビ採捕が中心になる。アワビはカジメ・アラメを餌とする食物連鎖上の高次動物の一種である。しかしアワビは軍需物資の条件に乏しかった。

1941(昭和16)年8月2日付け「カジメ採集ニ関スル件」のなかで「決死的御協力ニ依リ其責任数量確保ニ萬全ヲ期シ国家ノ使命・・・・緊迫セル時局下ニ於ケル国策遂行ニ協力」とカジメ採集の供出責任数量を各漁協に割り当てている。そして、千葉県経済部長から漁業協同組合長にあてた文書には「カジメの供出が高度国防国家建設に寄与する処大なるを貴組合員に周知せしめ当分の間カジメの採取、集荷に専念せしめられ度此段重ねて及通牒候也」と述べられている。

さらに8月16日付けで乾燥したカジメ・アラメは軍部の指示で「昭和電工株式会社ニ荷渡ス事」と通知された。この昭和電工(株)は前述の日本沃度(株)が日本電気工業(株)と改称後、1939年昭和肥料(株)と合併して設立された、陸海軍指定工場で、1941年当時には千葉県内には興津工場(ヨード・ヨードカリ・塩化カリの製造)・館山工場(ヨード・塩化カリ・カリ肥料・食塩を製造)があった。

ところで両工場では乾燥カジメ・アラメを焼いて海藻灰(ヨード灰=ケルプ)からヨードを製造していた。供出品の水分や砂分を規定し、乾燥その他についても工場側に有利な取扱いであった。アワビなどを差し置いてカジメの採集、集荷に専念することが国策として求められた。1943年6月4日の「朝日新聞」千葉版には、「カリを多量に含む海藻が軍需資源として極めて重要であるに顧み商工省では陸海軍、農林、企画院の各省および全漁連、カリ塩対策協議会と協力し全国の漁民を総動員して海藻採取の大運動を展開している」の記事が見られる。


このように海藻灰ヨード工業は戦争と深いかかわりがある。化学薬品のヨードは医薬品をつくる軍需物資であるとともに、このヨード原料の海藻カジメ・アラメが「火薬」原料という極めて高度の軍事戦略物資であったことを忘れてはならない。と同時に朝鮮の済州島から来た海女たちが、このカジメ・アラメ採集に深くかわっていることを指摘したい。

朝鮮では海女、つまり裸潜漁業者を「チャムス」「チャムニョ」「ヘニョ」と呼んでいる。古来より朝鮮の済州島ではチャムスによる漁業が盛んであった。日本の海女技術は、済州島から伝わって来たともいわれている。明治期より日本の潜水漁業者が豊かな磯根漁場であった済州島に進出し、トラブルも起こしている。記録によると、1915年に日本人ヨード製造業者が済州島のカジメを買い占めたとあるが、前述したように28年には朝鮮沃度(株)が済州島に設立されている。

その間、20年には済州島海女組合が創設されたが、総督府の御用組合であったので、日本商人のための組織であった。そのなかで30年には、済州島よりの出稼ぎの海女3860人が、海女組合に抗議する漁労作業拒否のストライキ闘争をしたといわれる。さらに32年1月には、いわゆる「済州島海女闘争」があり、大小集会やデモが238回、延べ16036人チャムスが参加し、労働条件を若干改善したという。

当時済州島からの出稼ぎチャムスは5078人(海女組合員総数8862人の約57%)にのぼっており、朝鮮本土へは3478人、そして日本へ1600人(当時の日本の海女は12913人)いったという。日本での出稼ぎ地域をみると東京(三宅島・大島)・千葉・神奈川・静岡・三重・徳島・高知・鹿児島・長崎であった。1939年「国民徴用令」は官斡旋とか一般徴用という名のもとで、多くの朝鮮人への強制連行おこなわれるが、海女関係も例外でなかった。ところで朝鮮総督府は済州島開発と称して火薬原料としての「カジメ」切りの義務化や供出を命じている。またイワシの巾着網漁業が奨励され、イワシからの油もグリセリンという軍需物資に化けた。

日本に来たチャムスの金貞仁さんは徴用でカジメ切りをされたという。「館山に館山航空隊っていうのがあったの。そこで上の人から命令があって、組合関係の人が来て、カジメを切りに来れば炭坑に徴用に行かなくもいい」といわれた。1944年ころカジメの需要が急増するなかで、働き盛りの海士たちを戦場に取られた房総の漁村では、労働力として出稼ぎに来ていたチャムスたちが動員された。一つの浜を取り尽くすと隣の浜に移動するというように、「漁業組合関係者の監視のもとにとれる限りとった」という。特に金谷・保田・勝山一帯はもともと海女がいなかったのでチャムスが動員された。

1938年頃から勝浦にも毎年10人前後のチャムスたちが出稼ぎに来ていた。その時引率者のひとりの文万国さんはチャムスについて「日本に来たのは生活のため。来ればそれだけ食いぶちが減る。あの時は男であろうが女であろうが若いもんはみんな軍需工場へ引っ張り出すとか、朝鮮の慰安婦というやつを戦場送るでしょ。若い娘たちはそういうところから逃れようとして来ていた」という。

1943年に日本に出稼ぎに来た金栄児さんは、和田浦でアワビ・テングサなどを採っていたが、44年からはカジメ切りを強制された。食糧の配給が少ないので、ひもじさを補うためアワビやサザエを採ろうにも、漁業会からはカジメ切りの期間はアワビ採りは一切禁止され、採った場合厳しく処置された。軍需物資としてのカジメの増産に毎日おわれていたのである。


【(5)地域研究:「ウミホタル」(海蛍)の軍事利用と「花づくり」禁止】

安房高校史や安房水産高校史をみると、勤労動員作業記録に「海蛍」採集と記載されている。いったいウミホタルは何に使われたのだろうか。戦時中、千葉県水産試験場技師製造課長で安房水産学校教諭の尾谷茂氏の証言によると、陸軍第8研究所よりの嘱託命令で「ウミホタル」採捕供出を命ぜられ、生徒を動員したという。

日本名「ウミホタル」は「あんけら」「ひき」(戦中防諜上の呼名)とも呼び、夜行性で昼間は砂中に眠りる。大きさは3ミリメートル程度で楕円形、表皮はケラチン質で灰白色、満月期に触覚で活発に動き、青色蛍光色が特徴(夜光虫は一般蛍光色)。動物性腐敗物を好食する。生物学的には甲殻綱介形亜綱ミオドコバ目ウミホタル科に属している。体長は産地により少しずつ異なり、1ミリより最大7ミリの大型種まであり、館山産は中型に属する。春、水温の上昇と共に深部より浅瀬に移動して、秋の終わりにまた沖合いの砂泥にかくれる。日本各地にもみられるが、特に瀬戸内海や館山湾などに多くみられた。

甲殻質のなかの体細胞中に発光性物質をもっており、常時発光しながら遊泳する。発光体はルシフェリンという化合物質が、ルシフェラーゼという酸化酵素の働きでAPTエネルギーを利用して化合反応を起こす。その際反応には水分の存在が必要とされる。


1944年9月、資源科学研究所の加藤光次郎は論文で「大東亜戦争の勃発以来、新聞紙に見る南方戦線、大陸戦線からの報道によると、蛍や発光する茸の光が皇軍将兵の夜間行動に少なからぬ便宜を与えることがあるようである。ところが蛍や発光茸は時と所によって自由には得られぬことが多い。生物の発光を必要に応じて用いることができたら如何に便利であろう。生物の放つ光ははとんど熱を伴わない、いわゆる冷光で、しかも近くは照らすが遠方からは発見されにくく、マッチや煙草の火さえ注意せねばならぬ空襲下の灯火管制のもとに、防空活動に従事し、防空壕に待避する時など、懐中電灯に代わってこの生物光の利用が考えられる。このような目的にそう発光する動植物の研究が、生物学・医学・物理化学の各方面から近年とみに盛んになってきた。ここに紹介する海蛍はこの意味で最も役にたつ発光動物の一つである」と述べている。

軍部が大学などの研究者に依頼したのは、まず夜間に陣地突撃戦時の見方軍の標識(暗夜識別)と懐中電灯替わりの携帯用照明である。つまり乾燥したウミホタルを粉末化し、それに水や唾液を付けての発光させた時、適度な明るさと適度な持続時間をもつかどうかにあった。前述の加藤論文には「乾燥材料は粉にして、使用に際しその4〜5グラムを100cc位の水に入れれば30〜60分間発光を持続する。発光継続時間の短いことが海蛍の最大の欠点である。光の寿命を長く延ばすべく目下色々と研究がすすめられている」とまとめている。また、乾燥後の取扱いで貯蔵の方法が悪く不合格品が多かったようだ。吸湿しないように乾燥剤を入れて、容器を密封するなど改良が加えられたが十分なものでなかった。


夜間攻撃敵見方標識に発光紙がどの程度利用されていたかは不明であるが、この発光標識紙は乾燥粉末ウミボタルを化学糊に混ぜて標識用紙に直径2、3センチに塗布後、即乾燥させて用紙を5センチ四方に切断し胸部に貼った(発光時間は40時間ともいう)といわれている。たが、携帯用照明はあまり実用にならなかったようだ。

軍部はさらに「ウミホタル照明弾」の開発を命令した。夜間海上の敵艦船に特攻攻撃する時、撃墜されることなく体当たりするため、敵艦の周囲の海面だけ明るく浮かびだたせ、船の輪郭がわかれば命中率があがると考えたのである。1945年7月頃実用化に成功したといわれる。


≪●地域研究:「花づくり」禁止≫

安房の花栽培農家は、1941年戦争の勃発とその後の戦勝で、花の需要が増え大変景気はよかった。ところが戦況が変わる中で、1944年に食糧物資が乏しくなったこともあり、食糧生産が農政の第一目標と定められ、農家に農産物の作付割当てが強制された。そのなかでも特に千葉県と長野県では、花が禁止作物に指定されたため、花づくり農家が壊滅的な打撃をうけることになる。

政府の花づくりに対する取り締まりは、厳しく、花の苗や種は焼却することになっていた。また今作っている花は当然全部抜き取ってしまうことが命ぜられた。花を作ることは「国賊」と言われ、隣保制の青年団が畑や納屋を監視するとともに、花づくりの禁止を徹底した。このように花畑は命令により薩摩芋と麦畑に変えられたのであった。

1938年の「国家総動員法」の第1条には、「戦時に際し、国防目的達成の為国の全力を最も有効に発揮せしむる様、人的及び物的資源を統制する」を受けて、1941年の「臨時農地管理令」に、地方長官の必要なとき「農作物の種類その他の事項を指定して作付けを命ずることができる」という勅令で花づくりが制約したのである。そして1942年の「農業生産統制令」には、「地区内に於いて生産されるべき農作物の種類、数量または作付面積・・・・に関して生産計画をたて、地方長官に届けよ」という勅令により、花づくりは禁止されていった。

09年3月6日 9,207

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