戦跡からみる安房の20世紀
②戦跡が語る軍都館山
【身近に残る海軍の戦跡】
東京湾要塞地帯内の館山には、海軍などの軍事施設が置かれた。いまも残る館山海軍航空隊(通称「館空」)・洲ノ崎海軍航空隊(通称「洲ノ空」)・館山海軍砲術学校(通称「館砲」)・その他海軍関係の戦跡の一部を紹介したい。
まず「館空」では、本部庁舎・正門跡・塀跡・水上班第二滑走台跡・五〇トンクレーン設置跡・航空隊用浄水場・沖ノ島防空壕跡・鷹ノ島防空壕跡(軍需部油槽跡)・笠名弾薬庫跡・「赤山」航空要塞跡(山頂方位測定所跡・燃料タンク跡・司令部跡・発電所跡)・宮城戦闘機用掩体壕跡・香大型機用掩体壕跡・城山送信所壕跡・上野原送信所跡・防空砲台ー城山砲台跡(高角砲陣地跡・火薬庫跡・機銃座土塁跡・標柱)・大賀双子山第一砲台跡・館野大網第二砲台跡(高角砲陣地跡・発電所跡・香寺山(探照灯)跡・航空隊レーダー基地跡などが残っている。
次に「洲ノ空」関係では、兵舎跡・本部庁舎跡・兵舎防空壕跡・防火用水跡・天神山防空壕跡・射撃場跡・一二八高地抵抗拠点「戦闘指揮所」「作戦室」壕跡などが残っている。
そして「館砲」関係では、パラシュート降下訓練用プール跡・発電所壕跡・烹水場ボイラー室跡・平砂浦訓練場跡・ガス講堂横防空壕跡・射撃訓練場跡・配水場跡・東砲台跡(高角砲陣地跡)・西砲台跡・南砲台跡などが残っている。
その他海軍関係としては、横須賀防備衛所跡、第二海軍航空廠(館山補給工場跡・付属発電所跡・魚雷庫跡・塀跡・部品保管用防空壕跡)、横須賀海軍軍需部館山支庫(塀跡・正門跡・燃料倉庫跡)、布良大山電探基地跡(機材防空壕跡・基地トンネル跡)などが残っている。
【ワシントン体制下の軍拡】
一九二一(大正一〇)年のワシントン会議以来、世界的には軍縮の方向にあったが、海軍では条約制限外の兵力として航空兵力の拡充を図ることになる。
二七年ジュネーブ軍縮会議は決裂するが、二九年の世界大恐慌は再び軍縮の気運を生み、三〇年にはロンドンで補助艦制限のための軍縮会議が開催された。経済不況さなかの建艦競争は日本に不利との見地から、海軍の反対を抑えて条約を締結した。しかし、その間も航空兵力の増強がすすめられた。
ところで、一九一六(大正五)年、議会で航空隊設備費が承認され飛行隊三隊の配備決定したことで、三月には海軍航空隊令により「海軍航空隊はこれを横須賀軍港に置き、なお必要に応じ他の軍港、要港およびその他要地に置く。海軍航空隊はその所在の地名を冠す」と規定し、翌月には海軍最初の航空隊が横須賀に開隊し、水上機が配備された。二〇年には十七飛行隊計画が承認され、三一(昭和六)年までに完成をめざした。
【全国五番目に「館空」開隊】
こうして横須賀から始まり、佐世保、霞ヶ浦、大村、館山、呉と六航空隊が次々と開隊し、海軍航空隊の基礎がつくられていった。この間、金融恐慌や世界大恐慌の時期にもかかわらず軍事費を拡大し、とくにロンドン軍縮条約調印の三〇年にも、補助艦の不足を補うために第一次軍備拡充計画を立てて、航空兵力の増強を図った。
まさにこの年の六月一日に、横須賀鎮守府所属の帝都防衛の実戦航空部隊として、全国五番目となる館山海軍航空隊が東京湾要塞地帯の一角に開隊したのであった。
この飛行場は、関東大震災で館山湾岸の笠名海岸と沖の島、さらに鷹の島を結ぶ一帯の海底が隆起し、遠浅になったところを埋立てて建設された。滑走路を海上においたことで、航空母艦の形状に似たので、艦上攻撃機などの訓練に適していた。
航空隊では機種によって水上班と陸上班とに分け、とくに練習航空隊卒業直後の新搭乗員訓練(練成)を受け持った。
【「館空」の軍事的役割】
手元の「軍極秘 昭和十四年六月館山海軍航空隊現状申告覚書」(防衛研究所図書館蔵)によると、当時基地には准士官以上一〇四名と下士官・兵一四三五名、そして特別教育中の搭乗員二三一名がいた。とくに教育訓練では「現下膨張シツツアル航空隊ノ要員養成ニ於テ其ノ基礎的教育ノ良否ガ懸ツテ将来我海軍航空部隊ノ素質ニ影響スル・・・殊ニ本隊ハ水上機ノ全部、艦上機ノ一部即チ海軍航空特別教育ノ大部ヲ擔當スル重責ニアル・・・」と述べ、「毎日平均艦上攻撃機三〇機水上偵察機三〇機計六〇機ヲ使用シツツアリ」と報告している。館山航空基地は、八九式艦攻二十三機・九七式艦攻四十機・九四式水偵三十機・九五式水偵二十二機など百二十四機を配備し、当時海軍航空機の兵站基地として、漢口・南京・高雄などの中国戦線の航空基地に九七式艦攻を送り込む任務を負っていた。