戦跡からみる安房の20世紀
⑩ 敗戦前後の安房と幻の「直接軍政」
【軍隊七万を本土決戦に投入】
安房に配置された東京湾兵団で本土決戦準備をみると、まず自給自活の食糧生産を重視し、漁業会へ援漁隊や安房郡市町村へ援農隊を派遣して食糧の確保に努めていた。また、武器生産の面では、臨時造兵隊を開設して陣地建設の道具や資材、迫撃砲・弾薬や簡易兵器をはじめ、本土決戦用の特別の刺突爆雷や手榴弾などを大量生産していた。
さらに軍事的対応では、通信施設や特設見張所、とくに各地に電波警戒機を設置し通信情報網を整備したり、水際戦に強い噴進砲部隊やトンネルを利用する列車砲部隊、さまざまな水上水中特攻兵器部隊、なかでも特攻機「桜花」部隊は米軍に一撃を加える切り札として期待された。
根こそぎ動員で陸軍兵力も一段と増強され、第三五四師団や独立混成第一一四旅団が投入され、狭い安房には陸海軍七万人近くの兵士があふれたのであった。
【安房の「捨て石」作戦構想】
忘れてならないのは、大本営が九十九里海岸や相模湾岸の両面を見据える房総半島南部の先端部に帝都防衛での重要な戦略的役割を与えたと思われる。つまり、最終的な司令部を鋸山に設置する命令が出て、突貫工事ですすめられていた。
これは沖縄戦を教訓とした作戦で、米軍を房総半島南部に引きつけて持久戦に持ち込み、本土決戦下のいわゆる「捨て石」作戦を想定していた。これは長野県松代への大本営移動にむけて、安房の軍隊には時間稼ぎの役割があったのである。
第一二方面軍は、沖縄作戦終了で「敵の本土侵攻作戦準備概ね完了し、その攻撃兵力は既に海上に在り。沖縄の敵兵は、七月二〇日移動せること略々確実」と判断した。各部隊には七月二四日零時までに戦闘準備を完了し、いつでも戦える態勢の維持を命じたまま、敗戦をむかえたのであった。
混乱した戦後のスタート
八月一五日正午、「戦争終結の詔勅」が発布されたが、館山の街頭では陸軍の軍人が血気盛んに「国民よ総決起せよ」と檄をとばしていたという。翌日には、木更津基地の一機が飛び立ち、一四七師団司令部や東京湾要塞司令部の上空から「終戦は敵の謀略だ。我々は断固として最後まで戦う」内容のビラを撒いた。
翌日夜、東京湾要塞司令部があった船形国民学校での終戦詔勅伝達式では、一部将校が一四七師団第四二七連隊を動かして、伝達式の侍従武官や師団長はじめ全将校を取り囲み全員を射殺して、東京に向かうというクーデターを画策したという。結局未遂に終わった。
【アメリカの戦後占領政策】
館山は軍事戦略上最重要地域であったので、米軍は侵攻の上陸地点と想定しただけでなく、日本降伏後は最初の占領政策を実施する地域と構想した。
ところで、アメリカ政府は占領軍が直接軍政を敷いた沖縄を除き、日本本土ではポツダム宣言にそって、日本政府を通じた間接的な占領行政を指示していた。
米軍司令部は、大本営に対して「九月一日、占領軍本隊である米第八軍の一部が館山海軍航空隊に進駐する」と打電した。三〇日朝に第六海兵師団は富津岬に上陸し、東京湾要塞の要である海堡を爆破し、午前八時頃にはマッカーサーが厚木に到着した。
この日館山では、占領軍を迎えるために館山終戦連絡委員会を設置し、まず米軍駐屯地になる基地周辺の民家に強制立ち退きを命じた。三一日には「館空」基地東岸壁に、米第八軍のクロフォード少佐が指揮する先遣海兵隊二三五名が上陸したのであった。
そして九月二日午前八時四五分、東京湾上の戦艦ミズーリ号で降伏文書調印式がおこなわれたのである。
【幻の四日間「直接軍政」】
米軍は東京湾岸をはさむ館山と横浜に、それぞれ正規軍を上陸させ、首都制圧のさみ撃ち作戦を計画した。九月三日午前九時二〇分、カニンガム准将が陸軍第八軍の正規軍約三千五百人を率いて館山に上陸した。この部隊は日本軍の武装解除と民政監督を任務にした。
九月三日付で「米軍ニヨル館山湾地区ノ占領」六項目の指令を出し、二四時間以内に軍需施設の位置図や交通施設等の概況を報告することと、占領軍は館山の軍政のために軍政参謀課を設置するとした。
「一切ノ学校ヲ閉鎖」命令をはじめ、劇場や酒場の閉鎖、午後七時から午前六時まで市民の外出禁止など、日本本土では初めて「直接軍政」を敷いたのであった。
驚いた館山終戦連絡委員会は、すぐに政府に連絡し、アメリカ太平洋陸軍総司令部に中止を求めた。
結局、館山の占領軍は新聞で「米軍と市民との間に突発しそうな事件を未然に防ぐのが第一の目的」と表明し、学校の開校や酒場営業を許可した。
戦後史において館山の「直接軍政」は、謎のまま幻の四日間として、今日にいたっている。